ACT184 モルソバーンにて 其の四
ACT184
悪夢だ。
狂人の夢。
肉の塊。
ぬめる体表。
歯ぎしりの音。
ゲェゲェと鳴き。
仲間を押し退けて重なる。
手。
たくさんの手。
薄い桃色の肌が、人の肉に見えた。
大きな犬ぐらいか?
目の無い蜥蜴、否、山椒魚のような形。
頭部には口だけがある。
赤い唇にみっしりと歯が見える。
手足は筋肉質で手が人にそっくりだった。
あぁ、後ろ足も手だ。
だから、四本手に見えるのか。
頭の片隅で、ゆっくりと思考が流れる。
ゆっくりと感じてはいたが、それは一瞬だ。
私は地面に落とされ、カーンは飛び出すと剣を振り抜いていた。
醜い声があがる。
あふれ出た異形の鼻面を剣が抉り斬る。
一振りで殺到しようとした異形を留め、返しの振りで押し返す。
突然の抜刀に、イグナシオとザムも反射的に得物を構えた。
「なんですか!何かいるんですか?」
ザムの叫びに、カーンは応えずうなり声をあげている。
視界いっぱいに異形が溢れていた。
工房から資材から、異形が這いだして来る。
私は尻餅をついたまま、背後を振り返った。
受付の屋根にもいる。
それらが二人に殺到した。
一瞬で彼等の体を覆い尽くす。
血しぶき。
うなり声。
私は何もできずに見ていた。
見えないモノに食いつかれ、驚きながらも手を振り回す彼等。
血だ。
食いついて、血が吹き出した。
二人の血が顔に降りかかる。
イグナシオが腰から短刀を抜くと、背後にとりついたモノへと突き立てた。
手応えはあるのだろう。
彼等の血を喰ったからか、異形の存在も現実に近くなっている。
だが、それでも見えない者には、痛みを与える原因がわからない。
ザムの首筋に深く喰いついたモノに、私は短剣を抜くと切りつけた。
彼は血の泡を口からこぼしている。
痛みに歯を食いしばり、徐々に体が擬態を解いていく。
次々と蟻のように、異形が集る。
(止めろ、止めてよ、止めて)
何度も短剣を突き立てた。
だが、異形は体をくねらせ尖った爪でしがみつく。
「下がって!」
ザムは私を押し退けると、剣を握り直す。
目を閉じたまま、剣を振り抜き、感を頼りに切りつけた。
それは見えるかのように、異形を断つ。
だが、すぐさま次々と押し寄せる。
斬り、断ち、押しのけ。
見えない物に食いつかれ、二人は徐々に血を失っていく。
イグナシオは、怒りに歯をきしらせた。
「カーン、何が見えるんだ!」
カーンが斬り倒す分だけ、私達の周りに隙間ができた。
だが、数が多い。
「犬位の大きさの四つ足だ。でかい口で食いついてくる。オリヴィアを下げろ」
「クソがぁ!」
イグナシオの腰に二匹食いついた。
見えないが、拳でそれを叩き伏せる。
ザムが私に手を伸ばす。
イグナシオが、その後ろで振り返り。
すべてがゆっくりとして。
私は短剣をもったまま、屋根の上から異形が降るのを見ていた。
異形は、二人の背に飛び乗り汚らしい爪を。
まっかだ
喉に突き立て掻き斬った。
暖かい血を浴びて、私は。
(ふふふ..ふふ..あはははは)
グリモアとそれに残る者達が、私を飲み込んだ。
血が降り注ぐ。
私は
視界が変わる。
古の言葉が綴る調和の世界。
私の世界。
美しき言葉が造る。
命の配列、魂の形。
見える。
血とうめき声、闇夜の中の蝋燭の光り。
それがいつの間にか、美しい紋様を描き出す。
カーンの形をした紋様が、二人にとりついた異形の汚らしい破片の文字を斬り飛ばす。
この世の全てが、紋様の配列を描いて見せる。
美しい命の配列を。
「オリヴィア!下がれ」
カーンはザムの喉を押さえた。
イグナシオはうなり声をあげると、擬態を解いた。
血しぶきはそれでも喉からあふれ、口が泡を吹く。
ザムはカーンの手を借りながら、体を大きく変化させ、最後に自分で喉を押さえた。
その隙に、異形は私に食いついた。
肩に食いつき引きちぎろうとした。
(ここは我らの領域、完全なる理の世界)
歯が肩に突き通る。
私の身を縛る茨が動く。
歯は皮膚を滑り、異形は動きを止めた。
(完全なる世界)
「油薬をまけ!」
「駄目だ!娘まで焼ける。俺には見えない!」
迫る顎門に、私は手を伸ばした。
そして、私は..
(それは命に、形に、宿るもの。
そこに繋がり、調律をする。
私は、ここに罪を犯す。
小さな歯車を組み替え。
それが人を予期せぬ道へと進ませる。
どうか、どうか、彼等の道が途絶えませぬように。
どうか、彼等が生き残れますように。
どうか、彼等をお守りください。)
「壁を背にしろ!」
言われて、ザムが私を掴むと受付の壁に張り付いた。
「どう..なってる?」
イグナシオも遅れて壁にたどり着く。
「お前の周り一パッスちょっと先にいる。ともかく剣を立てていろ」
「槍..持ってくればよか..った。焼く..か」
「駄目..っす、加工材の粉末..工房にはある..う。軽く..の辺りが吹っ飛び..す」
やっと喋れるようになったザムが顔をしかめた。
「いいんじゃないか?」
カーンが笑った。
異形を威嚇しながらゆっくりと下がる。
「爆破、いいねぇ。オリヴィア、しっかりしろ。もう少しだ。もう少し横に」
私の手には、カーンが斬り飛ばした異形の頭があった。
「見えるのか?」
イグナシオの問いに、私は、彼に手を伸ばす。
不思議そうな顔。
毛並みは普段の毛髪よりも濃い色合いだ。
「どうした?、肩の傷か」
ありがとうと思いながら、魂にそっと手を伸ばす。
彼の命の炎、その言葉の配列に、一滴の呪いを施す。
その呪いが行き渡る。
瞳の中に新たな配列が組み上がる。
次は、ザムだ。
喰いつかれた首筋を拭っている。
彼の、魂に手を伸ばす。
美しい世界を汚す、私の行い。
彼等の理に、この醜い者共を割入らせる行い。
許して欲しい。
どうか、許して欲しい。
私が、この世界を汚す事を。
ボルネフェルトが世を腐らせたように。
貴方方の世界に、このような不浄を見せてしまう。
「なんだこりゃ!おいおいおい!」
「うわっ!..に噛まれ..のかよ。」
次いで、私は異形の頭部を見る。
彼等を構成する言葉を開く。
唾棄すべき言葉の配列を選び出す。
この手触りは敵だと知らしめる。
この私の力の及ぶ範囲において。
私の呪いを広げる。
ゆっくりと、折り畳んでいたモノを広げていく。
そう、この時、この場所から拡散する。
その身の神の言葉を書き換える。
本来ならば、貴方方を守る盾を壊す。
敵は、その盾が通じないのだ。
だから、その盾を壊す。
代わりに、受け取るがいい。
オラクルの望みしグリモアの力を。
私の体の中から、唄が流れ出す。
少し狂った調子の唄だ。
歌うは、狂気の窓を開く唄。
生きては覗けぬ、深淵の。
極彩色の夢の唄。
魔に触れた者だけが知る世界を。
皆にも、この魂の写しを見せよう。
文字は遠雷を呼び、紋様となる。
振り返ったカーンが何かを言った。
私の唄が見えるのだろう。
怒っているだろうか?
徐々にそれは輪を描き、私を中心に広がり出す。
私達を囲む異形が、動きを止めた。
彼等にも聞こえるだろう、この唄は、人に新たな感覚を与える。
本来は狂気の世界にある力。
生きて覗けば、狂人になる。
魔に触れなければ得られない力。
その感覚を開く。
私の唄が届く場所にいる、この世界の住人へ。
呪いだ。
唄は明滅し青白い紋様を描く。
私を中心に螺旋を描き、モルソバーンの天空に浮かび上がる。
皆の魂の扉を叩く。
邪悪な者が見えるように。
だまされる事無く、危険が聞こえるように。
もし、誰かの助けの声がしたら、どんな場所でも感じ取れるように。
この世の狭間からこぼれ落ちた人を救えるように。
どうか、お許しください。
かわりにオラクルの望むグリモアの邪悪な力を受け入れます。
愚かな望みを手放します。
生きていたいという望みを諦めます。
だから
(あまり広げると、君、死ぬよ)
対価には足りない。
(必要ないね)
何故?
(わからないのかい?
偽善で、君はこの世の法則を一つ壊した)
何故?
(だが、秤は傾かない)
何故?
(つまらないね。
これで我が輩と同じだと喜んでいたのに。
間違いを犯して同じになるはずなのに。)
何故?
(だけど、君の唄は届いた。
聞いてごらんよ。
君の唄に応える声を。
この東の土地は応えた。
モルソバーンどころじゃないよ。
君の唄は、この土地の魔に気に入られたんだよ。
この土地の偽りが壊れた。
これから血の雨が降るだろう
君の偽善でね)
螺旋は雲に溶け、雷雲を呼んだ。
青白い稲光が、空を横に走る。
モルソバーンに雨が降る。
土砂降りの雨の向こう、街のそこここで悲鳴が聞こえた。
(目覚めの斎だね。供物の女。これで皆同じだね。
皆、不幸になればいい。
皆、死んでしまえばいい。
考えたことあるだろう?
誰かの不幸を笑ったことはあるかい?
誰かの悲しみに安堵したことはあるかい?
今日この時から、彼等も知ったのさ。
理を犯した者の末路が何かを。
ねぇ、供物の女。
君の所為で、この土地の魔も目を覚ましたよ。
せっかく眠りについていたのに。
馬鹿な人間が理を犯したと知ってしまった。
きっかけを作った君を、人は君を魔女と呼ぶだろう。
魔女と呼んで、殺しに来るよ。
恩も忘れて、殺しに来る。)
私は雨に打たれて、流れていく血を見つめた。
ゆっくりと力をたたむ。
唄をおさめていくと、胸の中に小さな炎が見えた。
それは命の炎。
私の命の炎は、人の色ではなかった。
私は、とうとう、グリモアとなった。
残る魂と記憶は、いつまで手にしていられるのだろう?
魔女とは、私のことだ。
この東の地には魔女がいる。
そうだ、私のことだ。
皆を救う?
違う、皆を地獄に堕としたのだ。
イグナシオの顔は、怒りの形相で歪んでいた。
「畜生、下がっていろ。灰にしてやる」
ザムは私を抱えると、腕で頭から流れる血を拭う。
頭と首の出血が多い。
ブルリと顔を振ると、低く唸る。
「大丈夫で..よ。これ..い体を活性..せりゃぁ」
だが、痛むのだろう。
白い毛並みが固まりかけた血でひきつっている。
その間にもカーンは押し寄せる化け物を叩き潰していた。
「カーン、合図したら下がれ。誘爆したら遮蔽物を探して、勝手に何とかしろ。」
「どうせだ、派手にやれ。」
「また..無茶を。巫女様下が..ますよ。」
ザムは異形が見えるようになって、やっと調子を持ち直した。
私を抱えたまま、建物の壁にそって徐々にイグナシオから距離をとる。
背後から飛びかかる異形の首を落としては蹴り飛ばす。
異形の体液は黄色かった。
イグナシオの周りに集る異形をカーンは斬り続けた。
その間に、イグナシオは下げていた金属の筒を取り出すと構える。
「行くぞ」
そして短いかけ声の後、軽い射出音が響く。
カーンは飛び退き、ザムは私を抱え込むと建物と壁の間に体を滑り込ませた。
一瞬、音が消える。
始まりは光り、次に振動を感じ、直後に熱風が吹き上がった。
ザムの毛並みが逆立つ。
私は目を閉じて熱さに耐えた。
土砂降りというのに、辺り一面火の海になった。




