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冬の狼  作者: CANDY
降臨の章
254/355

ACT223 巣箱の蜜蜂 其の五

 ACT223


 非難される。

 怒りを向けられる。

 蔑まれる。


 辛く痛い感情を予想するよりも、最初に浮かんだのは、別の思いだ。


 別の、もっと苦しい感情だ。


 私は眼を見開く。


 ただ、見つめる。


 忘れたくない。

 死ぬ、よりも無くしてしまう事が恐ろしくて。


 私は、見る。


 きっとすべてが終われば、より強固な約束ができあがり、忘却する。



 この人の中にいた、私の日々は、消える。



 だから、何もかもが貴重で、眼を見開いていないと、眼の奥が痛くて余計な醜態を露呈してしまう。


 私は眼を見開き、大きく幾度も息をする。

 眼の奥が痛くて、飲み込んだものが苦くて。

 瞼と鼻が赤くなるのを誤魔化そうと、息を吐き出す。



 ぼやける景色に、声が届く。


「姫の待っていた方ですよ。シュナイ殿、バルドルバ卿です。」


 ターク公は、カーンに手を上げて合図した。


 それにカーンは、テトの首の筋をつかむと、噛みつかれている腕から引きはがした。


「えらい歓迎ぶりだな。おい、なんでいつも俺を噛むんだよ。もっと他にいるだろうが。」


 つり下げられたまま、テトは威嚇音を出し続けている。


「そりゃぁ、一番の不審者は、厳つい貴方のような男でしょう。私は、最近、姫の爺やになりましたからね。」


「爺や..空耳か?

 貴殿を爺やと呼ぶ奴がいたら、それこそ正気を疑う。

 おぅ、初めてか?」


「グリューフィウス子爵です、側に控えてもらっています。

 そして、そこの可愛らしいお嬢さんが、彼の妹です。」


 シュナイが礼を返す中、私は動揺を沈めようと視線を落とした。


 春の陽射しが眩しいだけだ。


「まぁ現れるのは分かっていましたが。何故、今、ここに?」


 公爵の問いに、カーンは掴んだテトをぶらぶらと揺らした。


「こいつを始末してくれ」


 兄の後ろに隠れていたリアンの顔色が白くなった。

 それにターク公は笑った。


「リアン、その子を受け取って抱っこしていてもらえますか?女の子に抱っこされていれば、卿に噛みつく事はありませんからね」


 ビクつきながら、リアンは兄を見上げた。

 そしてシュナイが頷き返すの見てから、彼女は恐る恐るカーンに近寄った。

 それにカーンは頭を傾げると、リアンにむけてテトを差し出した。

 喉奥で不満そうに鳴いているが、少女の震える手がさしのばされると、途端に尻尾を腹に巻き込み、無害そうな顔つきになる。


 舌打ちとともに落とされた猫を、リアンは飛び上がって受け取った。


「それで?」


 ターク公の問いに、カーンは首を傾げたままテトとリアンを見ている。


「何故、今、姿を?」


 区切るような言い方に、カーンは眉をあげた。

 そして面倒そうに後頭部をかいた。


「愚問だな。俺の仕事は何だ?」


 カーンの答えに、今度は公爵が首を傾げた。


「まぁ、そうでしょうがねぇ。

 だとしても、こんな場所に昼間から現れるのは、普通じゃぁないでしょう?」


「往来で話す事じゃない。で、何をしてるんだ?」


「見たとおりですよ。姫の鈴を買いに来たんです。

 この屋台を見て、野菜を買いに来たとでも思ったんですか?」


 それに笑いを返すと、カーンは怠そうに肩を回した。

 それからゆっくりと私に顔を向けると言った。


「かも知れねぇだろ、なぁ?」


 そうして、眼をあわせると続けた。



「怒ってねぇよ」



 カーンは静かに宥めるように言った。



「俺達は繋がってる。

 だから、お前が何を考えているかわかる。だろ?


 なら、俺の事もわかるはずだ。


 俺が怒っているように感じるか?

 よく、見ろよ。んん?」



 私は恐れている。

 繋がることを、そして別れる事を。

 矛盾に身が引き裂かれそうだ。


 だが、確かにカーンからは怒りを感じる事はなかった。


 とても、静かだ。

 静かで、何故か優しい。


 私は、笑おうとした。

 だが、うまく笑えなかった。



「鈴か、鈴を何故、買うんだ?」



 何を問われても、今の私には何も答えられそうもない。

 不器用に笑顔をつくるだけで精一杯だった。


「祭りの準備ですよ。踊る時、必要なんです。

 姫に似合う色は何でしょうねぇ、そうだ、卿が贈られるのが一番..あぁ、マズいですねぇ」


 合わせていた視線を逸らすと、カーンは唸った。

 人のではなく、獣の唸りが喉奥から漏れる。

 それにターク公が、珍しく顔をひきつらせた。


「踊る、だと?

 参加の必要もない、まして、戒厳令のさなかという時期に、踊る?

 聞き違いだよな。

 公爵、まさか、冗談だよな。

 穏便に過ごす筈が、逆戻りしただけじゃぁたりねぇのかよ。」


「そうですね、ハハハ..」


 怒っていないと言っていたのに、男の形相が変わっていた。

 擬態を解いていないと言うのに、縦割れの虹彩が引き絞られ犬歯が伸びた。

 皆から息のひきつるような気配がし、そして。


「オリヴィア!また、危ねぇ事に首を突っ込んでるな!

 こっち向けっ、こら逃げんなよ、おい!」


 怒鳴り声を聞いた瞬間、シュナイの真後ろに三人とも逃げた。


「アンタも爺やを名乗るなら、何で止めねぇんだよ、おい..何で、このあんちゃんの後ろに隠れんだよ。こら」


 独特の巻き舌で怒鳴るとカーンはうなだれた。

 急に元気を無くした男に、皆が恐る恐る眼を向ける。


「御恐れながら、発言をお許し願えますでしょうか..」


 ぐいぐいと三人ともに押し出されたシュナイが、無表情のまま言った。


「何だ?」


「ここでは耳目もごさいます。できれば、あちらの用水縁へ移動をされたほうがよろしいかと」


 確かに、私たちと武装した男の組み合わせは異様である。

 昼日中、完全武装の獣人兵が都内を闊歩している姿は、不穏としか言いようがない。

 もちろん、カーンやその配下は、あらゆる場所で武装が許されている。だから普通の事なのだろう。

 ただ、下町の商業区、それも庶民の日常に接した場所に現れるにしては、異質だった。

 公爵が、どうして昼間に現れたのだ?という問いもそこにあるのだろう。

 彼がここにいるという意味が何を示すのか。


「おい、この爺やはボケたのか?

 踊りってのは、まさか祭りの踊りじゃぁねぇよな。

 俺の聞き間違いだよな?」


 空気と化していたニルダヌスは、うやうやしく礼をしてから答えた。


「間違いではございません」


 舌打ちにリアンの体が跳ねた。











 遊歩道の街路樹が生える土手の向こう、用水の縁には菜の花が植えられていた。

 黄色に咲いた花から、良い香りが漂う。

 買い物客や散歩する人、子供が声を上げて走り抜けていく。

 馬車道の方向からは馬の鳴き声と、活気あふれる人の声も流れてくる。


 そして、用水からは絶えず水の囁きが流れていた。


 穏やかで清浄。

 春の一日は、光りにあふれている。


 シュナイは護衛の為に離れる事を許されていない。

 公王からの護衛だからだ。

 ターク公とニルダヌスはリアンとテトを連れて、鈴の屋台を流し見ている。


 私とカーンは用水縁に並んで立ち、少し離れてシュナイは遊歩道を向いて立っている。




 何から話すべきだろう。

 私は黄色と緑の鮮やかで優しい景色を見ながら考える。


 考えてみれば、カーンは巻き込まれたのだと思う。


 私の業に、巻き込まれたのだ。


 今までの事を並べると、私は巻き込まれた辺境の民。

 だが、事実は違う。

 辺境にいた火種を、カーンが拾ったのだ。



 被害者であるカーンに、私の出自にまつわる因果を話すなど以ての外だ。

 宮の主に眼をつけられているのだ。これから天寿を全うし、彼の人生を歩ませるには、沈黙と忘却が必要なのだ。


 未練たらしく、忘却を恐れてばかりではいけない。


「なんで、こんな事になってるんだ?」


 カーンは、私を見下ろすと呆れたように言った。

 それから、ひょいといつものように抱え上げた。

 すると視線が高くなり、いつものように私は相手の首に手を置いた。


「祭りを見て回るのはいいが、踊るのは止めだ。

 戒厳令も出てる。

 事故があったって話だ。

 俺の方には、もっと物騒な情報も入ってる。

 今から、お前を外に出した方がいいとも思ってる」


(東のお仕事は終わったのですか?)


「継続中だが、関連したお仕事って奴で来た。

 暫く、この都で活動する。

 今は緩和されているが、状況によっちゃぁ戒厳令がもっと厳しくなるだろう。

 祭りなんぞ、中止すりゃいいんだ」


(軍は中止を決めたのですか?)


「調整中だ。どうしても、首を縦に振らない奴らがいてな。人死にが出て、破壊活動でも始まらなきゃ中止にしないつもりらしい。馬鹿な話だ」


 公王と神殿の者は、中止を認めないだろう。

 だが、理由を言う事はできない。

 カーンの話からすれば、永遠の約束については軍部に浸透はしていないのだろう。


「だから、今からでもお前を外に出すつもりだ」


 私はそれに頭を振った。


 カーンは一旦口を閉じる。

 それから再び私を見つめたまま続けた。


「理由はあるんだろう。

 お前なりの理由がな。

 単に祭りが楽しいからと言う理由なら、俺も安心できる。

 でも、違うんだろう?


 なぁ、外へ出よう。

 トゥーラアモンのチビの所でもいいから、ここから離れていろ。

 来年だって再来年だって、祭りはあるんだ。」


 私は、頭を振った。


「無理にだって運び出せるんだ。

 お前をここに置いておきたくねぇんだよ、わがまま言うな」


 わがままと言いながら、押し寄せてくる感情は、酷く優しかった。



 この男から、優しい感情を与えられるとは思ってもみなかった。

 そして、それは酷く辛いと知った。




 あぁ、逃げたい。

 あの最初の宿場で考えていたように。




 私は首にしがみつくと叫んだ。

 声を失って以来、初めて、私は届かない叫びをあげた。




 逃げたい!


 遠くに、遠くへ、逃げたい!



 でも、何処に逃げ場があるのだ?


 この世界は薄い境界があるだけだ。

 だから、すぐ側に奈落がある。

 地を何処までも逃げたところで、すぐ隣には真っ黒な穴がついてくるのだ。



 私は叫んだ。



 怖いよ、独りぼっちが、怖い。

 だから、一人で逃げるなんてできない。

 怖くて、臆病だから、なおのこと逃げられないんだ!



 そうして誰にも届かない叫びを終えると、次に聞こえるように念話で伝えた。




(どうして逃げねばならぬのですか?

 私は、ここで楽しく踊るだけ。

 今日は、鈴を選びにきました。

 お祭りは、都のお祭りは初めてです。

 皆、楽しみにしているんですよ。

 私も、とても、楽しみです。)



「俺の顔を見て言えよ、オリヴィア。

 嘘つきの強情っぱりめ。


 ほら、どうした。

 顔を見せろよ」



 私は歯を食いしばった。

 しがみつき肩越しの風景を睨む。


 歪む視界に、シュナイの驚いた顔が見える。

 私は顔を片手で覆うと、カーンの肩に伏した。



「お前を守りたいんだよ。なぁ、傷つけたくないんだ」



 もう、何もかもが嫌だった。

 自分の弱さが嫌だった。




「何で、止めない」


 カーンの言葉に、すぐ近くで答えが返った。


「責任逃れです。


 私が決める事で、間違う事が怖いのです。


 もし、止めたいと姫が望むのなら、それを叶えるだけです。

 望みのままに、するだけです。

 連れ去りますか?

 私は、止めません。


 でも、一番良い方法は、貴方が姫の心を変え、説得して連れ出す事です。


 貴方の故郷へと連れて行き、何もかも忘れて生きていけばいいのです。


 私は止めません。


 どちらを選ぶか、私の言葉など何の役にもたたない。


 それは多分、私と貴方が考える、彼女が得るべき幸せが違うのです。


 貴方は、私なぞよりも、ずっと若く、そして思うよりも生きることを大切にしている。


 矛盾ですね。


 人の命を塵屑のように奪うお人が。

 己の命を、国に差し出しているお人が。


 貴方の考える姫の幸せは、生きる事。

 平和に、穏やかに暮らす事。

 何も考えず、何も思い悩まず、そして、現実を見ずに、小さな花壇の花のように生きる事。


 ほほえましいぐらい、普通の幸せですね。



 あぁ矛盾ではないのですね。


 貴方の生業は、そうして誰かが生き残る為の捨て石。

 そう考えているのですね。」



 ターク公の言葉に、カーンは大きく息を吐いた。


「何がいけない?

 こいつは、小さな村の狩人だ。

 俺が連れ回し、結局故郷に帰れない。

 こいつが、普通の幸せを得て何が悪いんだ。」


「何も、悪くありません」


「なぁ、オリヴィア。ここはこれから物騒になる。

 だから、ちょっとだけ、外に出ていろ。

 必ず、迎えに行くから。

 約束しただろう?

 なぁ、顔、見せろよ」


(私は、お祭りで踊ると決めました。

 旦那は、昔あげた鈴を覚えていますか?)


「鈴?」


(小さな、紫の鈴です)


「..いや、お前からもらったのか?」



 私は、眼をこすると顔を上げた。


 シュナイは遊歩道を眺め、ニルダヌスと手をつないだリアンが心配そうにこちらを見ていた。



 鈴が気がかりだ。




 だが、忘却の一つに加えられている。

 無害か否か?


 主に取り上げられたのか、それとも、別の何かにより消失したのか。


 意味はあるのか?

 あるに決まっている。


 考えられるのは、鈴が形代になっている可能性だ。


 形代として身代わりになる。


 この場合、忘却という呪いにより、あるべき事柄を鈴が肩代わりしている。

 鈴は、記憶、呪い、を背負い、宮からの守りとなっている。

 だから、鈴をも思い出せない。


 それがカーンを守っている。

 毒にならぬなら、それでいい。

 因縁の鈴であれ、それが彼の身を守るなら、それでいい。

 いずれ、その鈴も必要ではなくなる。

 それでいいのだ。



(勘違いでした。なら、いいのです。)


「あぁ、じゃぁ、これからお前を外へ連れ出す。

 トゥーラアモンなら、ちょうど新しい砦ができたという話だ。

 ライナルトのところのチビ助と一緒にしばらくいればいい」


(いいえ)


「お前の意見はきかない」


(いいえ)


「おい」


 私は肩から顔をあげると言った。




(祭りで娘たちが踊るというのなら、私も踊る。


 決めたのです。


 もう十分、旦那には、よくしていただきました。

 もう、十分です。


 私の事など、捨て置くのです。

 私は、もう十分です。

 こうしてわがままを言うぐらい、とても。だから..)



「怒るぞ」



(ありがとう)



 私の言葉に、カーンは目を見開いた。



 鈴は結局、私の瞳の色の物を買った。

 琥珀色の半透明の鈴。


 不機嫌なカーンが、すべて買った。


「祭りは中止させる」


 彼は言い切ったが、祭りが中止になったとしても、踊りは中止にはならないだろう。










「おっかねぇ」


 エウロラの感想に、リアンが首を縦に振る。

 振り子人形のような頷きだ。


「おっかねぇよ、姫様。なんだよ、あの保護者。ガラの悪い下町育ちでも、ちょっと引くんだけど。つーか、なんでゴリゴリの獣人兵なんだよ。姫の保護者っつー感じじゃねぇよ」



 祭りは、中止にならなかった。

 公王、神殿、軍部、元老院、貴族院と、皆、話し合いの末、結局、中止には至らなかった。


 カーンは、不機嫌だ。

 多忙であるはずの彼が、練習に顔を出している。

 もちろん、止めろと言うが、私は聞こえないふりだ。

 今日から合同練習が始まる。

 鈴もつけ、いよいよ、輪舞の練習だ。

 輪舞の練習は、例の中央公園の露台だ。


「うわぁ、警備の兵隊がビクついてるよ。姫の保護者、何者?何者っつーか悪モンじゃぁないよね?」


「聞こえてるから、エウロラ。聞こえてるから」


「だってどーみても、破落戸が逃げ出すような顔してるし。でかいし、黒いし」


「黒いのは鎧でしょ」


「なんであんな物騒な格好なんだよ。どうみても、これから誰かをぶっ殺しにいく格好だろ。」


「聞こえてるから、睨んでるから」


「それにあの背中の得物は何だよ。つーか戒厳令でしていい武装じゃねぇよ。誰も捕まえねぇのかよ。」


 と、言ったエウロラの後頭部をシュナイが軽く叩いた。


「あだっ」


「黙れ」


「いや、だってアレ何様?」


「姫の保護者だ。重武装を許されている。それ以上無駄口をたたくな。始末されるぞ」


「げっ」


(しません)


 あわててシュナイに訂正をいれる。


 それに何とも言えない表情を返すと、シュナイはエウロラに言った。


「ああ見えて身元身分もしっかりとされている。

 姫様の事を案じておられるのだ。

 それにお前も同族なら分かっているだろう。

 獣種の方は聞いておられぬようで、地獄耳が多い。

 お前の無礼な言い様は、離れた場所でも一言一句すべて聞き取られているだろう。

 言動は慎め。

 そして、姫様に余計な事を言うな。いいな?」


「いや、旦那、旦那も結構、言ってるけど」


「何がだ?そろそろ始まる。向こうで見ているから、余計な無駄口は終わりにしろ」


「まぁいいや、同族っても、アタシは都育ちだからね。あんな極悪凶悪犯みたいなオッサン知らねぇよ」


「エウロラ、聞こえてる、ホントに聞こえてるから、やめてよぅ」


 振り返るとカーンは木陰に立っていた。

 利き手を自然に垂らし、何気なくしている。


「まぁ同族だから分かるんですがねぇ、姫様。アレ、十分警戒態勢ですね。空気が金臭いです。

 いつでも、ぶっ殺すよって感じで、すごく気分悪いです。

 まぁ、悟られるような殺気じゃないんすけど。」


 エウロラが囁いたちょうどその時、練習が始まった。




 今回の練習は、短い輪舞の部分だ。


 上級貴族の娘達は上座の露台上段、そして下町の集められた娘達は下段に分けられている。

 本来、輪舞は途中から上段下段の輪が混じり合うのだが、今回は別れたままの練習だ。

 夜の一番長い輪舞の前に踊る、短い踊りの練習である。

 下町の娘達は大方が本番用の晴れ着ではなく、普段着である。

 しかし、上級貴族の娘達は、本番さながらの衣装だ。

 もちろん、それが彼女たちの普段着、なのだろう。


 ただし、バフォーが言ったとおり、楽しげなのは下町の娘達ばかり。

 咳一つしない上段に位置する娘達は、皆、顔色が悪い。


 上級貴族の倒れた娘達二人の姿はない。

 あれほどの元気な娘が弱って寝付いている。

 それだけで、貴族の娘達は不安でしかたがないのだろう。


 もちろん、命に別状はないが、以前のような鼻っ柱の強い面影がないらしい。


 修復に手抜かりは無いと思いたいが、損失部分が彼女たちに影響を与えているのだろうか。

 もう一度、目覚めてから会いに行くべきだったろうか?


 今更な事を考えつつ、踊りの位置につく。


 教師達は娘達の輪の中に入り、楽士が合図をまつ。


 保護者達は口を閉ざし、警備の兵士と医者が辺りに注意を払う。


 バフォーの合図。


 音楽。


 私達は音の中へと踏み出した。








 くるりくるりと回る。


 景色が流れる。

 公園の緑、晴れた青空、美しい建物。

 霞む街並み、そして青白い陰に見える遠くの外壁。


 想像よりも、街がよく見えた。


 鈴の音。


 音、音楽が楽しげに大気に混ざる。


 バフォーが言う体の動きで示す言語。



 感謝、喜び、そして幸せ。



 特別な事は何もなく、難しい事も無い。


 生きている。

 それだけの事。


 踊る。

 息が弾む。

 美しい、とても、美しいと感じる。


 春の匂い、水音。


 美しい。


 命。







 不意に、私は、気がつく。

 踊りながら、気がつく。






 誰かが、見ている。


 見ている。


 それは踊りを楽しむ観客ではない。


 心配している保護者達でも、兵士でも、もちろん、カーンやシュナイでもない。


 見ている。


 目を凝らし、見ている。


 命を。


 踊る私と遊離した意識が、懸命に視線を探す。



 誰だ?


 誰が見ている?






 一つ、ではない。



 見ている。



 踊りを見ているのではない。



 命を見いている。


 喰らう命を探している。





(誰だ?)


 私は賑やかな舞いの中で、問い探す。


 見ている者は、答えない。



 だが、それの眼がギョロリと見つめ返すのがわかった。


 ただ、それが何処にいるのかわからない。



 何故なら、それは近くにも、遠くにも、そして都中から見られているように感じたからだ。


 ぎょろりと、痙攣する目玉。










 無数の影と目玉?
















 練習は無事に終わった。

 私は露台から見回す。

 視線は、もう、感じない。




 目玉?


 ここにも墓石から漏れ出す影があるのか?


 墓石?

 墓石の記述が書かれた書物を忘れていた事を思い出す。

 戻ってきた書物に眼を通すべきだった。


「どうした?」


 中々露台から降りない私を、カーンが抱き下ろした。

 そのまま、抱えて休憩している皆の元へと向かう。


「怖っ、やっぱ誘拐犯って感じ?」


「聞こえてるから」


「そうなのか?」


「爺さん、どうみても、あれ、堅気じゃねぇよな」


「お前の爺さんじゃねぇ、まぁ、そうだな。ちょっと白夜街でもみねぇ面魂だな。フローレンスの婆さんが好きそうだ」


「婆さんじゃねぇよ女装のおっさんじゃん。」


「あぁなると男も女もねぇよ。」


「お前達、いい加減にしろ。無礼打ちになりたいか?」


「あだっ、旦那、痛い」


 シュナイがエウロラを張り飛ばした。


「いつもこんな感じか?」


 カーンの問いに、シュナイが頭を下げた。


「いや、別に怒ってねぇさ。面が悪いのは生まれつきだ。おかげさまで、面だけでも敵はビビるからな」


 そういうとエウロラに犬歯を剥き出しにして笑って見せた。


「うわぁ、こえぇ。姫は怖くないのか?慣れって凄いなぁ」


 眉間にしわを寄せると、彼女は腕を組んで感心したように頷いた。


「あぁやっぱ、そいつ腹立つから、一発、頭をはっとけや」


 言われたシュナイが手を出す前にエウロラは逃げ出した。

 しかし、正面に座っていたバフォーが代わりに額を叩く。


 良い音が辺りに響いた。

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