ACT187 モルソバーンにて 其の七
ACT187
通路は途中から奇妙な作りに変化した。
ヌルヌルとした黒い物が壁と天井を覆う。
それは生き物の体内のようで、ゴツゴツとした骨が浮き出るように壁が波打っている。
ぬめりと湿気、空気は温度が高くなり、獣の腹の中だと言われれば納得しそうだ。
一面の黒い物体は継ぎ目も見あたらないが、その表面から薄桃色の体液のような物がにじみ出ている。
空気の流れは微細だがある。
どのくらい意識を朦朧とさせていたのか、気がつくと分かれ道にたどり着いていた。
中央に奇妙な柱がある。
それを中心に、通路が三つ。
来た通路で四つの分岐点だ。
その分岐点の中心に立つ柱は、奇っ怪な美術品の立位の像に見えた。
半ば黒い骨格の表皮を持つ、裸像。
しかし、注意して見てみれば、それの胸が上下していることがわかる。
人と奇怪な黒い骨格が融合しているのだ。
それは両腕を耳の横につけて、本来ならば肘から先を後頭部に回しているような形だ。
だが、その上腕の中程までしか残っていない。
そして両足も腿の中程までが残っている。
同じく、胴体と顔と頭部一部は人として見えたが、他は欠損しているか、黒い奇妙な物が覆い尽くしていた。
性別はわからない。
顔は青白い人族の物だ。
目を閉じている。
口は薄く開いており、呼吸をしている。
私たちは、その奇っ怪な姿に暫し見入った。
だが、その瞳は開かない。
イグナシオが手をのばす。
すると、その指が触れる寸前に、それの口が少し開いた。
牙だ。
「オリヴィア、これは何だ?」
私は頭を振ると、それをよく見ようと目をこらした。
それは人から作られた物である事は確かだが、しかとした手応えはなかった。
(人だったモノ。何かの仕掛けだとしても、答えはないと思う)
「では、どっちに進めばいい?」
私は、三つの通路を見回した。
どれも奇妙で醜悪な紋様であふれている。
右も中央も左の道も、全て、頭の芯が痛むような醜い小さな紋様が踊っている。どれも不規則で不愉快、猥雑で神経に障る。
(どの道も、酷い)
「アーベラインだ。アーベラインはどっちだ?」
蠅が飛び回るように不愉快な紋様が騒ぐのをかき分ける。
すると、どこからか、更に不愉快な気配がした。
(アーベラインの糸は見えないが、厭なモノがいる道はわかる)
「何処だ?」
イグナシオが、背筋を伸ばした。
(中央の道だ。上り坂になっていると思う。その先が少し左に曲がり、その向こうに何かがある)
ザムは目印に通ってきた通路の壁に、長い釘のような物を刺した。
鉄の針だろうか、壁に刺すとそこからやはり体液のような物があふれた。
「匂いは無いですが、触ると若干痺れます」
素手で確認すると、再び手袋をはめた。
それから皆、口元を布で覆った。
気休め程度だが、直接この空気を吸い込むのは厭だった。
中央の通路は少し傾斜がある。
やはり、灯りなどは無く、普通なら何も見えないだろう。
多分、私達と同じく、ここにいるモノも、光りを必要としていないのだろう。
先頭のイグナシオが立ち止まった。
音がする。
カサカサと何かが這い回る音だ。
通路は、私が見て取ったように奥で左に曲がっていた。
この構造物は、今までに見たこともない材質をしていた。
一見すると生き物のようでもあり、細かく見れば、金属のような作りもある。
柔らかいような線と人工物らしい直線が不規則に使われている。
そして、その人工物の所々に、人の臓器のようなものが繋がって見えた。
それは相変わらず、黒く、粘液をたらし、そして脈打っている。
生きているはずの無い構造だが、ここが既に領域として、違う場所ならば、生きている、としても不思議はないのか?
圧倒されるような混乱した様相に、私達は息を潜めて進む。
左に曲がると直ぐに盛り上がるような壁が目の前に見え、それは私達の目線を遮った。
上を向けば微かな明るさと空間が見えることから、この壁を越えた先に通路とは別の広い場所がありそうに思えた。
だが、目の前の盛り上がる黒い壁には、バラバラになった臓器が繋がり、所々に動く眼球がある。
あの目が、本来の目としての役割を果たしているのならば、我々の姿は丸見えというわけだ。
蠢く音は、この壁の向こう側から聞こえる。
イグナシオが手招いた。
彼は壁の端によると、そこに足場のような骨組みがあるのを見つけた。骨組みといったが、まさしく人の肋骨のようなモノが突き出ている。
それが天井付近まで繋がっていた。
ただ、人の骨のように脆い物ではない。
手触りはやはり金属のようで、体重をかけても軋む様子はない。
登るのに、私を下ろすように伝える。
だが、あの通路でのやりとり以来、私の発言にカーンは答えない。
私の両手を首に巻き付けさせると、無言で上り始めた。
しがみつき、その肩越しに見る景色は、酷く歪だった。
ここは、まさしく異界である。
あの宮の底とは違う感触がした。
宮は同じく異界としても、何処か馴染みのある景色であった。
多分、グリモアと同化したからかもしれないが、宮には、馴染みのこのオルタスという世界と等質の物で作られていると感じられた。
だが、今、この場所の空気は、異物として肌を刺す。
そして、目に映る物は、馴染んだ理屈を受け入れない、酷く醜く奇矯な物ばかりだ。
そして、異物でありながら、何故か人の肉体を造形に取り入れている。取り入れているのだが、それは全く同じ等質の物としての役割を放棄していた。
何と表現すればいいのか、今目の前にある壁にしても、そこに多分人族の女性の一部が練り込まれている。
練り込まれているが、それは土壁の塵のような物で、意味は無いのだ。
強度を増すためでも、私達に嫌悪をわかせる為でもない。
鳥が巣を作るように、そこに材料があったから加えたというのだろうか?
それは死骸としてそこに練り込まれた訳ではない。
そして、人としての生は終わっているのに、その単品の臓器は生きているように動いている。
理の通じない世界とは、このように、おぞましい限りなのだ。
もし、去年の私が同じ物を目にしていれば、恐れ叫んでいた。
だが、この目を通せば、この酷い有様も、実は、彼らは既に命も魂も無く、苦痛に沈んでいない事を見て取れるのだ。
だから、悲しみという感情はあれど、恐怖は薄いのだ。
ただし、ただしだ。
このような事をやりのける存在は恐ろしい。
人を粘土のように扱い、命など歯牙にもかけぬ存在は、この世に、あってはならない。
だが、このような事を為す存在に、果たして私は何ができるのだろうか?
壁に登りあがると、広い空間が広がっていた。
ぼぅぼぅという音がする。
そして、先ほどから聞こえてきたカサカサという音。
黒々とした素材が半球形の天井を覆う。
太い管が壁に伝い、その中間には食虫花のような物が口を開く。
その口からぼぅぼぅと音をたて、白い霧を吹きだしていた。
その霧のおかげで、この広い空間は胸が苦しいほどの熱さと湿気に覆われていた。
そして、カサカサという音をたてていたのは、私の背丈と変わらぬ百足が床を埋め尽くしていたからだ。
ただ、百足は、入り込んできた私達には、関心を示していない。
その赤茶色の表皮を光らせて、ひたすら床からにじみ出てくる粘液を食べている。
私達が進むと、百足は隙間を開けて、その床を露わにした。
床は海綿のように小さな穴が開いており、その穴から薄緑色の粘液を出していた。
歩くと粘ついて滑る。
軍靴の裏に滑り止めの釘があるので、なんとか歩いていけるが、普通は粘液にまみれて床に転がり、百足達にかじられているところだ。
薄暗く湿気と白い湯気で視界が悪い。
私達は、何を目指しているのか。
アーベラインの糸は、すでに見失っている。
この得体の知れない場所を焼けばいいのか?
このように空気の流れの乏しい場所に火を放っていいのか?
皆、辺りを見回して困惑していた。
すると、ぼぅぼぅと音をたてている花とは別に、何かが聞こえた。
人の呟き声のようなものだ。
それは私だけでなく、他の者にもしかと届いたようだ。
音のする奥へと歩をゆっくりと進めた。
熱い。
額から汗が滴る。
にちゃにちゃと音をたてる足下。
虫の音。
花の叫び。
己の息。
気が狂いそうだ。
匂いがしないだけ、吐かずにすんでいる。
それでも、悪夢の中を泳いでいるようだ。
音は寄り集まった管の柱から聞こえた。
近寄ると、それは大木のような太さだ。
その根本に近寄り、音の出所を探る。
幹にそって歩くと、少し見上げる位置に、人の顔があった。
大きな顔だ。
盥ほどの大きさの子供の顔である。
ぎょろぎょろと目玉が動き、口を動かしている。
それが先ほどから、何かを呟き続けていた。
それは私達は目にすると、早口でしゃべり出した。
匂いがするよ においがぁ
ととさま ととさま
においがぁ
おまぁえはぁ、
フィードウィンかえ?
聞いた事のある名に、私は答えた。
(我はヨルグアの子、フィードウィンに非ず)
私の答えに、それはニヤリと笑った。
ととさま
戻ってきたぁんだねぇ
かかさま かかさまぁ
さがしにぃ に
あいつらぁ そろそろぅ
くうぅてもぉおおおおおお
いいかぇぇぇえええ
歯をむき出すと、顔は笑い出した。
(誰を喰うのだ?)
私の問いに、目玉がぎょろりとこちらを向いた。
きまっておろうぅ
昔からぁ 臭いにおぃのおぉおおおお
あいつらだよぅう
ととさまをぉ
こぉろぉしぃたぁああああ
あいつらぁああああああ
私達の会話に、カーン達は困惑していた。
剣に手を置き、油薬を握り、これをどうしたものかと伺う。
私は、これが何かを伝えたかったが、会話を優先した。
何故なら、これは、少しではあるが、こちらの理が通じる相手だからだ。
(何故、従う?)
私の問いに、目玉は青く濁った。
かぁかさま かかさま
とられたぁああああ
あぁいいぃつらぁあああ
ころすうぅうううぅう
だからぁあああ
ゲロリと顔の皮が剥けた。
あぁあぁあああぁああっぁああ
あとぉおすこしぃいでえ
かかさまぁのぉおお
ずるずると柱から顔が抜け出ると、長虫のような黒い肉の塊になり飛び出してくる。
それはあの見えない異形と同じく、山椒魚のような姿になり手が四本、蜘蛛の足のように胴体からつきだした。
それは私に向かって言った。
はな が さ く よ
私は慌てて立ち去ろうとする怪異に向けて問うた。
(オールドカレムの男は何処か?魂は何処なりや?)
それは大きな口を開き、げぇげぇと笑った。
あれの邪魔をするのかえぇ?
そうかや そうかぁやああああ
じゃっぁあ くさびをぉおおおぉ
楔をぅうう
しゅごしゃぁぁあとおなぁじくぅう
つぶすがいいさぁあああ
あぁあぁ やつらをくうよぉぉおお
やっとやっとだぁ
異形は湯気の奥へと消えた。
ずるずると這いずり、床の百足を踏みつぶす音が遠くなる。
私達は無言でそれを見送った。
暫くして、イグナシオが息をついた。
「この場所を焼けば終わる訳ではなさそうだな」
「楔とは何だオリヴィア?」
カーンの問いに、苦笑いが浮かぶ。
「何だ?」
それにイグナシオが呆れたように言った。
「カーン、神聖教徒の神学の授業は、全く受けてないのか?」
「正規軍の座学の時間は、殆ど、あの爺の時間に当ててただろうが」
「まぁ、殆どの奴らはそうだろうが。お前はどうだ?」
イグナシオに問われたザムは肩をすくめた。
「壁際に、あの辺りなら少し息がつけそうだ。移動したら少し説明する。娘はこれからどうするか考えろ」
虫と蒸気で頭がぼやける。
その湯気の向こうに、少し凹んだ壁があり、上下を見回しても、奇妙な物体が無い。そこに少し身を落ち着けることにした。
「創世の神話には、二段階の滅びの時期がある。我々の前の人が滅んだ時と、その後を支配した神の死だ。」
荷物から水を取り出すと、皆で回し飲む。
その合間に、壁をまさぐり、異常が無いか、粘液が漏れていないかを確認してから、体を置く。
私はカーンの懐で、水を飲んだ。
視線は、あの異形が抜け出た柱に置いた。
あれは何処に繋がっているのか。
「古の人が滅んだ時、天の神は眠りについた。神は眠りにつき、地に悪が蔓延り、神は敵が現れると目覚める。目覚めて戦い、そして神の敵が滅びると眠る。それを繰り返した。
その神と悪が戦う時、彼らはそれぞれに守護者と呼ばれる者を使った。
神のそして悪の化身だ。
彼らは一つのモノを巡って争う。
それが終局の楔と呼ばれる、異形の塔だ。」
汗を拭い、私達はこの異常な景色を眺める。
「異形の塔は、高く大きくなると世は滅びる。人が生きることができなくなる。だから、神の守護者は楔を壊し、悪の守護者は楔を守る。
さっきの化け物の言葉を信じるなら、ここには、その楔がある。それを壊せばいいわけだ。」
「ここを焼けば済む話。という訳でも無いんだな。当然、お前なら今頃この辺りは火の海だ」
「俺達が目にしているのは、娘が見せている世界だ。本来なら、俺達には見えていない。どこもかしこも火を放ち、地下で蒸し焼きになるか、窒息するのは、俺でも厭だ」
「判断基準は、襲いかかってくるか否かか?」
「そっちも感じているんだろう?幻覚よりも質が悪い。この息苦しさは本当だが、本当じゃない。頭がおかしくなりそうだ」
「俺、あんまり賢くないんで、どういうことですか?」
(まだ、ここは私達の世界に馴染んでいない場所なのです。半分は実体ですが、半分は、未だこの世界に無い。お互いに、未だ影響を与えるほどの領域が重なっていないのです。)
うーんと唸るザムに、カーンが補足した。
「今、見えるようになったから見えているが、本来、俺達は地下の通路か部屋を見て回っているだけだ。ただし、見えるようになったから、影響を受けて、俺達は、この化け物の世界に半分だけ来ている。
アーベラインは、その化け物の世界にいる。
そして、さっきの化け物の言葉を信じれば、この場所にある楔とやらを壊せばいいらしい。」
(多分、その楔によって、領域が癒着しているのです。その楔を壊せば接点はなくなる。その時、運が良ければアーベラインは帰れるでしょう)
「運ですか?」
(この場所に融合してしまっている人たちは、戻れない。境目がなくなって融合してしまっているので、分離すれば死にますし、元通りの姿にはなれない)
「ここは何なんですかね」
ザムの嘆息に、カーンは答えた。
「何でもないさ。ただの熱くて汚い場所だ。で、楔とやらは何処にある?」
「楔は悪の守護者の元にある。とは言え、実際そんな物を見た人間はいない。ここまで来たと同じく、お前が行き先を言え」
無茶な事だ。
つまりは、この領域を保とうと敵が置いた接点を探すのだ。
(少し、時間をください)
「オリヴィア」
カーンは私を向き合わせにすると言った。
「力を使う時、何かを支払うのだな」
(いいえ)
「身を削るのか?」
(いいえ)
「楔を探すのに、何か支払うのか?」
(大丈夫、大丈夫ですよ)
「もし、何かお前が失うようなら、探さなくていい。どうせ、一番汚くて臭い場所にあるんだろう。そこを焼けばいい」
(何も支払わないし、この場所の力を読むだけですよ。ここの力の文字を読んで進むだけ。何も、変わらない。大丈夫。)
繰り返す私の言葉は、カーンには届いていない。
その瞳は不信でいっぱいだ。
(本を読むように、ここの場所を読むだけです。早く終わらせましょう。)
その肩を叩き、私は振り返る。
この位置から見えるのは、湯気と黒い影と虫と柱だ。
視界は悪く、薄暗く、何を読みとるとしても、全てが黒い蠅の点のようにしか見えない。
それでも、読みとるべく文字を拾い紋様を探す。
すると、細かな粉塵の集まりが、大まかな力の線を描いているのがわかった。
異形の領域が表す多次元構造に、慣れ親しんだ領域の構造が混じっている。
構造は破壊と再生を繰り返しながら、お互いの接点でせめぎ合っていた。
そのせめぎ合いの溝を辿れば良いのではないだろうか?
私はカーン達を促すと、溝を指さし歩き出した。
視界いっぱいに黒い点がある。
その黒い点の中を、天の河のように薄灰色の溝が続く。
それは渦巻き、波のように押し引きし、混沌とした場所を漂っている。
「見えないな」
「あぁ、俺もだ」
「音はするがな」
柱から抜け出た虫が這い進んでいった穴蔵とは別の、天井の低い穴へと入る。
その通路は直ぐに蒸気が無くなり、視界がきくようになった。
相変わらず薄暗い。
ほぼ、普通の建物の通路と同じ位の幅である。
ただ、上下左右を覆うのは、金属のような管だ。
管の中は液体が流れるような音がしている。
そして、先ほどの部屋のような暖かさはなく、今度は湿った冷たさが辺りを包んでいた。
光源は無いのだが、うっすらと通路は浮き上がって見える。
そして、その黒い世界には、やはり黒い紋様が羽虫のように飛び回る。
グリモアを通しての視界には、絶えず、その通路の中空にせめぎ合う裂け目が動いている。
私達の次元で知覚できるのは、精々この程度である。
もし、神のごとく多次元構造を知覚できたとしたならば、この黒い世界ももしかしたら七色に輝いているのだろうか?
「風だ」
カーンの呟きが呼んだように、通路には向かい風が吹き始めていた。
何故かその風の匂いは、我々が馴染み親しんだ夜気を含んでいる。
大きく深呼吸をすると、そこに僅かな別の匂いが含まれていた。
何か、金臭い金属の匂いだ。
通路はうねるようにして傾斜がつき、やはり左に曲がっている。
元のこの地下の構造が、もしかしたら左にまがっているのかもしれない。
そして、その通路の先には、奇妙な角錐があった。
「あれが守護者か?」
カーンの呟きに、イグナシオとザムが揃ったように首を傾げた。
私を下に下ろすと、カーンは首を回した。
「悪い冗談だな」
角錐のそばには、黒い姿が三体あった。
頭部はツルリとした兜のような物で覆われていた。
だが、その立つ姿は、鏡のように似ていた。
「下がっていろ」
鏡のように、それは彼らに似ていた。
真ん中の異形が、大太刀を背中から抜く。
合わせ鏡のようだった。




