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冬の狼  作者: CANDY
降臨の章
241/355

幕間 涙の湖

[涙の湖]


 異形を見ても、特に驚きはなかった。


 慣れた訳ではない。


 花を咲かせた元人間を見ても、変異体を見ても、一応驚いてはいる。

 世も末だと、驚き呆れる。


 だが、この異形の女。

 隷下だという女には、見覚えがあった。


 ボルネフェルトを追う中で、殺した死骸の一部がコレだった。

 妙な言いぐさになるが、あの骨甲冑を着込んだ兵隊の一部に、コレが使われていたようだ。

 アレの体は男だったが、顔半分と舌はコレが元だろう。


 つまり、このリラと名乗る異形は、ボルネフェルトと繋がっているのだ。


 面白い?


 確かに、面白い。


 己は確かに忌まわしい血筋を引く道化だ。






 カーンと対峙する女は、食い入るように見つめてくる。

 そして目を細めると、囁くように言った。


「どうやら、最後の情けをかけられたようだね。

 アンネリーゼの行いは、それだけ大きなものだった。


 お前達が生き残る道を残そうとした、その慈悲が未だに働いているようだ。


 本来なら、とうの昔にいわいは執り行われ、新たな世界が作られていただろうに。」



「どういう意味だ。齋とは何だ?」


 それにリラは笑った。

 腹から血を流し、水に浸ったままで。


「主の名は聞かずにおこう。


 齋という言葉を我は使ったが、お前達が考える意味ではない。


 この世は、神が滅んだ時を含めて三度、終わっている。


 始まりの終わりである神の滅びは、この世を分断した。

 一つの世界を泡沫のようにし、少しの衝撃で壊れてしまう。

 そんな危うい世界へと変えてしまった。


 しかし、熱を正しく循環させると、その泡は強固になった。」


「熱とは何ですか?」


「戯れ言をまともに聞くな」


 口を挟んだサーレルに、カーンは警告した。

 代わりに、スヴェンが答える。


「命の事だ。この世界を構成する動植物、無機物を含めてを指す。神学的にはな。」


 異形の女は含み笑うと先を続けた。


「そこで生き残った神の一部は、この泡沫の世界を無に帰さぬようにと、理に添う命を創造した。


 初めは滅びの元となる、人を造らなかった。

 だが、そうすると泡はすぐに弾けてしまう。

 滅ぶ元でも、無ければ理が働かない。


 人は必要だった。


 しかし新しい人といっても、滅んだ世界が雛形だ。

 神は、次の種には齋となる種族をしのばせるようにした。少しでもながらえるようにな。



 ここまでは、お前達が考える齋と同じ意味だ。

 神の意志を手助けする者だ。



 さて、それでも人は滅びた。


 神は、見捨てた。

 もう、この世界は終わった。

 泡沫も消し去り、新たに生きる場所を探すのがよいと。


 しかし、齋の種は願った。


 いつか、この世界にも相応しい人が生き残り、繁栄するはずだと。


 齋の種は、己を供物とした。

 己が、この世界と人を見捨てぬ限り、己が神の餌食となり、この世を消滅させぬようにした。」


「餌食」


 神を語るには不似合いな言葉だ。

 訝しげな男に、リラはニヤニヤと笑った。


「お主等の考える神などいない。


 齋には、本来とは違う二つの意味がある。


 一つは、この地上で繁栄をしている種族を生かすか否かを決める時の事を指す。


 一つは、泡を一つ消し、新たな世界を構築する事だ。」


「具体的にどういう事になる」


「つまり、お主等が滅び、新たな世界ができあがるのさ。


 四度目の滅びというわけだ。


 それも、供物の胸先三寸。

 齋とは、齋の種が神に供物となる時に起きる。


 供物が願う事が重要だ。


 そして、真に試されているのは供物ではない。」


 長い舌が血を舐めとる。

 異形はカーンを見つめた。


「試されているのは、生かされているお主らだ。

 答えるだけの、誠がお主らにはあるのかどうか」


「我らの問いの答えにしては、いささか抽象的だな。

 それに的外れだ。

 聞いたのは、何がおきているかだ。

 そして、お前は何者だ?」


 それに異形は、首を傾げた。


「何がおきているのか、話しただろう?

 詳しい話が聞きたいのなら、まずは、この忌々しい三叉の矛を抜いてからにしておくれ。

 それにお前は自ら答えにたどり着かねばならないのだ。本来ならな」


「何故だ?」


「お主の名は聞かぬが、お主が何であるかは、見てわかった」


 女の濁った目がぎょろりと回る。


「選定者には不評だろうが、女の目から見れば中々に目が高いと思うぞ。何だ。誉めてやったとゆうに、その顔は」


「俺が何だというのだ」


「神などとうに滅んでいる。それでも明確な形は残った。その形、この世を支える仕組みは、面白くも恐ろしい物なのだ。


 この無情にも思える世を支えるのは、お主等の中にある人の情けだ。


 笑えばいい。


 この相争い血にまみれた世を支える、大きな力をつなぐのは、小さく頼りない人の情なのだ。


 ほんの一握りの情けで、支えられている。


 恐ろしい話だ。

 情けも一瞬で憎しみにもなるというに。」


 意味ある会話が望めそうもないと、カーンは話を変えた。


「腹の矛は、誰なら掴める」


「バルディスの後継者か、神の文字を読める者か」


「後継者、子供か?」


 それに異形の女は答えなかった。

 カーンを見つめ、手を矛に置く。

 置くことはできるようだが、掴めない。


「元より、我は水の者だ。今しばらくはもちこたえられよう。

 ほんに忌々しい限りよ。


 愛しき夫の物を盗むとは、憎々しい。


 これでは、哀れなアンネリーゼに加勢せねばならぬではないか。」


「それは誰だ?」


「お主は馬鹿か?問うばかりで自らが忘れ去るを許してばかり。

 己がうろに向き合わず、夢の中で生きていては足下をすくわれるぞえ」


「少なくとも、お前の虚言に騙されるほど愚かではない。アンネリーゼとは誰だ?」


「話を聞いていればわかろうに。バルディスの妻だ。お主等を生かすために供物となった。


 主は、哀れだな。


 供物という言葉に、何も思い出さないのか?」


 異形の女はカーンを、そして囲む男達を見回した。

 まるで、ここにいるのは馬鹿者ばかりだと言わんばかりに、大袈裟なため息をついて見せた。



「仕方がない、一つだけ助言をしよう。


 お前達は選択を迫られるだろう。


 その時に、嘘をついてはならない。


 嘘という言葉では、理解できないだろうか?


 正直に、行動するのだ。


 徳とする行いや正しいと言われる行動ではない。


 お前達が、望む事を選ぶのだ。


 それが道徳に反する答えだとしても、それを偽ってはならない。


 神が強いている問いは、善悪を問うている訳ではないからだ。


 神という名が理解を阻むのなら、こう言い換えようか。


 子供のおとぎ話でいう、悪い神だ。


 魔神の問いに、お前達は答えねばならない。


 それによって、お前達は、この世界に存在する価値があるかどうかが決まるだろう」



 それにカーンは笑った。

 くだらないという態度を隠さずに笑った。


「どうやら隷下とは本当らしい。口から出任せを油を舐めたようによく喋る。

 我々が聞きたいのは、お前が何者か、そしてシェルバンで何がおきたかだ。

 お前の腹に、ソレを刺した相手は誰だ?」


「やれやれ、中々に面倒よの。

 言っておろう?


 これを抜くだけの力がある者にしか、語らぬ。


 お主等に語ったところで、そ奴には歯が立たぬだろうからな。


 先に主等を殺されては、夫の物も取り返せない。


 これでも、お主等の敵ではないのだ。


 これ以上は喋らぬよ。」


「俺達では、歯が立たぬ?」


「腹が立つか?」


 異形の問いに、カーンは肩をすくめた。


「聖職者なら、それを抜けるか?」


「しかと神の言葉が見える者ならばな。これは異界に属する武器だ。

 この界において具現化しておるのは、我の血で汚れたからだ。

 本来は、こちらの者にも見えぬのだが、バルディスの力が、軛を一つ消しておる。

 お主等にも見えるのが、その証拠よ。」


「軛、とは、異形が見える事か?」


「誰が、軛を外したか知っておるのか?」


 カーンを見やり、それから再び囲む男達を眺めた。


「バルディスの力は、特殊だ。

 予言書という形を与えられた神の具だ。


 人の血肉を吸収し、記録し、意識を与える。

 魔物のような質をしておる。


 だが、それは他の神の具と同じく、泡沫を繕う事も、そして新たな界をつなぐ事も可能だ。


 神は滅んだが、神の具だけは、未だに残っておるのだ。


 軛を外すとは、泡をなじませる事だ。


 アンネリーゼは滅びを防いだが、沢山の泡が重なりこの世界の安定を欠く事となった。


 だが、バルディスの神の具が、一つの軛を解いた。

 二つの界は重なりを厚くし殻を得たという事だ。


 お主等、人には生き難い事だろうが、悪いことではない。


 バルディス、否、バルディスの後を継いだ者は、無事であるか?」


 男達は、何も答えなかった。

 ただ、女を見返した。


「無事ならば良い。さて、食事の続きをしても良いか?」


「何も語らぬなら、喰わせない」


「そうか、我が死んだら同じ事ぞ」


 避けていた食事の盆を戻すと、ひとまず会話は途切れた。


 異形は焼いた肉を器用に舌で巻き取ると咀嚼する。

 おぞましい姿をしていたが、食べる姿は思ったよりも上品だった。

 舌で巻き取るのを別にすれば。


「見られると食いにくいぞ。何か話せ」


「逆だ。虜囚はお前の方だ」


 それに異形は肩を揺らして笑った。

 渡された葡萄酒の杯をすすり、舌が再び腹部の血を舐めた。


「では、我の夫について話そう。

 我の夫、名をダグラスと言う。

 エイジャと同じく、身に永遠を刻んでおったが、食中りで死ぬという間抜けな男であった。」


「いつ頃の話だ」


「そうだの、このマレイラが形となった頃だ。ちょうどヨルガンに頼んで守護を敷いてもらった頃よの。

 ヨルガンも、夫の最後に呆れておった。

 永遠を刻みし者が食中りとは。


 つまりの、永遠を刻む古の者とて、この地上に暮らせば、同じ人という訳だ。

 神のうつし身ともいえる者でも、この界の影響は受ける。

 つまり、力があり、永遠ともいえる命を持っていても、お主等とおなじ人というわけだ。

 毒も矢も剣も天災でも、その命を奪える。


 もちろん、滅多な事では死なぬ筈だった。


 しかし夫はそれを上回る阿呆であったというだけの事だ。

 食い意地の所為で数種類の蕈をな、鍋にして喰ったようで、複合毒に変化したようでの。ヨルガンにも調べてもらったが、最後まで何が決め手の毒になったかつかめんかった。」


 カーン以外の視線が一カ所に集中した。

 いつか、こいつも、やる。

 という視線を受けた本人は、涼しい表情で言った。


「紫色の茸の効能を試したのですが」


「どうじゃった?味も中々であったろう。

 覚醒と興奮作用がある、この近辺では一般的な蕈よ。紫の物は一種類だから外れてはおるまい?」


「痙攣が酷かったのですが」


 それにリラは首を傾げた。


「ふむ、では、その色が間違いなのだ。

 採取した時の色が変化して紫色になる茸なら、数種類あるが、いずれも有毒なはずじゃ。

 採取前の色を記録するが良いぞ」


「あぁ、そういえば手に取る前は斑模様の緋色でした」


「ここにも阿呆がおる。

 それは食うたら、弱い種は死ぬぞ。呼吸や脈を動かす部分が麻痺をおこすと同時に、全身に痙攣がおきる。まぁ、まず口にするような見た目ではないから、普通は喰う気にもならんがな。」


 それに今まで黙っていたオービスが口を開いた。


「その茸、どのような外見なのだ?」


「お主等、見ていないのか?

 蕈とは名ばかりの、人の生首のような形じゃ。

 このあたりの人族は、赤子茸なんぞと呼びおる。

 益の無い物じゃから、見つけたら焼いて始末じゃ。子供らが誤って悪戯でもしたら危ないからの。

 それに見た目もおそろしげで、ふつうの女子なら料理を嫌がる。喰おうと考える阿呆は、我が夫ぐらいじゃろう。それでも毒性を押さえていろいろ実験をしておったがな。


 まさか、そのまま刻んで煮込んだのではあるまい?


 毒に耐えられたとしても、当分、味覚が変化して食事が不味くなるぞえ..まぁ腹一杯そんな毒を食らう者もおるまい。

 そもそもこの辺りでは珍しくもないのだ。当然、蕈好きなら致死性の痙攣毒である事ぐらいは知っておろう。

 お主等も、興味本位で少し口にしただけであろうし、そういえば他の兵士は無事なようだ。

 我が夫よりは賢いようだ、なによりよ。

 獣人とはいえ、身を大切にせねば、我が夫と同じく無様な死に方をさらす事になるからの」


「無様..な..よう教えてくれた、感謝する」


 笑顔のオービスの方へ、サーレルが押し出された。

 押し出したのは、その赤子茸の鍋物をあらかた食べたスヴェンだ。



 言い訳をする声を余所に、カーンは考えていた。


 何かを聞き出すにしても、この腹に刺さる武器をどうにかしなくては動かすこともできない。

 まして、血が毒という話もまんざら嘘ではないだろう。

 変色した水を採取し、調べてみると、確かに異常が認められた。

 シェルバンの汚染した水と同じ成分と未知の成分。

 そしてそれを土と混ぜるとただの土が泡立ち腐った。

 又、生肉と混ぜても同様に、泡立ち腐り、そして蠢いたのだ。


 この異形を焼き殺すのは、すべての情報を引き出してからだ。


 生きながらえさせ、喋らせておくのが良い。


 まったく真実を話さなくとも、こちらがわきまえていればいいのだ。


「では、その武器を引き抜ける者を呼ぼう」


「お主は試さんのか?」


 兵士達は見張りながらも素通りしてしまう現象に手を出していた。

 当然、カーン以外の男達も武器を手に取ろうとしたが、それは空を切る。


 カーンは異形の腹で輝く刃を見た。


 他の者にはどう見えるかはわからないが、少なくともそれが手に取れるようには思えなかった。


 三叉の矛と異形は言うが、カーンにはそれが刃物にはとうてい見えなかった。

 奇妙な赤黒い文字が生きているように跳ね動いている。

 それは手を繋ぎ、耳慣れない言葉を呟き、矛の形に蠢いている。

 小さな羽虫のようなそれを掴もうというのなら、目の細かい網が必要だろう。


 無言で立ち去ろうとする背中に、声がかかる。


「今夜、ちょっとばかり、思い出させてやろう」


 ちらりと振り返る男を見て、彼女は言った。


「まぁ、邪魔が入るだろうがの」


 部下に後を任せると、カーンは水牢を後にした。






 鈍い頭痛が珍しくする。

 とうとう不眠の影響が出てきたようだ。

 それとも昼の毒鍋の所為か?

 ジェレマイア宛の手紙を書きながら、つらつらと益体もない事を考えている。

 書き上げた文章を読み返し、それをシリンダーに入れる。

 青白い輝きを宿す筒を机に転がすと、額を押さえた。


 流石に落ちていく意識の一歩手前だ。

 抗う事は簡単だが、今宵は寝ても問題は無いだろう。


 手紙の輸送を手配すると、天幕にもうけられた簡易の寝台に転がり込む。


 眠いという意識と、用心に抱えた剣の感触、そして角灯の光りの輪が目に残った。
















 闇だ。


 闇の中にいる。


 寒い場所に立っていた。


 ごうごうと風が吹き抜ける。


 ここは地獄だろうか?


 闇の中、灰色の輪郭は岩や石らしく、それを踏みしめ歩く。


 闇の中、黒々とした影から抜けると、石の都が見えた。


 空の無い、死人の都には、風だけがごうごうと吹き抜ける。


 ざらざらとした足場を滑り降り、自然と前へと進む。



 はやくいかねば。



 すると、無人の石の都の奥に光りが見えた。


 ごうごうと風が吹く。


 薄暗い世界を歩く。


 一歩進むごとに、焦りがわく。


 風の音と闇と覚束ない体。


 それでも、進む。


 一足ごとに、足の下から砂地を踏むような音がした。



 はやく、はやく。



 ごうごうと風が吹き、薄灰色の視界がちらつく。



 はやくしないと。



 走りだそうとするのに、吹き付ける風が体を押さえつける。

 無人の町並みには、灯りは見えない。

 黒々とした窓に、己の黒い影だけがうつる。


 あぁ、はやく行かなければ。


 町の中心は丘のように盛り上がり、その天辺から光りが見えた。


 あのように光っていては、危険ではないか?



 危険?



 向かい風の中を進みながら、彼は何が危険だったか思い出せなかった。


 ここがどこかも、自分が誰かもわからない。

 ただ、死の気配だけは感じていた。


 ここは死の気配がする。



 はやく、はやく



 やっとの思いで丘を登りきる。

 相も変わらず、風が吹く。

 丘の上は、闇が殊更、濃かった。


 ごうごうという風の音。


 黒々とした闇。


 それでも彼は前に進む。


 滑るような闇をかきわけ、その中へと入る。


 相変わらず風が煩い。


 すると、青白い氷が見えた。


 青白い氷は徐々に広がっていく。


(あぁだめだ)



 初めて呻いた。



(あぁ、それは駄目だ)



 氷は足下から這い上り、彼女を凍らせていく。



 目の前で、彼女の足先から氷が這い上る。


 彼女は両手を組み、静かに立っている。


 いつも通り、従順な姿をし、それでいて強情にも堪え忍び。


 目の前で静かに佇み、彼を見上げる。


 ぎこちなく笑い、彼に言う。



(大丈夫ですよ、大丈夫)



 嘘をつく。

 嘘をつくのは、彼女が信じていないからだ。


 信じさせられなかった己が悪い。

 弱い己の甘えが悪い。


 そうわかっていても、憎らしい。


 にくい、にくい、あぁ、そうだ、ニクイ



 ニクイダロウ?

 ヤツラハ、ミンナ、ウソツキダ

 マジョハ、オトコヲ、タブラカス

 タブラカス、オンナノ、クチハ、フサゲ

 ヤツラヲコロセ、コロセ

 ミツケタラ、コロセ



 ごうごうと風が吹く。


 ごうごうと..



 囂々と風のような呪いを、力づくで押し返す。


「黙れ!くだらねぇチンケな呪いなんぞに、誰が化かされるかよ」


 娘の氷を砕きむしり取る。


「女々しい誰かと一緒にするな!

 誑かす、上等じゃねぇか。

 女に誑かされるなんざ、今までどれだけあったか数え切れねぇよ。

 まったくくだらねぇ、女の嘘なんざ可愛いもんだ、許せる度量もねぇ男と一緒にするな!」


 笑う。


 つまり、チンケな奴が仕掛けた通り気にしていた訳である。


 別れ際の娘が浮かべた微笑みを。

 寂しい微笑みの意味を語らない娘を。


 柄にもなく。


「俺は夢なんざ、見ねぇんだよ。生憎な」



 それから目の前の幻に向き合う。

 それが本当なのかさえ確かめずに、囚われた本心が言葉を選ぶ。



「オリヴィア、繋がってるのか?


 何が悲しいんだ?

 俺に言えない悲しいことがあるんだな。

 でもな、悲しいことばっかり、考えてちゃ駄目だ。


 それは弱い奴のする事だ。

 頭の中で悲しい予想ばかりしていたら、勝てる勝負も勝てねぇんだよ。

 勝ち負けの話じゃないとしても、悲観してちゃぁ駄目なんだよ。

 それぐらいだったら、馬鹿みたいに怒るんだ。

 冷静じゃなけりゃぁ勝てないとか言うが、負けると予想してたら尚勝てねぇんだよ。


 オリヴィア、これも幻か。


 あぁ、畜生、泣くんじゃねぇよ。」



 琥珀色の瞳は、きらきらと水の膜がはっている。

 今にも、それはこぼれそうだ。


 これが何なのか、何かの悪意なのか。

 そんなことは、どうでもよくなった。


 いつも思っていた。


 綺麗な瞳だと。


 半透明の琥珀石を見ると、飴のようで美味そうだといつも思う。


 それと同じで、娘の瞳はいつ見ても輝き、思い出すのだ。


 秋色の山野や、黄昏の水の煌めき。


 あぁ、綺麗だな。


 綺麗な景色を見たような気持ちになるのだ。


 だから、本当はのぞき込んで、まじまじと見ていたい。


 でも、そんなことを大の大人がしたら、気味が悪かろう。

 怖がられるのはいいが、気持ち悪いと思われるのは嫌だった。

 その違いに拘る己に、我知らず情けない気持ちになる。

 確かに、そういう意味では女々しいかもしれない。


「オリヴィア、約束したろう?


 大丈夫なんだよ、お前が言うとおり大丈夫なんだ。

 いつか、楽しい毎日になるんだ。


 だから、泣かないでいいんだ。


 嘘ついたっていいし、裏切ったっていいんだ。


 だから、泣くんじゃぁねぇよ。


 嘘泣き上等の女どもを見習えよ。


 獣人の男なんざ、女に顎でつかわれてなんぼだ。


 なぁ、泣くなよ。


 頼む、泣かないでくれよ」



 柄にもなく、懇願する。

 本当に魔女に誑かされているのかもしれない。


 だとしても、涙がこぼれるのは見たくない。と、その肩に手を置いた。


 すると、全てが幻である筈なのに、彼女は微笑んだ。







 そして..涙の湖に落ちて溺れるのがわかった。









 ゆっくりと瞼を開く。


 天幕の入り口から月が見えた。

 魘され、騒いだ様子もない。

 自分が騒げば、仲間の誰かが様子を見ただろう。


 静かに起きあがる。


 初めて見た夢が余りにも無様でいやな気分だ。


 ただし、某かの力が働いているとしたら、あの地下の異形の女が何かをしたのだと思う。


 忘れている事の断片。


 今、記憶に残る石の都こそが、それだとわかっていた。


 何故、忘れていたのか。

 自分は、石の都にいた。


 死の気配と共に。


 そして、月を見上げてから頬を叩いた。


 娘に懇願する自分の無様さが、どこかで同じように感じた事をも思い出していた。

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