ACT224 巣箱の蜜蜂 其の六
ACT224
練習が終わる。
感じ取った異変を、追うことができなかった。
視線は消失し、その元をつかみ損ねた。
一番近い視線は、中央公園からも感じていた。
中央公園から二つ。
東と西から感じた。
だが、追うために視線や意識を向けるが、見極める事ができない。
視線なのだから、それを向ける存在があるはずだ。
昼日中だが、亡霊のように透明なのか?
例え透明でも、私には見えた筈だ。
それが異形、異界のものであれ、見えたはずだ。
だが、その消失する感覚を捕まえようと眼をこらしたが、何も見えなかった。
公園の緑の木々、水、花、鳥、小動物、石、彫像、提灯、そして集まった人々。
人垣を透かし見ても、視線の持ち主らしき、奇妙な感覚は得られない。
だが、祭りでは逃すものか。決して逃さない、ゆるさない..
季節は緩やかに変わっていく。
風に含まれる匂い、水の味。
土の軟らかさ。
常につきまとう居心地の悪い不安も、そして悲しさや寂しさも、一瞬美しいこの世界に呑まれて消える。
窓から見える景色。
食卓に着く人の顔。
いつも夢の中にいるような母親と、お喋りな娘の姿。
窓辺にて居眠りをする息子。
切り取られる日常。
陶器の美しい模様。
お茶の道具を運ぶ年老いた召使い。
鼻にかけた眼鏡を手に、朝食の出来上がりを見る祖母。
謎めいた微笑みで、街で配られた号外を傍らに立つ従者に見せる公爵。
射し込む朝陽に輝いて見える従者の鬣。
切り取られ影絵のように動きを止める世界。
私は、ひとり、部屋の片隅にいる。
深緑の天鵞絨の椅子に腰掛けて、書物をめくる。
私は高く高く舞い上がる。
これは想像という人の作り出した景色ではない。
私という種族が持ち得た物。
グリモアとの相性が良い小さな小箱に詰められた大きな翼。
アンネリーゼの玩具。
或る男の物語。
彼は昼の鐘で眼を覚ます。
何故なら、彼のお勤めは殆ど夜だから。
仲間達が早朝からお勤めを始めるのに、彼だけは昼に起きだし日没に動き出す。
何も好んで夜ばかり勤めにあたっている訳ではない。
他の者が中々、約束事を理解できずに勤めを果たせないからだ。
約束事を理解できない。
何も難しい規則がある訳ではない。
ただ、夜のお勤めには、守らなければならない事が多々あり、それを守れない者は、続かないのだ。
続かない。
そして、その続かない意味を考えてはならないのも、このお勤めの約束の一つでもある。
食事をとり身支度を整え、一通り禊ぎを終える。
禊ぎといっても、神に仕える方々のような事をする訳ではない。
下働きの者が暮らす建物の隅、そこにある簡素な祭壇に祈るだけだ。
水と食物、そして茶や果物、花を捧げる。
そうして香を炊き、石の祭壇に頭を垂れて祈るのだ。
今宵も生きて勤めを果たせますように。
今宵も皆、魂が安らかでありますように。
魂が安らかに、眠りの中にありますように。
祈りを終えると、差配所へと向かう。
神官や巫女達に会えば頭を垂れて通路の脇に控え、仲間に会えば会釈し微笑む。
様々な種族、身分、雑多で多彩。
それでいて下働きの肩からたれる帯や、神官達の服装により、或る程度の役目がわかる。
彼の肩からは、長年、良く勤めたとされる紫の帯が斜めにかかっている。
上位の神官達から信頼が厚いとの証拠であった。
口が堅く、身寄りがないから。
と、彼はその信頼の紫帯に関して思っている。
思慮深いのではない。単に面倒を忌避し寡黙にしているだけ。
そして寡黙にし、見て見ぬ振りができなければ、孤独な身の上では生きていけないから。
彼の中では、そうした諦めと皮肉な考え方ができあがっていた。
だからこの場所に馴染んでいたが、嫌っている。
神殿は嫌いだ。
もちろん、神官や巫女や、一握りの立派な方々を尊び敬う気持ちはある。
真に救済の道へと進む者も見てきた。
だが、この神殿という囲われた場所は、底の見えない沼だと理解していた。
人が飲み込まれる底なし沼だ。
そして最近思う。
今まで、神殿の中で行われる権力闘争が一番恐ろしいと信じていた。
だが、誠に恐ろしいことは別にある。
そして、信仰は必要であると今更思い始めていた。
差配からお勤めを承る。
今宵は新月。
皆、一様に避けた墓所の見回りを割り振られる。
彼は一度として、与えられる勤めに否と答えたことがない。
だから、今夜も諾と返す。
何を見ても聞いても、どの場所に逃げたとしても、同じだから。
恐ろしい出来事を間近で見るか、想像して更に恐れるかの違いだ。
見なければ怖く無いというのは、知らなければという前提が必要なのだ。
知っている者には、無意味なのだ。
彼は同じく割り振られた者を見回す。
いずれも、初めて勤めを果たす者ばかりのようだ。
差配が彼らに、注意しなければならない事を話す。
彼はそれを聞き流しながら、必要な物を手に取る。
角灯と念の為に蝋燭と火種。
蝋燭と火種は濡れないように腰の巾着へと入れる。
防水の小さな巾着には、他に小刀と砂の小袋が入っている。
膝と足首に布を巻く。
同じく布を丁寧に巻き手袋をつける。
他の者は差配から灯りや、今宵の墓の巡回の手順を聞いている。
簡単な仕事だと、その話は締めくくられる。
専任の墓守の言う事を良く聞き、夜に数度見回るだけの話だ。
確かに、と、用意をしながら彼は思う。
見回るだけの事だ。
この都の墓所は、三つに分かれている。
高貴な方々は、陽当たりの良い一角に。
贅沢な彫像や立派な墓碑が並び、ちょっとした芸術鑑賞ができる。
そちらは専任の墓守の建物が近くにある。
夜になって、贅沢な装飾を盗みにくるような輩がいるからだ。
もちろん、盗みに来て後悔をする。
ここに来たことを後悔するだろう。
都の墓所から何も持ち出せはしない。
命を落とすだけである。
だから、墓守達は盗人を見かけたら助けねばならない。
難儀な仕事だ。
高貴な方々の墓は鉄柵がまわっている。
そして、その鉄柵を囲むように裕福な階層と、昔から都に住む者達の墓がある。
古い家柄の下級の貴族達も、この辺りに眠る。
都で墓と言えば、この辺りの事だ。
高貴な方々の墓を一割とすれば、残りの八割の広さが当てられている。
そして墓所の片隅に庶民の墓が。
庶民は火葬され、共同の墓に集められる。
供養する塔があり、下々の者はここに祈りを捧げる。
だから、個人の墓は無い。
それでも、供養されるのだから、良しとするしかない。
ただ、この墓にも、入れない例外がある。
犯罪を犯した者だ。
素性の分からぬ者は、無縁の者として共同の墓に入る事ができる。
だが、犯罪者は、それにあたらない。
彼らの亡骸がどうなるのか?
火葬し墓地の一角にある穴に埋める。
墓地といっても、墓地の区画から少し離れたわざと藪になっている片隅だ。
共同墓地とは違う物で慰霊の碑があるだけの物だ。
昔は野ざらしにして、荒野に遺棄したとか。
だが、そんな事をすれば疫病がでる。
つまり、人は死ぬとここに集められる。
墓碑があるかないか。
過去帳があるかないか。
現世のそうしたしきたりを除けば、都で死んだ者は、皆ここに集められるのだ。
もちろん、故郷に送られる者もいるが。
そして、どこで火葬するのか?
高貴な方々は、それぞれの血統で火葬が必要でない方々もいる。
だから、高貴な方々の始末の付け方は、知らない。
知る必要がないと、男は思っている。
男が知っているのは、庶民の火葬だ。
それは墓地から離れた、神殿の裏手にある。
大きな墳墓のような所で、日夜、人を焼いている。
昔は土葬もあった。
だが、疫病と、忌まわしい出来事がおこり、人は、死んだら焼く。
昔は別れを惜しみ、生き返りを望んで二晩ほど待ったものだ。
だが、今は絶命と共に、その日の内に焼く。
もし、半死だったらどうなるのだ?
とも思うが、今では、それが当たり前になった。
焼かねばならぬと国が決めたから。
そこで、昔あった小さな焼き場が、大きな物に変えられた。
人の焼かれる臭いが都に流れぬようにと、大がかりな焼き場が神殿に造られたのだ。
焼きのお勤めも厭なものだ。
だが、この墓守の手伝いが、一番忌避されている。
焼きは、お清めだと思っていられるからだ。
墓守の建物は白い石でできている。
夜だというのに、青白く浮かんで見えた。
そして扉の両横には大きな灯りが置かれていた。
高貴な方々の墓には、所々に、角灯が置かれている。
だから、最低限の足下の視界はあった。
墓守は大きな男達である。
専任の墓守は、神官ではなく、神官に使える補佐だ。
力が強く、あまり想像力の無い男が多い。
今宵は二人が夜番のようだ。
彼らは男達を二手に分けると、明け方までを四つに区切り、交代で巡回させる事を決めた。
彼は二番手の組になった。
それまでは、夕時の食事をとり、体を休める。
簡単な仕事だ。
この神殿の管理する墓所は静かだ。
広大で静かで、暗い。
墓所の場所からして、暗く静かなのは当たり前だ。
墓参する人々は気がついているだろうか?
ここが外郭の内側では無いことに。
墓は一番内側である一番壁と中間の二番壁の間の地所を利用している。
そこへは神殿の北西にある回廊を利用して入る。
だから、都の人々は、墓は神殿に隣接していると勘違いしている。
本当は、回廊が一番壁を地下で通過して、外へとつなげているのだ。
だから、墓が神殿の側にあると勘違いしてしまう。
相当の距離を歩くが、暗く長い回廊が曲がりくねり感覚を狂わせるのでわからないのだ。
広大な外壁の間の地所は、鬱蒼とした木々があり、これもまた感覚を狂わせる。
だから、ここが何処だかわからない。
もちろん、気がついている者はいる。
男は気がついてるし、墓守は当然知っている。そして、神殿の者も国もだ。
だが、あえて墓はここにあるのだと誰も言わない。
それが最初の約束事だ。
墓は何処にある?
もちろん、神殿に。と、答える。
ここは神殿が管理する場所だと、言わなければならない。
死者が忌むべきなどという考えが浮かんではならないからだ。
交代の時間だ。
自分の持ち物を確認する。
今日は特に念入りにだ。
新月は暗い。
灯りこそが命綱だから。
見回りは墓守の棟から二手に分かれる。
ぐるりと墓をお互いに逆回りするのだ。
すれ違い元の建物まで二刻、それを三回行う。
異常があった場合は呼子を吹く。
いつも思うのだが、この広大な敷地で呼子を吹いて誰が来るのだろうか?
見回りの者の位置によっては、一刻はかかるだろう。
まぁ、それを言っても無駄である。
彼は角灯を掲げると仲間と共に闇に踏み出した。
灯りに白く浮かぶ砂利道を歩く。
連れの者達は、ずっと喋っている。
彼は黙って先を歩く。
お喋りを注意する事は無い。
もちろん、ここでのお喋りは禁忌だ。
見つけてくれと言っているようなものだから。
でも、注意はしない。
喋らなければいいのだ、自分だけは。
最初に墓守から注意されている。
責任はそれぞれ己でとれば良い。
彼は角灯を掲げて、黙って歩く。
幾たびも、こうして夜を過ごしてきた。
だから、彼にはわかっていた。
アレは月に支配され、光りや炎、陽の輝きを恐れている事を。
ただし、夜だけが危険なのではない。
昼でも、薄曇りや雨の日は、危ない。
数は少ないが、こっそりと蠢いているのを見たことがある。
皆、気がつかない。
気がつかないが、確かにいる。
でも、彼には、アレをどうにかしようなどとは考えない。
孤児で身より無く、財産も、愛する人も無い。
けれど、耐えられる内は、生きていたい。
虚しい人生であっても、彼はまだ、死にたくもないし、飢えたくもない。
だから、彼は正しいとは思わないが、慎重に注意深く様々な事を忘れるようにしている。
もちろん、約束事以外を。
そうして、今夜も彼は墓を巡回する。
酷い臭いだ。
時々、夜気を臭気が押しのけている。
共に歩く者達も気がついて、灯りを翳しては原因を探す。
巡回の道をはずれて、林立する墓石の間を見て回る。
もちろん、彼は、巡回する道をはずれない。
「おい、一人はぐれた」
そう告げる仲間に、彼は頭を振る。
「探さないと」
彼は肩をすくめた。
ここは迷路ではない。
無事なら帰り道はわかる。
決まった道を家畜のように歩くだけなのだから。
彼は先に歩き出す。
他の者は、はぐれた者の名前を呼んで再び散る。
ただ、一人だけ年若い男が、彼の後に続いた。
何か言いたそうにしていたが、無言で彼の灯りの後に従う。
順路の途中で反対回りの仲間に出会う。
「他の奴らはどうした?」
彼は無言で肩をすくめた。
そうして後ろを振り返る。
すると、勝手に後から来るのだと相手は解釈した。
そうして歩き出す。
ぐるぐると歩く。
彼ともう一人が、時間をかけて規定道理に歩き抜く。
そうして墓守の棟にたどりつくと、出迎えた墓守の一人が頷く。
中に入れと促される。
彼ともう一人が部屋に入ると、代わりの巡回の者が出て行く。
「どういう事なんですか?」
墓守の棟には、彼らの連れは、誰一人まだ戻っていない。
暖かな部屋の中、残った墓守から茶を渡される。
年若い男の言葉に、墓守は笑った。
「最初に言った筈だ。
墓を回る時は、沈黙する。
順路からは、何があっても外れない。
異変があったら、笛を吹く。
灯りを絶やさない。
この四つを守らなきゃ、夜の墓巡りはできないと。
何、難しい事じゃぁ無い。
この墓所は、迷路のようなものだ。
順路から外れると出れない。
だから、まじめに仕事をしろって事だ。
帰ってこない奴らは、少し、気を抜きすぎただけのことだ。
明るくなれば、戻れるさ」
そういうと、年若い男を宥めた。
年若い男は、落ち着き無く体を揺らしている。
年若い男も、アレを見たのだ。
だから、戻ってきた。
運が良い。
仲間を捜そうとした男は運がない。
それだけだ。
その晩、二度目の当番が来ると、交代で戻ってきた者は、やはり数人に減っていた。
皆、無口になった。
喋る事が危険だと気がついたようだ。
神に仕える方々は、この出来事に困惑している。
原因もわかっている。
今まで、神のお力添えにより、このような忌まわしい事柄は鎮まっていた。
だが、所詮、神に仕える方々も、人にすぎない。
どのような生まれであろうと、死ぬ定めの人にすぎない。
権力に靡き、そして人の道を踏み外した。
神のお力添えが失われたのだろう。
この臆病な魂が、本当の救いを求めるのならば、声をあげて、正道を訴えるべきであろう。
だが、私は怯えて沈黙する。
心のどこかで、苦しめばよいと思う自分がいるのだ。
偉そうな事を言い続け、責任をとらずに、こうして生け贄を差し向ける者達が、残酷な最後を遂げれば良いと。
生け贄は我らだけではない。
そして、何れ、終わる。
そして最後の巡回。
年若い男と彼は、灯りを手に歩く。
夜は過ぎ去ろうとしていた。
だから、二人とも何処かで安堵していた。
今夜は生き延びた。
そう考えていた。
しかし、彼らは順路の途中で呼子を聞いた。
細く高く、笛が鳴る。
二人は逡巡したが、道から外れぬように先を急いだ。
灯りを振り用心しながら早足で進んだ。
あぁ、神様
と、言う声が聞こえた。
彼は足を止めた。
そして、傍らの年若い男もだ。
彼らは角灯を掲げていた腕を下ろした。
順路の先には、落ちて壊れた灯り。
腰を抜かした男。
そして、その先にはアレがいた。
順路に、アレが出てきていた。
彼は傍らの男の手首を握ると、走り出した。
無言で、来た道を戻った。
引きずられた男の口から、すすり泣くような息が漏れる。
二人は走り続け、墓守の棟まで戻る。
息を切らし、戸にすがりついていると、中から墓守が顔を出した。
墓守は、彼の様子を見て表情を曇らせた。
いつも冷静な男が、がたがたと震え、取り乱しているからだ。
「どうした、早いな」
彼は息が整うと告げた。
「順路に..とうとう壊れた」
それに墓守は頷くと中に入れと促す。
そして扉に閂をした。
焼いてしまえばいい。
と、考えた者もいた。
しかし、実体を得なければ、焼き殺す事ができない。
そもそも殺すというのは、生きている者への行為だ。
実体を得ている時間は、幸いにも夜である。
夜を凌げればいいのだ。
今までのように、囲いの中にあるのなら、そして、間違いを起こさなければ弱い存在だったのだ。
だが、愚か者のせいで、このような事に。
陽の光りが届かない時は、実体も脆弱であるが、それでいてアレを滅ぼす事もできない。
夜の間、墓は閉じられた。
陽の光りが地を照らすまで、いつも墓所は閉じられた。
そうして、たくさんの者が死んだ。
アレに喰われた者。
愚かな者によって、犠牲になる者。
たくさんの人が亡くなった。
たった一年の間に、取り返しがつかない程の人が亡くなった。
そして、王が変わり、再び、夜のお勤めに戻される。
彼は、灯りを絶やさぬようにと気を配る。
何が恐ろしいのか?
決まっている。
単純に死を恐れているのではない。
アレを見てしまう事。
アレになってしまう事。
見たら探してしまう。
見知った姿を。
そして、アレに喰われたら、死ぬという人としての最後の救いを失う。
あぁ、神よ。
と、胸の内で呟く。
今宵も皆、魂が安らかでありますように。
魂が安らかに、眠りの中にありますように。
書を閉じる。
緑の装丁の日録には、淡々とした筆致で、恐怖が綴られていた。
男の世界は狭く、そして静かだ。
先にコンスタンツェが読んだ、墓を汚す者と儀式の話を書いた者とは、別の者ように思えた。
つまり、当時、神殿で暮らしていた者は知っていたのだ。
だとすれば、今の神殿にいる年輩の神官も知っていて当然ではないだろうか?
それとも、当時の神殿の権力層は全て粛正されているのだろうか?
それもあり得る。
名無しに通じていた者は、一転して迫害され処分されたと考えても良いだろう。
現公王の敵対勢力と見て間違いないのだから。
審問官ならば、知っているのではないだろうか?
だが、彼らは今、東の地に多くを出向させている。
そして、私自身、彼らと接触して得る事よりも、身動きがとれなくなる事が予想された。
カーンに、この化け物の事を知らせるべきだろうか?
軍は、この化け物を把握しているだろうか?
軍、この場合、人族の支配層以外の、獣人達は知っているのだろうか?
そして、彼は、知っているだろうか?
名前を聞かず、気がつかぬふりをしても、呪われた弟が誰であるかなど明白だ。
彼の立場なら、この忌まわしい化け物が、何であるか、そして名無しの愚行が化け物を動かしていると知っているだろう。
それに対抗する処置が、今までの、慰霊の儀式の強化である。
必ず行われなければならない。
とは、そういう意味なのだ。
そして、それは奏効していた筈なのだ。
だが、うまく行かなくなっている。
つまり、何か愚かな事を誰かが為しているのだ。
このままだと、名無しの災禍と同じ一年を迎えてしまう。
たくさんの人が、死ぬ。
安らかならざる魂が増えてしまう。
そういう事なのだ。
一つの対処法としては、春の儀式である祭りを、何事もなく終わらせる事である。
私が踊り、見届け、グリモアとアンネリーゼの力を注ぎ、力業で終わらせる。
そうすれば、後の一年、猶予ができるはずだ。
墓守の順路が結界だったように、この都が閉じこめる囲いになるだろう。
疑念がある。
アレが私の想像する物であるならば、二つの結果を求めて、愚か者が行動している可能性がある。
可能性の一つは、死者の理の破綻。
もう一つは、神の顕現を求める受肉の儀だ。
二つとも同じ結果を、別の様式にて求めている。
復活である。
この疑念が当初から、頭を離れない。
不死ではない。
死者の復活である。
死者を使役し動かすのではない。
循環に入るべき魂を理から切り離し、新たな肉体に入れる。
最大の禁忌だ。
死体に死ぬべき魂をつなぎ止める。または、浮遊する霊を召還し死体に込めて使役する。これが死霊術である。
あくまでも、一時的に魂を捕らえ、死体を器としている。
反魂とは、死んで間もない肉体に、一時的に魂を戻す事。
これも何れ、死ぬ。
これに近しい行いが、ニルダヌスの妻に行われた事だ。
そして死者召還。
循環に入る前の魂を呼ぶ。
死霊術の一つであるが、より高度である。
死体という触媒を失っている死者を、領域まで干渉して形にする。
これも一時的に在りし日の姿を再現できるが、死者に変わりはない。
ゲオルグが妻へと通ったのが、それにあたる。
何れも同じように思えるが、復活は別だ。
復活、受肉の儀に必要なのは、死体ではない。
生きた人間の器に、魂を入れるのだ。
つまり、誰かの肉体に、別の魂を入れる。
肉体の持ち主である魂を殺して。
乗り移る、乗っ取る?
どの言い回しが正しいか、わからない。
只、それが人を殺す事であるのは確かだ。
人は、神にはなれない。
小さな幸せで十分ではないか。
毎日、健康で、飢えずに、そして安らかに生きていけるなら、十分ではないだろうか?
もしも、愚か者が求める何かが、私の想像する物ならば、言ってやりたい。
それで恐怖は消せるのか?と。
春の陽に、祭りの始まりをつげる花火があがる。
麗らかで、花の香りがする風が吹く。
街のざわめきに、楽しげな音楽が混じる。
子供の声、誰かの笑い声、水の音。
遠く近く、様々な人々の楽しげな気配。
都の囲いの中は、楽しげにわきたっている。
まるで巣箱の蜜蜂のようだと思った。
道々に、角に、兵士が立っていても。
いつもより、人の出入りが制限されていても、皆、楽しそうだ。
私は、リアン達家族とターク公、ニルダヌスと共に祭りに行く。
フェリンは、留守番をかって出た。
家で人形を作っているという。
アンテも一緒に残るという。
春先の陽気に、関節炎が疼くとか。
私は祭りに行く。
多くの娘達と同じく、祭りに行く。
屋台を見、大道芸を、そして野外劇場に足を運ぶ。
大小様々な催し物を見物し、祭りを過ごす。
楽しく笑い、寂しさと虚しさを閉じこめて祭りを見て回る。
時々、ターク公は私に言う。
大丈夫か?と。
私は大丈夫。
まだ、大丈夫だ。
そうして、祭りを堪能し、何事もなく時が過ぎる。
あっという間に、娘舞いのある最終日になる。
奇妙に、私は落ち着いている。
そして私は、何故か、知っていた。
今日が、最後だと。
琥珀の鈴をつけながら、少し笑う。
祭りの朝に、カーンが迎えに来た。
踊りを見届けるつもりらしい。
怒った顔が、とても、うれしく感じた。




