Act25 回廊
ACT25
岩場を登る。
天井の亀裂は闇に落ちており、その先は見えない。
蝙蝠どもが肉を喰っているうちに、壁を伝い亀裂に取り付く事になった。
幸い、私自身は身が軽い。
重装備でもなく、血塗れの手袋を外せば、それで支度はできた。
カーンはといえば、それなりの金属装備である。剣自体の重みもあるが、手足の装備は垂直の壁を登るのには適していない。かと言って蝙蝠どもの食欲がどれほどかも見当がつかない。迷っている時間は無かった。
分厚い金属織りの手袋と取り外しの簡単なものを外すと、私の背嚢に括り付ける。
小物でも大男の装備は重かった。
しかし、この先も腐肉を見ることになるなら、カーンの武装を剥ぐのは拙い。
私が足場を見つけながら、先に登る事にした。
無言で壁の亀裂を足がかりに登る。
どうやら、元々の円蓋天井が崩れて岩盤が押し崩れているようだ。
思ったよりも足場がある。
鳥の巣を探すよりも楽ではある。
只、登った先に卵や雛がいる訳ではない。
居るとしたらば、カーンの言うところの地獄の住人だろう。
体を押し上げ、黙々と上がる。
天井近くの亀裂までは壁から少し距離がある。あの穴に取り付くには、天井に手の力だけで取り付くことになる。
太縄を持って来なかった事が悔やまれる。手元にある縄は、カーンを支えるには細い。
もちろん、私は天井を伝うくらいの筋力はある。
振り子のように片手で体を支えつつ飛ぶ。
化粧板の部分は脆そうなので、突き出た岩肌の窪みや割れ目に指を入れる。
下は見ない。
落ちれば死ぬ高さだ。
五人の血肉に群がる蝙蝠もいる。
吐き気は収まりつつあるが、息が切れて胸が苦しい。
暗い窪みから冷たい空気が顔に吹き付ける。頭上の穴に手がかりを探して、手を入れた。
噛み千切られる事は無かった。
穴の縁はざらざらとして、手が滑ることは無かった。
しかし、それまでの筋肉の酷使で身を垂直に引き上げる事ができない。
振り返ると、まだ、壁の中程で苦労する男の姿が見えた。
あんな男でも、苦労するのか。
その姿を両手で穴の縁にぶら下がりながら、しばらく見物した。
転じて足下では三体の男が白骨になりかかっている。あと二体で肉はなくなる。
私は深呼吸すると、腕に力を込めて体を引き上げた。
上半身を乗せて、下半身を片足ずつ引き上げる。そのまま、横に転がると息を殺した。
気配を探るが鼻の先まで見えない闇だ。目を見開くが見えない。
穴だけが下からの光を帯にしている。
私は手持ちの角灯に火を入れるか悩んだ。見えない事が有利なのは、相手も見えない場合だけだ。
私は角灯を灯した。
暗い。
小さな灯りだが、足まわりほどしか灯りが届かない。不思議なほど暗い。
それでも、すぐ側に太い柱があるのが見えた。私は縄を取り出すと、その柱に括り付け穴から垂らした。
縁から四つに這い覗くと、男はちょうど天井に取り付いて唸っていた。
バリバリと、化粧板を引き剥がして下に落としている。岩の割れ目に手を入れろと言ったが、耳に入っていないようだ。
派手に天井を破壊するので、下の獣が気がついたようだ。まだ、肉があるから飛び立ってはいない。
縄の先を結んで、男の方へ投げる。何度か繰り返すと端を掴むことができた。
細縄一本では心許ないが、片手に巻き付けると残りの距離を詰めた。縁に手が掛かるまで縄で支えると、やっとカーンの上半身が見えた。その腕を掴み縄を支えに引き吊りあげる。
なんとも、派手な音を立てて男は転がり込んだ。
「お前は猿か」
息を切らせての最初の言葉がそれである。
猿のようでなければ、下に残してきただろうに。
灯りを翳して周りを照らす。
闇の濃さが違うように、三歩先は見えない。
見える範囲を照らすと、太い柱が等間隔で並ぶ回廊のように見えた。
穴は回廊の床の中央に開いており、片側の壁が岩で押しつぶされている。それによって穴が開いたのだろうか。
風向きを見ていると、武装を戻した男が立ち上がった。
「さてさて、今度は何が出てくるんだろうなぁ。」
厭な事を言う。
外れていないだけ、気分が鬱ぐ。
「御客人、あの化け物は人間だったのか」
「人間だろう。ちっと皮が剥けてたがな」
キシシと下品に笑うと男が一方の穴へと歩き出した。
問題は領主と爺達を連れて行った男達が原因なのか、この場所の所為なのか。
考えるのが怖い。
「あれは誰が」
「まぁ、坊主にとっちゃぁ、仲間が心配だよな。」
のんびりと男が答え、灯りを取り上げた。
回廊は片側が岩で埋め尽くされている。地上ならば外の景色が見えるところが岩肌だ。そして、片側は下で見た光る薄板とは違い、無模様の壁が続いていた。よく見ると、壁紙が剥離した跡があり、下の漆喰がむき出しになっている。
扉はない。
振り返ると穴の光は見えなかった。
天井は所々煉瓦が半円を描いていた。
空気は冷たく、カーンが風上に向かって歩いているのが分かった。
回廊には空気の流れが、それも湿った微風が吹いていた。
体が冷え固まらないように手指を動かす。今の時間がいつなのか分からないが、まだ、日付は変わっていないと思う。
爺達はどれくらいの食料を持っているだろうか。考えてみれば、あの血塗れの姿が、領主と一緒の者達だったら。
カーンの背中を見ながら、じんわりとした何かがこみ上げてきた。
爺達は、死んでいるのかな。
爺達は、少なくとも私の家族のようなものだ。
彼らは、私を見捨てなかった。
村の人間は私を見捨てはしなかった。
その恩を返さずに、死なせてはいけない。
心のどこかで、爺達が死んでいるのではないかと考えてしまう
と、怖かった。
怖い、怖いと今日は言い続けているが、本当に怖いのは、私の知り合いが死ぬことだ。
死ぬのが怖いより、痛みが怖い。
痛みが怖いより、一人が怖い。
一人より、仲間が死ぬのが怖い。
だって自分が死んだら終わるだけ。
爺達や村の人間それに領主が死んだら、悲しいのだ。
悲しい。
だが、私が死んでも安堵だけだ。
「イヤな気配がしやがる」
不意に、カーンが立ち止まった。
振り返ると私の後ろを見た。
「坊主、何か連れてるな」
驚いて振り返るが、闇しか見えなかった。
「気配がする。何かいるな。臭い」
体が急に重くなった。
「聞いて見ろ」
体が重くて口も利けない。
死人がいるぞ娘よ
はっきりとした言葉が胸元から流れた。
獣よ、娘に死人が縋りついておる
「死人の娘?」
カーンは首を捻っている。
ぼんやりとした思考の後ろで私は苦笑した。
娘の足下を斬るのだ、獣よ
カーンの瞳が闇に光った。