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冬の狼  作者: CANDY
哀歌の章
192/355

ACT174 手紙

 ACT174


 城塞の生活で、一番の驚きは風呂だ。


 北は蒸し風呂が殆どで、村に共同の物を川辺に作る。

 村中で入る日を決めて、蒸しては川に飛び込むを繰り返す。まぁ、楽しい行事だ。大体は蒸し風呂の後は、持ち寄りで食事をするので、月に二回か三回の頻度だ。後は、各自家で行水をしたり拭いたりである。北は通年涼しいのもあり、風呂は宴会であり、地方の楽しい風習でもある。

 共同の蒸し風呂は庶民の習慣であるが、貴族も蒸し風呂を利用する。庶民に混じる事は無いが、彼らも同じ氏族で共同の物を作るのが普通だ。

 では、中央の都市部はどうか?

 庶民は湯を贅沢に使う事も燃料を消費する事も嫌う。そこで、殆どが体を拭くか、水で行水をする。

 神殿でさえ、水で行水だった。

 病人で怪我をしていたので、温水を使えたが、基本は水。

 都市部の人口を考えれば当たり前なのかも知れない。

 これは貴族にしても同じで、水と燃料は貴重である為、基本は体を拭き水を浴びる。

 真冬でも水とは恐れ入る。北の人間が寒さに強くとも、真冬の水の行水は無理だった。

 これは首都が乾燥地域に属している事もある。

 空気は特に冬に乾燥し、降雨は殆ど望めない。

 体臭が生じる程の湿度が無いのだ。

 しかし、首都の人口を支える水は、首都東部の山間部から巨大な地下水路を作り潤沢に供給されている。

 これを考えるに、単に昔のままの風習を維持しているに過ぎないのだろう。

 貴族間では温水の個人の風呂を所有していると聞く。それを聞いた時は、羨ましいと思ったものだ。


 そして、軍の風呂である。


 この城塞の地下には、水の濾過施設と、巨大な動力炉という物がある。動力炉は、城塞の物理的活動すべてを支えており、燃料はマレイラ産の鉱石という話だ。

 まぁ、色々説明を受けたが、正直よくわからなかった。

 で、その動力炉を使うと大量の余熱が出る。

 炉を冷却する水は、当然、熱湯になる。

 そこで風呂だ。

 本来は放流してしまう所だが、大量の水を捨てるだけではもったいない。ということで、風呂だ。

 動力炉と潤沢な水源が確保されれば、どの城塞でも風呂を作るという。

 巨大な浴槽のある風呂だ。

 蒸し風呂でも流してかける物でもない。

 池のような風呂である。

 そして、男女の区別がない。


 あっという間に皆真っ裸で入る。


 多分、軍人の、獣人だからだと思う。

 彼らは特に男女差を認めてはいても、裸に対してはあまり羞恥がない。


 これには参った。


 さすがに真似はできない。

 どうしようと思っていると、人族の兵隊用の風呂があり、そこは男女の区別があった。

 そこもなかなかの大きさである。

 そして、今の時間は誰もいないので、私の貸し切りである。

 素晴らしい入浴を堪能している。

 テトも浮いている。

 猫にしては湯が平気..猫ではないからか?

 端から見ると死骸が水に浮いているように見えた。

 だが、気持ちがいいらしく、何かつぶやいている。


 入浴規則は、日に一度は入るようにとある。

 勿論、いったん非常事態になれば、風呂など入らないのだろうが。

 集団生活の衛生管理は重要と言うことで、高級な石鹸でさえ風呂に常備されていた。


 又、兵隊の生活部分にも温水は多用されている。

 体を洗う場所が、風呂以外にも様々な場所に設置されている。


 因みに、動力炉の余熱を通ると、寄生虫は死滅する。

 卵もだ。

 だから、風呂の水を飲んでもいい。

 呑まないが。


 などと、暢気に湯に浸かる。

 実は、獣人の男女は、風呂が好きなのだ。

 人族の風呂の習慣が意外にもお粗末なのに対し、彼らは体の匂いという物に敏感な為、体を水やお湯で流す事を好む。

 そして香水や香料を嫌う。

 香水などを使うくらいなら、汗や汚れの匂いの方が我慢できるというのが殆どで、できれば行水は毎日したいらしい。

 だから、高級な泡立ちの石鹸は、匂いがしない。

 油の匂いもだ。

 髪も体もこれで洗うと艶々する。

 彼らの毛並みも艶々だし、テトも洗ったら艶々になった。

 原料を知りたい。


 そろそろ湯に浮かぶテトを回収しなければ。

 私もテトも元々湯に入る習慣が無い。

 逆上せてしまう前に、テトをつかむ。

 全身脱力している、気持ちよさそうだ。けど、重いから起きろ。


 上がり湯を掛け流し、体を拭くと着替える。

 オービスが揃えてくれた服だ。

 私が着替える間に、テトは全身を振るわせると水気を切った。羨ましい。私の髪も、あんな風に水気が切れるといいのに。


 支給された下着は、肌触りの良い実用的な物だ。

 刺し子の肌着は防寒と吸湿に優れている。

 形は子供の物だ。

 ごそごそと上下の服を身につけ、上着を羽織る。

 幼年の見習い服だ

 軍服というより、小姓服に見える。

 紺上着に中の白い立襟、痩せたので益々貧相な子供に見える。


 濡れた髪を拭う。

 この格好では髪飾りはおかしい。

 手荷物に壊れないように仕舞おうと考える。

 ふと、それ以外の装束を教会に返さなくてはと気がつく。

 作ってもらった外套にしろ、元は教会の物だ。

 持ち物も、この髪飾り以外、自分の物といえる物は無かった。

 その髪飾りでさえ、自分で買った物ではない。

 私の荷物は何処で失われたのか。

 手元に無い物を考えても仕方がない。

 トゥーラアモンの騒動で、全てが無くなった。

 清々したと強がるしかない。

 考えるに、オービスが揃えてくれた物以外、鞄にしても全て教会に返すべきだろう。


 水分を適当に拭い、私は急いで部屋に戻る事にした。

 勿論、急いでも早く歩ける訳ではない。


 この風呂場から、部屋までは実は近道がある。


 オービスと歩いた太い通路を利用せずに、細い通路一本で階段があるのだ。普段は掃除や洗濯物を運ぶのに使用される。

 まぁ、秘密でも何でもないのだが、オービスが風呂に行くなら使えと教えてくれた。バットに出くわして、彼の話を聞き、謝罪を受け入れる機会を無くす為だ。

 多分、彼の事情を聞けば、同情すると見込んでの処置らしい。

 同情するはずが無い。とは、聞いてみないと分からないので、極力会わない方向で動くしかない。


 通路は暗く狭く、ついでに寒いので、湯上がりというのに毛織り毛布を体に巻き付ける。

 少し、秘密の通路のようで面白い。

 などと思いながら、急な階段を登る。

 出入り口は、従卒や下働きが通れるように、簡単な数字の鍵が扉についている。

 目盛りを併せて、鍵を回すと開く。

 階段は、それぞれの階層の目立たない場所に通じている。

 風呂場から十四番目の扉が私の出口だ。


 そして、扉はカーンの部屋から少し離れた場所の、奇妙な木彫りの置物の陰にある。

 内側の数字の鍵を回し、そっと開く。

 部屋の前には誰もいなかった。

 しかし何故、私の方がこんな感じで過ごさねばならないのか?

 と、少し湯冷めして思う。

 思うが、手斧の制裁を息子にする母親が、あまりに恐ろしくて可哀想になっていた。

 できれば、知らずに止めをさしたくはない。


 部屋の鍵を開けて滑り込むと、息をついた。

 暖炉の炎が、緊張を解した。





 持ち物を鞄に詰め、脱いだ衣服を洗い干す。

 部屋の中が、一気に生活感で溢れる。

 返す物以外の手荷物は、一回分の着替えと飴の袋、水筒、装具、短刀、笛。


 笛を見て、自然と微笑んだ。


 オービスは、エリと同じく合図用の笛をくれた。

 喋れない代わりの笛だ。

 小さな笛は、首から下げられるように鎖が通してある。

 親切と気遣いに、心が落ち着く。

 この笛は、警邏用の物らしい。

 仲間への合図に、音色が二種類になるよう指で塞ぐ場所がある。

 後で、合図の仕方を教えてくれるそうだ。


 手荷物は少ない。

 着替え以外は身につけられる。

 ただ、それでも小さな鞄が必要だ。


 暖炉に薪をくべて座る。

 炎の前の敷物には、既にテトがのびていた。

 猫になりたいと、その姿を見るとつい思う。

 足台に腰掛けて、髪を乾かしながら、遠くなった記憶を手繰る。

 村の生活、季節の流れ、爺達、村の皆、領主館の人々。

 自分でも不思議と、あの森が懐かしい。

 生きるのに厳しい世界が懐かしい。

 あの森で私を満たしていたのは、万能感だった。

 子供らしい、希望の世界だったのかもしれない。

 可能性と期待。


 鬱々と考えていると、カーンが戻ってきた。

 珍しく疲れた顔をしている。

 私と目があうと、少し笑った。


「楽しい旅になりそうだぞ」


 口火からして、厭な予感がする。

 足台の前の椅子に腰掛けると、カーンは伸びをした。

 テトが嫌そうに、カーンから反対側に動いた。

 対する男は、それをワザワザ威嚇するように牙を見せて睨む。

 テトも挨拶代わりに、歯を剥いた。


 楽しい旅ですか?


「公爵の氏族は、大まかに十六ある。この中で宰相の役割を担う者と国務、軍務を担う者がいる。鉱山などの権利も彼らが義務と労役を分担している為、一応の平静を保つことができている。だが、この十六氏族の長が、殆ど死んでいる」


 代替わりは?


「代替わりを認める公爵が今まで不在だ。なので、正式な長がいない状態。つまり、公爵自身の状態と同じなんだ。公爵が作った氏族議会によって、何とか領内は安定を保とうとしている。代わりはいるが正式ではない。大きな決定もできないし、領内の細々とした安定を図る事もできない。」


 それに長達の死によって疑心暗鬼ですか?


「そうだ。公爵自身の求心力も、今は通用するか微妙だ」


 公爵のご息女、跡取り様の現状は?


「サーレルの手勢を先行させた。連絡待ちだ。」


 なるほどと頷く私を余所に、カーンは椅子に肘を置くと欠伸をした。


 眠い?


「あぁ、それと良い知らせかな、巫女頭とウォルトは無事で、教会に戻っている。ニルダヌスの孫も下に戻す。ウォルトがしばらく教会にいる。ニルダヌスがいなくても安全だ」


 ニルダヌスはどうなるのです?


「どうしたらいいとお前は思う?あれの罪は何だ」


 そもそもの経緯を知りませんから。


「既に過去の罪は裁かれ、あれは刑に服した。では、今回の告白に関して何が罪になるのか?実は、何の罪も無いと俺は考えている」


 面倒そうに、目をこすると彼は続けた。


「告白自体の信憑性を確かめる術がない。ニルダヌスが正気かどうかもだ。カーザもバットも、端からニルダヌスを罪人と認識しているが、軍事裁判で何の罪に持っていける?でっち上げれば処刑できるかも知れんが。と、まぁ、この俺の意見を知っているから、彼奴等は、俺の変節を疑った訳だがな」


 カーンの言おうとする意味が少し理解できた。


 もしかして、彼らは、ニルダヌスに関して、理性的な判断ができない何かがある。だから、旦那の考えに納得できない?


 私の呟きに、カーンは頷いた。


「獣人の殆どが、ニルダヌスを嫌うだろう。それなりの理由がある。だが、頭をはる人間は、感情で物事を処理してはならない。とこれも、俺が言っても奴らには信頼できない」


 どうしてです?


「まず、お前を手元にという要請が、彼奴等には私情に思えた。お前を実際に見て、こう考えた。お前を何かに利用する為に側に置いている。中央復帰か、この師団に元の地位で戻る?とかかな」


 えーと、よく分からんのですが、あの二人は、どちらかというと上昇志向が強いんですね。


「察しがいいな。つまり、自分の尺度で俺を見ているから、想像力が貧困でな。彼奴等、育ちがいいから。そもそも俺は中央政治からは離れているし、所属は統括直属だ。地位はこれ以上上だと、統括補佐になっちまう。それは絶対嫌だしな。二人の情報網は役たたずだ。せめて元老員の犬ぐらいは、ちゃんと躾ないと」


 大変ですねぇ。


「他人事じゃぁねぇぞ。お前が何者か、未だに探ろうとしている。」


 探るも何も。


「粛正者の仕事は常に沈黙を強いられる。お前がここにたどり着いた理由を上は説明しないし、神殿は、例の場所に関わり有りの案件に関しては、神経質だ。彼奴等が神殿に探りを入れすぎて、処分なんて事もあり得る。俺が脂ぎった野心家の狒々爺と勘違いしている方が、まだ、無難だ」


 狒々爺?


「という事で、今日から一緒の部屋で寝る。剣が抜きやすい入り口側が俺な」


 俺なって何がです?


「寝台の寝る位置。一応寝相は悪くないから、お前を潰すことは無いと思う」


 否、なら、ここの長椅子で寝るんで。


「いつもの野営の雑魚寝と一緒だ。気にするな」


 気にはしませんけど、安らがないです


「そうかぁ?お前、案外図太いぞ。ほれ、早く髪を乾かせ」


 図太い。


「だろうが、この部屋に洗濯物を干す奴がいるか?まったく、書類仕事を洗濯物の下でするのかよ」


 あはは...


「お前、どこか大ざっぱなんだよなぁ」


 否定できないので、黙って髪を乾かした。

 その晩は、安らがないと予想していたのに、寝過ごす程に深く眠った。






 顔を洗う音で目が覚める。

 ぼんやりと布団に転がっていると、身支度をする背中が目に入った。


 獣人は、髭が生えるとどうなるのでしょうか?


 素朴な疑問に、男が朝から爆笑した。


「どの種族の雄も、髭が生えるなら伸びるし髪もあれば伸びる。まぁ、わかるがな。つまり、俺が擬態を解くと獣面になる。髭はどうなるんだってな?伸びた分は何処へ消えるか?自分じゃわからん」


 髭を剃り、顔を洗う。


 当番従卒はつかないのですか?


「普通はつくが、俺は今、休暇中という事になってる。一応な」


 なるほど。


「何がなるほどだ?」


 今までも、一応着替えを見たことがあるんですが、こんなに武器を仕込んでいたんだなぁと。


 ほぼ下着姿で顔を洗う男の側の床には、山になるほどの金物が置かれている。

 それも完全装備ではない。普段着の下だ。

 重さで歩けない重量の、刃物や何かを普段着の下に仕込む生活。


 嫌な休暇ですね。


「普通だ。他の、そうだな、イグナシオは飛道具と火薬でもっと凄いぞ。」


 比較対照が一般的でないような気がします。


 そんな会話をしていると、テトが起きた。

 昨夜は寝台の端と端で眠る私たちの間で、悠々とのびていた。


「そいつと雑魚寝は勘弁したいな、お前の方に寝返りをうつ度に、爪が肉に食い込んでくるんだ。地味に痛い」


 すいません。


「それもじっくり静かに前足を乗せてきて、ザクッと来るから気がつくと血が出てる」


 それにテトが顔を洗いながら、ふふんと鼻で笑う。


「いつか毛を毟る」


 お互い挨拶代わりに威嚇しあう。


「火を入れるから寝てろ。出発は明日の朝になる。今日は体を休めておけ」


 クリシィに挨拶をしたいのですが?


「面会は無しだ。代わりに手紙を書け」


 下の教会にいるんですよね?


「ウォルトと商会の者が教会を調べている。前任の神官の骨と持ち物もな。教会自体を壁紙を剥がすぐらい調べている。例の騒ぎで、町も洗浄対象でな、出たら体を一度検査しなければならない。明日の出立に間に合わない。出がけに手紙を渡すのが一番だ」


 冷え切った室内から暖炉に火を入れる音がする。

 寝室の扉は開け放たれ、その向こうが薄明るい。


 手紙、紙は何処に?


「こっちの机の中の物を適当に使え」


 服や持ち物を返したいのですが?


「返す必要はない。祭司長が支度の金を渡している筈だ。それに殆ど貰い物だろうが」


 クリシィの私物もあります。


「んじゃぁ、それは手紙と一緒に渡すように手配しておく」


 戻ってくると寝台に腰を下ろし、足下から装備を付けていく。

 見ただけでは使い方は謎な物ばかりだ。

 だが、刃物である事は、鈍い光りを放つ物を見れば予想はできた。


「これは対人装備だ。化け物には火が一番効果がある。単純だが、結局、焼き尽くすのが一番だ」


 ニルダヌスは、どうなるのです?

 私達が去った後、彼は処刑されるのでしょうか?


「多分な。あれ自身の危険性がわからないのもある。加工されたが、元々百人隊長の天辺にいた。剣の扱いは獣化できなくても脅威だろう」


 獣化ができない?


「それがニルダヌスの罰だ。元々、百人隊長の一番格は、武力自慢の奴がなる。腕に自信有りの猛者だ。ニルダヌスは、剣豪としても名が知られていたしな。だが、獣人として獣化ができない男は、戦闘能力が半減する。今まで難なくできていた事が、まったくできない。そんな感じかな」


 旦那のその普段着も、獣化の能力が筋力を引き上げているからですか?


「そうだ。この間の戦闘訓練で錘を見たろう。自分の体重と同じ錘は加重にならない。倍ぐらいからやっと重さを感じる」


 だとすると、ニルダヌスは虚脱している感覚をいつも抱えているのでしょうか?


「今は慣れたろう」


 普段着を着終わると、濡れた髪を撫でつける。

 顔を洗うついでに短髪を洗ったようだ。


 髪の毛、黒いと思いましたが違うんですね。


 一般的な、黒っぽい髪の色だと思っていたが、目の前にあるのは、白っぽい灰色だ。


「この間、獣化を中途半端にしたからな。元の地毛に戻っちまった。」


 色を変えられるんですか?


「擬態を解いた時の色にもよる。白か灰色、模様が藍と黒。この位なら毛髪の色は変えられる。目は駄目だ。俺の目は奇形だからな」


 目がですか?


「気味悪いだろう?白目と瞳の区別がない。視力異常があるしな」


 異常って、大丈夫なんですか?


「見えすぎるんだよ。だから、南領の昼間が辛いんで、特別に被せ物をつけている。クソ暑いのに、顔を半分覆うんだぞ」


 良かった。病気ではないんですよね?

 それに瞳は、朝焼けの色が混じっていますよ。

 きっと夜明けの先を見るのに向いているんです。


「詩人かよ」


 カーンは背中を向けると、続けた。


「俺の父親って奴は、この目が嫌いでな。何度か抉られそうになった」


 濡れた頭をそのままに、皮肉な口調で言った。


「まぁ、先に抉ってやったがな」


 何と答えが返るか試す気か?

 とも言えず、私は後ろににじりよると手拭いを取り上げた。代わりに髪の毛を乱暴に擦る。


「昨日も言ったが、お前は大ざっぱだな本当に。もう少し、まぁいいか..で、ニルダヌスが気になるのか?」


 はい。ビミンの事もあります。


「爺が死んだ方が、孫は誹りを受けない」


 部外者は何も言えません。が、彼の身に何があったのかを知るには、神殿の方々に調べてもらうのが一番ではないでしょうか?


「それ、何気にエゲツないぞ」


 え?


「頭の緩んだ審判官を基準に考えるな。審問官は拷問に長けているぞ。ニルダヌスの場合は、特にガチガチの拷問士のような奴が処理するだろう」


 どうしてそうなるんです?


「ニルダヌスの口にした魔導云々は、異教の徒と考えるのが妥当だろう。それも禁忌として抹消されるべき異端としてだ。」


 なら、私もそうです。


「お前の力は、祭司長が許容範囲内と責任を持ったからだ。お前の種族と、お前の魂の名と、そして特殊な状況からだ。だがそれだって万全じゃない。審問官が祭司長を出し抜き、お前を異端異教の徒と認定すれば、拷問の末殺される」


 否定するほど愚かでは無い。


「俺がお前を神殿の者に預けたくない理由もそこだ。祭司長が把握できない所で、気狂い共がお前を見つけたら何をするか。よしんば異端とされなくとも、神と崇めて監禁されるぞ。巫女頭は幸いお前を気に入っている、祭司長もだ。だが、それと気狂い共の理屈は別だ」


 私は頭を振ると、手櫛で短髪を整えた。


「神殿長も祭司長も今は多忙だ。ニルダヌスの処理は、神殿に渡せば確実に審問官の手に渡る」


 私の考えは甘いのでしょうか?


「何がだ」


 旦那の言う、罪に問えないというニルダヌスの身柄を、処刑とか拷問とかにかけるのは、ちょっと違うような気がするのです。


「どの辺が違う?」


 私は濡れた手拭いを洗面台に置くと、暖まってきた部屋に服を持って移動した。


 暖炉の炎の前で、もぞもぞと着替える。


「着替え終わったか?」


 大丈夫ですよ。


「で、助けろと?」


 助けるというのとも違うのですが、彼を処刑してしまうと、何があったのかという過去の出来事への接点が切れてしまうのではないでしょうか?


 寝室から出てくると、カーンは窓辺に立った。

 夜明けの空は群青色で、まだ、暗かった。


「過去ねぇ、問題は、殆どの者が過去を忘れたがっている。臭い物に蓋だ」


 旦那もですか?


 それに、カーンはいつもの笑いを返した。


「死んで許すなら、とうに始末している。それに焦らずとも皆いずれ死ぬ定めだ。誰かが死んで消せる過去なんて無い。」


 そして書き物机から、紙を数枚取り出した。


「俺としては、どちらでもいい。真実、臭いものが隠されているなら興味はある。だが過去は過去だ。だからここで、ニルダヌスの助命を願うのは、多分、お前だけだろう」


 私に紙を突きつけると、カーンは冷たい声で言った。


「よく考えろ。他人の心配より、自分の事を考えるんだな」











 クリシィには、公爵の招待を受けたと書いた。

 衣類やその他の物への礼。

 そして神殿での好意への礼。

 再び、会える事を願う別れの挨拶を書いた。

 クリシィへの手紙は、返す荷物と一緒に渡す。


 それから、もう一通手紙を認めた。

 それを渡すと、カーンは懐に入れて部屋を出て行った。

 私は朝食の時間まで、窓から外を眺めた。

 食事は今日に限り部屋に運んでくれるそうだ。

 空が白く光りを含んで明けていく。

 暫くして、カーンが戻ってきた。

 食事のカゴを下げている。


「渡したぞ」


 テトが鳴いて答えた。

 ビミンへの手紙は、返答しだいだ。

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