ACT172 俺は変わったか?
ACT172
魔導師とは何者であり、その素性や姿は?
魂をつなぎ止めると渡された物の形状と使い方。
貴方が払った対価。
変異体の原因が、ニルダヌスの遭遇した魔導師が与えた物の違いはなんでしょうか?
獣人にも効果がある事。獣人はどのような変化があったのだろうか?
先の質問は、ニルダヌスに渡し、次の質問はモルダレオに渡した。
先に口を開いたのは、モルダレオであった。
「変異体は、改変の失敗作である可能性がある。今聞いた話では、ニルダヌスの種は、死者を一時的に回復するのが目的だ。
だが、変異体の場合は、そこに重きを置いていない。この為に、肉体の過剰な変異が急激におこる。そして、知能についても、本能部分が働けば良いので、記憶や感情の保存は行われていない。
失敗作というのは、過剰な変異が継続しているために、本来の統制を受け入れる個体としての能力が無い。強いて言うなら、失敗作
を捨てて、我々の手により処理をさせている。
そして、大きな違いは、ニルダヌスの話す肉体の変容は、直接摂取した者の肉体、死者の肉体を糧に増殖をする。しかし、マレイラの変異体は、寄生虫を変化させた副次的な効果と考えられる」
既に、変異体の騒動は、呪術や、魔導師なる者の手をはなれている。元が不確かな呪術という原理であっても、形として成っている。
手段が常識外であるだけで、争いは人が原因だ。
人同士の争いは、戦争屋の彼らの領分である。
では、私は何をすべきか?
ため息がでる。
元より、死者の望む安寧だろう。
このニルダヌスの話を信じれば、魔導師なる者がこの地域で活動しているという事になる。
この地域は、不死の王の加護を得ている。
だが、それを乱そうとする勢力があり、彼らは粗雑な呪術を行っている。
現在の東マレイラ内部での争いが原因であると考えられる。
では、粗雑な呪術を行う者が魔導師であるのか?
違う。
即座の否定。
魔導師とは、何か?
呪術との原理の違いは何か?
魔導師とは契約に縛られる者
呪術師とは理に縛られる者
魔導師の対価は、犠牲。
呪術師の対価は、犠牲。
その犠牲の違いがわかれば、自ずとその力と目的の違いもわかる。
近しいが彼らと我らは違う。
我らは
そこまで考え、ふと視線を感じて顔を上げる。
「私の会った男は、若い男の姿だった。人族の、黒い髪と目をしていた。渡されたのは、掌程の肉厚の植物の実に見えた。
それを割ると小さな種がある。大きさは団栗程だ。それを飲ませた。口に入れると勝手に体に入り込む。
三日ほどで息を吹き返すが、正気でいられるのは一年。腐り果てるのにそれから二年だろうか。腐り果てると体から使った実が落ちる。本来は実になるまで体内に置かずに焼く。
私は再び実を手にし、腐り果てた遺骸と暮らしていた。この頃から私の正気も無くなった。」
対価は、魔導師は何故貴方に実を与えたのか?
「彼の連れを助けた」
「連れとは誰だ」
「彼の妹だと言っていました。浚われそうになっていたので、私が介入しました」
「何処でだ?」
「ヨランダです」
「西か」
カーンに聞くと、ヨランダとは西の砂漠にある遺跡の町で、南領の師団が巡回する僻地の一つらしい。
ここまで聞くと、善意であったのかもしれない。と、私は思った。
危険な代物ではあるが、善意だったのかもしれない。
では、ここで私は何を為すべきなのか?
再び、己に問う。
私という個人は、一介の狩人には、むしろ何の責務も無い。
だが、供物としての我が身は?
やはり最初から、私のすべき事は変わらない。
不死の王が施した術の補完をし、不浄なる物を理の内へと戻す事。
偽善であろうとも、知らぬふりができぬなら、最後まで手をだすしかない。
それには何をするべきだろうか?
マレイラの土地の呪術を教えてもらい、崩れた部分を補強する。
魔導師が関わったとする事柄を正す。
もし、狂ったという何かがあるのなら、呪術で言う理の内に戻す事も可能に思える。
だが、本当に私がすべき事なのか?
とも思った。
もっと強く賢い、そう神殿の者が当たるべきではないか?
と、弱腰の私が言う。
力のない村の女としての、最善とは厄介ごとから全力で逃げる事ではないか?
だが、その一方で、好奇心の固まりのような我らは、早く不死の王の御業を拝みたいと騒ぎたてる。
そして、もう一人の供物の私は、殺された娘達の寂しさや、姫の望んだ夏の空を思うと目が霞む。
「どうした?」
カーンの問いかけに、私は、文字を綴った。
コルテス公爵様の領地には守護がございます。
ならば、東マレイラの他領にも同じく、守護はございますか?
私は紙を公爵に差し出した。
「ある。コルテス領には独特の守護があるように、それと同じくシェルバンにもボフダンにも同じような守護がある。」
「守護とは何ですか?」
カーザの問いに、公爵は口をつぐんだ。
まさか、不死の王の術で領土を守っているとは言えまい。
魔導師を妄想と公爵が否定しなかったのも、現に彼は宗主として儀式を行い妻を差し出しているのだ。
「巫女見習い、守護とは何だ?」
重ねた問いかけに、私は少し考えた。
それから、言葉がよく伝わるように、カーンの手を握った。
「争い事には疎いが、彼らが何を目標にしているのか、別の視点があると言っている」
代わりにカーンに喋らせた。
「彼らは、呪術的な守護という部分を破壊しようとしている。呪術という言葉を変えれば、心のより所や信仰を破壊しようとしている。
まず、公爵の身を損ねようとしたのは、政治的な事柄などを切り離し、信仰と言う部分で考えると、宗主というコルテスの儀式頭を殺害する事で、領地の信仰を阻害する目的を達せようとしたと考える事もできる。
現に領地は内政、商業活動は一応保ってはいるが、精神的な活動は停滞している。
次に、領地内で蛮行を行う。これにより領地内の人心に更なる不安を与える。理が傾けば、領地内は全て負に力が流れていく。
つまり、公爵一人を殺害する計画ではなく、守護の儀式を執り行う者を無くす事を密かに行っていた。では、他の領地ではどうなのか?だそうだ。ボフダンとシェルバンの今わかっている様子は」
「ボフダンは特に変化は無い。シェルバン領内は変異体騒ぎで村や関が破壊されている」
答えたモルダレオに、カーンを通して問いかけた。
「何か変わった事はおきていないか?いや、何が破壊されている?」
「村や町が破壊されている。イグナシオから関を二つほど焼いたと報告が」
「破壊する理由がある筈だと言っている。無秩序に破壊しているのでは、ないはずだと」
「変異体は失敗作で、成功した者を集めている。そう、我々は考えているが」
「変異体の成功例という物はわからないが、力を蓄えているのなら、おそらく変化のないボフダンを..それは..どうなるんだ?」
「何て言っているんだカーン」
手を握ったまま、円卓の上に置く。カーンは私を見つめ、その手を宥めるように揺すった。
「東マレイラの守護を全て破壊する。守護とは理の内の正しい流れ。正しい流れを阻害する目的は一つ。寄生虫の行いと同じ。だそうだ」
それにモルダレオとニルダヌスが、同じように声を上げた。
「改変か!」
「どういう意味だ?」
「不死細胞が例の場所で活動する物どもと同じなら、彼らは環境の改変も行うと仮定する事ができます」
モルダレオの言葉に、ニルダヌスが力つきたように言った。
「まさに地獄だ」
「わかりやすく言ってくれ」
カーザが不審を隠さずに言った。
「彼女が言いたかったのは、環境を変えようと彼らは活動しているという事です。虫は変化し、人は体を変えた。次は、その体にあわせた環境を作り出そうとしている。つまり」
誰もその先を言わなかった。
「つまり、何です?」
公爵の問いに、ニルダヌスが答えた。
「腐土領域を作りだそうとしているのでしょう」
「推論だ」
カーザの切って捨てるような言葉に、室内は静まった。
余計な事を言ってしまったが、こうなれば、シェルバンかコルテスの儀式やその場所を見てみなければならない。などと、楽しげに騒ぐ意識がある。
その意識には、絶対の自信があり、シェルバンの守護はとうに壊されているだろうと喜んでいた。
この東マレイラの守護は、環境の汚染が切っ掛けであると思っていたが、もしかすると、もっと古い物かもしれない。
古い物を、汚染という事柄に合わせて変化させた。
その時、公爵が笑った。
含み息をもらすように笑った。
「どの推論にしても、私の故郷は災難ですね。何が起きているのか把握するには、領地に帰る事が優先ですか。アッシュガルトは今、どうなっています?」
「変異の兆候の無い住人は隔離し治療をしている。海沿いの住人は比較的無事だったが、街の中心部は焼き尽くした。今現在は、地下の通路や街全体を探索している」
「コルテス領に戻るには、領地から迎えをと思いましたが、無理でしょうね」
「こちらでお送りするようになるでしょう。公爵殿が領地にて落ち着けるまでお送りします」
「何時頃になりますか?」
「旅程を組み、人員を選抜する等の準備に数日。こちらにも、少し事情がございまして、しかとは申し上げられない。」
「いえ、こちらこそお手数をおかけする。では、領地へ帰還するおり、今度のお礼もかねて...」
「困り事がある」
帰還後の会合から数日が経っていた。
アッシュガルトの騒動は予想以上に長引き、何処とも知れぬ場所から変異体が焼いても焼いてもわき出してくる。
公爵は足止めを余儀なくされ、私はテトとビミンを相手に暇を潰す。
ニルダヌスの処分は、彼の記憶や証言を絞り尽くすまで保留だそうだ。
そして再び、カーザの部屋に呼ばれた。
今回は、カーザとバット、カーンがいる。
「今日、中央からの返書と共に、これが届いた」
バットルーガンが、鉄の小箱を円卓の上に置いた。
「巫女頭殿はアッシュガルトの商会に足止めになった。本来は彼女に見てもらうつもりだったが、巫女見習いでもよかろうとな」
鉄の小箱には厳重に封印が為されていた。
ぐるりと長方形に切られた紙が蓋の上から貼り付いており、開けると破れるようになっている。
「この封は神殿長が施した物だ。開封する場合は、破かずに開けねばならない。破けずに開くには、巫女頭が手をつけねばならない。だが、巫女頭は化け物騒ぎが収まるまで、商会で預かってもらうのが安全だ。」
もしや、これを私に開けろと?
「見習いだ」
「見習いでも、神殿の神に仕える者なら当然封を解けるだろう」
「だとしても巫女頭への荷物なら、開かぬのが道理だ」
「巫女頭の荷ではない。これはシェルバンで発見された物だ。中央へ送り、中央の判断で神殿長が調べた。それを送り返して来たものだ。より安全をはかる為、封印を施した」
「では、下の騒ぎが収まるまで待つんだな」
「公爵殿が領地に戻る迄に、中身を見てもらいたいのだ」
頭上を通り過ぎる会話を余所に、私は箱に目を据えていた。
鉄の小箱。
飾りはない。
その蓋上部から入れ物の下の部分まで、封じるように長方形の白い紙が貼ってある。
そして、その鉄の箱の継ぎ目、蓋の部分の継ぎ目から、絶えず冷気を感じた。
不快。
寒気と悪寒。
凝視していると、カーザが言う。
「開けられるか?」
開けていいのだろうか?
それが正直な気持ちだ。
巫女頭程の信仰心なら耐えられるのか?
開けてはならぬと思う自分と、開けろと叫ぶ声が重なる。
「巫女見習い。その紙を破らずに剥がせるか?」
「破いたら駄目なのか?」
「箱の継ぎ目が溶けて蓋が開かなくなる。そうすると箱を割ることになるが、鍛冶師の所で開く事になる。そうなれば中身が無事とは言えまい」
「やらんでいい。これを下に持って行けばいいだろうが」
「荷物の洗浄ができるならやるが、これを洗浄していいという許可がない。別段、発見した奴らには何もなかった。その紙を剥がしてもらえればいい」
「手間を惜しんで、こっちに押しつけるのは止せ。」
「そちらこそ、何を躊躇っているんです?ただ、神殿の封を剥がすだけの事なんですから。神殿の巫女見習いなら、できる筈ですよね?」
カーザとバットの二人には、神殿からの手続きとしか感じられないのだ。
私と、少し見えるようになったカーンには、この何とも不安な気配が分かるのだ。
だから、この感覚を彼ら二人に分かれというのも無理なのだ。
「オリヴィア、嫌なら手を出す必要は無い」
カーンの瞳を見返す。何故か、彼は怒っていた。
だからだろうか?
私は箱に向き直った。
簡素な鉄の箱。
正面に紙が蓋を押さえるように貼り付いている。
無地の白い紙だ。
これを破かずに開ける。
指で触れても大丈夫だろうか?
そんな事を考えながら、その白い紙に指をのせる。
すると指先に凹凸を感じた。
目をこらしても何もないのだが、触ると凹凸がしっかりと刻まれている。
文字だ。
目を閉じて紙をなぞる。
神殿の紋様と署名。
そして内容は、警告。
これは呪具である。
囁く物である。
聞こえる者は触るべからず。
「どうだ?やっぱり取れないんだな」
バットの声がいつもと違って聞こえた。
少し考える。
聞こえる者とは、多分、神に仕える者や私のような異形が見える者の事だろう。
呪具、箱の中身はシェルバンから見つかった呪具である。
私は箱を開けたくないと思う。
開けろ開けろと騒ぐのは、グリモアだろうか?
開けたくない。
封印の紙を最後までなぞる。
読み上げて、本来はクリシィの名前を入れるのだろうが、私の名前をなぞる。これで箱の蓋が溶けたら拙いな。と、思いながらも名前をなぞると紙が落ちた。
ぺらりと落ちて、私は手を慌てて引っ込めた。
何となく、紙が落ちた瞬間に、中から何かが覗いたような気がしたのだ。
「何で剥がれる..」
カーザの呟きに、私は首を傾げた。
「お前等」
カーンの声に肩をすくめると、バットは止めるまもなく蓋を開けた。
軽い音をたてて、蓋を押し開く。
中は天鵞絨の布が敷かれており、小さな革張りの本が置かれていた。革張りで開かぬように帯がついており、そこに鍵穴がある。
鍵で本が開かぬようになっている。
そして、私の驕りに対する制裁は素早かった。
本を目にした後、吐いた。
私が吐き始めると、カーンが小脇に抱えて部屋の隅に移動した。
「大丈夫か!」
アレに、誰も触らないように。
「蓋を閉めろ!」
カーンの声を聞きながら、私は目が回って引きつけていた。
苦しいという感覚だけで、自分の体の自由が利かない。
目が回る。
天井が床が意味をなくしたように、体の置き場所がわからない。
オリヴィア
オリヴィア
ちゃんと見て
流れ出ている毒を見て
怖がりすぎるから、付け入られるんだよ
ほら、これが理の外から力を繋ぐ、魔導の力。
よく、見てごらん。
他者を悉く蹂躙する。
もちろん、彼らも魂を捧げている。
我らの理の外から。
彼らは一番、主に近しいのかもしれない。
だけど、この世に在る限り、全ては理の内。
目を見開き、しかと見よ。
たかだか、人の皮の書物など、血肉のグリモアから比べれば、児戯である。
下等愚劣な物にすぎない。
さぁ、見るのだ。
さぁ、見てごらんよ。
我らの目を使い、見てごらん?
視界いっぱいに、焦った男の顔があった。
私はゆっくりと瞬きをする。
すると部屋の天井に延びる影が見えた。
影は木の枝のように部屋の壁にも床にも延びている。
私の回りの空気にもそれは枝を伸ばしてた。
元は、あの鉄の箱。
影をかき分けるのも、触るのも嫌だった。
私が凝視している物を見ようと、私を抱え上げたカーンは部屋を見回した。
「俺にも見えるぞ、オリヴィア」
鉄の箱から延びる枝に、私は目をこらした。
影はウゾウゾと蠢いている。
蟻の大群のように、その枝の形に群れていた。
「何が見えるんだカーン」
カーザの問いかけと同時に、壁に掛けられた地図の額にヒビが走った。
その脇にある書棚の側面にもヒビが走り、それは徐々に石壁の表面にも割れ目を見せた。
ビシビシと部屋全体が軋み出す。
「亀裂の無い壁際に下がれ。くそっ燃やすか」
駄目です。
待って、私が間抜けなだけです。
いい気になっていたんです。
「バカ野郎!死にそうな顔してるじゃねぇか」
大丈夫です。
油断して転んだようなものです。
「これ以上お前に何かするようだったら、燃やす」
「待て、カーン、貴重な手がかりだ。騒動の原因がわかるかもしれん」
「うるせぇ役立たずのクソが、こいつは俺が預かってるんだ。毎度毎度、血かゲロ吐くような目に合わせてるんじゃ、俺の面子が丸潰れだ。文句あるか役立たずどもが。元々、てめぇらが、満足に役目を果たせねぇから俺が呼ばれてんだろうが。俺に命令できる身分に何時からなったんだ、あぁ?」
南領の俗語が混じる罵倒が続く。
背をさする手に安堵しながら、地元の言葉だと巻き舌になるのだと頭の隅で考えていた。
大丈夫です。
少し、この呪を整えてみます。
「いつでも燃やすからな」
カーンの言葉に、バットは両手を上げ、カーザはため息をついた。
「それは最終手段にしてくれ」
影をよく見ると、規則的に黒い物が動いている。
神殿からの封印をしていた紙は、よく見れば美しい波を出していた。
影もそこには及ばない。
私は紙に施された物に目をこらす。
簡単な、本当に簡単な言葉だ。
それは陽の光を表す古代の言葉。
陽の光、風、が綴られているだけだ。
簡単な言葉で、最小の力で完全な、調和を表している。
調和だ。
では、この漏れ出した毒を、調和という概念に入れるには、何が必要か?
不用意に、未熟な私が手を出しただけで溢れかえった毒。
この毒は何だ?
異物。
という言葉が浮かぶ。
つまり、これは理の外の異物。
化け物であろうと異形の姿であろうと、この世界に現れた瞬間から、全ては理の中にいる。
では、これも理の内に入れねばならない。
では、自然の理の中で、毒とは何か?
毒とは、その物を守る盾である。
盾、殻、守護。
守護とは逆の姿である、が?
不意に、昔話の双子という言葉が思い出された。
この世に無駄な物はない。
それは表であり裏である。
私は漏れ出す黒い影に触れた。
全くの理解の外にある恐ろしい感触。
その一瞬に人の苦しみと絶望が押し寄せる。
醜い死に様、汚物のような何か。
吐き気を催す世界。
鋭い人の絶叫が耳を潰す
狂気。
だが、これは既に、この世にある。
人の理の内の物。
目をこらす。
見つめる。
黒い点は、ざわざわと形を変える。
調和とは、完全なる自然。
死も恐怖も、その一つに過ぎない。
虚仮威しの児戯。
恐れるなかれ。
これは実を守る固い殻。
配列は、呪詛であるが、言葉は、調和を描く。
対する者の鏡。
鏡。
見つめ続けると、それは鏡になり人の顔になり、そして調和を得て戻る。影の枝は箱に戻った。
不意に圧力が下がったように部屋を軋ませていた何かは失せた。
書類机の上の硝子の文鎮が砕けている。
それだけが異変のあった事を示していた。
酷い目にあった。
相も変わらず禍々しいが、触れる者を狂気に落とす毒を垂れ流す事は、なくなった。
只、私は、その本に触れる事は無理だと思った。
「これは何だ?」
カーンは様子を見ながら再び蓋を開く。
手袋をしろというのに、素手だ。
「平気だ。酷い臭いだがな。何だこれは、汚物みたいな臭いだぞ」
「シェルバンの関から発見された。棺と共に関の街の地面が抉れて出てきたようだ」
薄く小さな皮の本だ。
皮は飴色になり、その表紙には奇妙な紋様で埋め尽くされている。
開かぬように帯があり、そこに鍵穴がある。
「鍵はないのか?」
「鍵を発見し、神殿に送り返せという話だ。気分はどうだ?」
バットルーガンの問いかけに、私は頭を振った。
カーンの指が漏れ出す影でよく見えない。
幸い、素手で触っても問題ないようだ。
箱に入れておくのがいいでしょう。
運良く鍵が見つかっても、開かない方がいい。
カーンは本を箱に戻して、上着で手を拭いた。
「触ると生温かいぞ」
素材はわかります。
「素材?」
人の皮膚で装丁が施されています。
多分、中の紙も嫌な感じですし、恐らく血が練り込まれているでしょう。
表紙の紋様の着色料も血が混じっている。
「きたねぇ..箱も開いたし、お前は医者だ。俺も手を洗いたい」
「おい、待ってくれ。彼女は何て言っている?」
「まぁ、なんだ。ペドフェリィのお得意業だな。あの手の輩の品じゃないのか?」
「ペドフェリィ、何だそれは」
首を傾げるカーザに、バットが顔をひきつらせて答えた。
「殺人鬼の名です。人の皮を、特に若い娘の胸の皮を剥いで服を作った事で有名です。」
団長と部下は、小箱の本を凝視した。
「生温かいぞそれ、気持ち悪いよな。まぁ、箱も開いたし、こいつの吐いたの片づける人を入れるぞ」
自分で掃除します。ごめんなさい。
「あやまらんでいい。無理なことをさせたんだ。こんな薄気味悪いもん女子供に見せる方がおかしい。それに俺は、今、猛烈に怒ってんだよ。なぁ?」
カーザが面倒そうに返した。
「無理を言ったのはこちらだ、部屋の始末もするから同じだ。バット、それを保管する場所を考えろ。」
「それにしても、発見した奴らも、送った先でも、何も無かった筈なんですがね」
バットの言葉に、カーンは動きを止めた。
「神殿に送る前に、これを開こうと捻くりまわしたんですがね。さっきみたいな事は起きなかった」
バットの指摘に、私は不安を覚えた。
「何かしたのか?否、先ほどは何をしたんだ。巫女見習いというが、何者なんだ。神殿も身元までは明らかにしなかった。」
囁くもの
私の所為?
「違う、お前の所為じゃない。何でもかんでも自分の所為にするな。お前の言う事は一々理屈で固まりすぎてる。悪いことが起きれば、全て自分の所為か?
自惚れんじゃねぇぞ、こら。この世の中はな、そういう考えの奴を餌食にするんだ。何の落ち度もなくたってな、悪いって言い出した奴の所為にする。図太い奴らにしてみたら、弱みにしか見えねぇんだよ。」
カーンは、私を睨みつけた。
「俺に言わせれば、お前は相手の要望に応えただけだ。よく思い出せ。勝手に開けたのは誰だ?」
私を睨み、次に小馬鹿にしたようにバットを見た。
「バットルーガン、お前だよ。お前が蓋を開けたら、こんな事になった。覚悟しとけよ、バット。もしかしたら、この薄気味悪いもんがてめぇの、枕元から離れねぇかも知れないからな。あぁ?巫女を脅かしやがったんだ、お慈悲なんかもらえると思うなよ」
「怒らないでくださいよ。このくらいで」
それにカーンは、徐々に笑いを浮かべた。
いつものニヤニヤとした、底に怒りの溜まった笑いだ。
「このくらいでな。俺は怒ってるんじゃぁないんだ。お前等の、やろうとしていた事ぐらい見抜けないと思ったか?面倒くせぇから言わないでおくかと思ったが、能なしは何処までも使えないなぁ、おい」
カーンは視線を二人に向けると、牙をむいた。
「俺が変わったと思ったか?俺が弱腰の屑になったかと思ったか?残念だったな、生憎、俺はいつも通りだ。」
「わかっているよカーン。貴様はいつも通り、だ。我々は理解している」
「否、理解していないだろう?そんなお前等の物わかりが良くなるようにしてやるよ。俺は、公爵と一緒に行く」
唐突な話題の転換に、カーザが目を瞬いた。
「コルテス領へ行く気か?」
「ここは面白くないんでな」
バットとカーザは顔を見合わせた。
「聞こえなかったのか?俺とコイツと、俺の手勢は引き上げる。お前等が気にくわないからな。俺は、久しぶりに、ちょっとしたお遊びに行く」
「何を言っているんだ?今は作戦行動中だ!」
「わからないね。俺は、お前の下についている訳じゃない。自分の始末は自分でつけろ。元々、ここの争乱はお前等が何とかすべき懸案だ」
「命令違反は、即」
「即反逆罪か?お前達の方が何か勘違いしているだろう。よく考えておけ、俺を国家反逆罪にできるか?バットルーガン、俺を捕らえるのか?」
私は話の流れがわからず、三人の顔を見回すばかりだ。
私の顔を見て、カーサが頷いた。
「我々は、些細な勘違いをお互いにしているだけだ。バット、そうだな?」
バットは、何も言わずにカーンを見つめている。
「彼はいつも通りだ。」
重ねて言う彼女をチラリと見ると彼は言った。
「はい、彼はいつも通り、頭がおかしい。我々は通常の手順を踏んだだけですよ」
「違うね。お前等は自分の無能を認めるのが嫌だった。関心を持つのはいいが、無駄な好奇心は、己の愚昧を露呈するぞ」
「だが、貴方が最初に隠した」
「自分の尺度で人を計るのは早計だ。俺の言葉をそのまま受け取ればいいんだ。」
「さっき何をしたんです?怪しいじゃないですか」
「お前等の目が腐ってるって証明できたじゃねぇか。巫女が封を外し、きたねぇ物を綺麗にした。見たまんまだ。」
「そんな嘘を誰が信じ」
言葉の途中でその姿は床に倒れていた。
「バット、勘違いは許してやる。俺はここでは客だ。地均しはしてやったんだ、後は自分たちでやれ。わかったか」
倒れた男の頭に、重い軍靴が乗っていた。
「馬鹿だなぁ、お前。お前に俺が答える義務があるか?お前達は、自分の仕事がうまくいかないと、必ず誰かの所為にしたがる。自分たちの理解を超えた物を目にすると対応できない。」
「カーン、バットから足を退けろ」
「お前達が前期の東南任務でしくじったのは、何故だ?」
「今それは関係ない」
「そうかカーザ?お前達は、イグナシオのような男を馬鹿にするが、あの場所で確実に戦えるのは、奴だ。俺はお前達のような奴を信用しない。よくできた兵隊だが、信用はしない。何故だかわかるか?」
黙りこくる二人に、カーンは笑顔で言った。
「お前達は、賢いつもりの風見鶏だ。イグナシオを見習えよ、彼奴に濁りは無い。あぁ、どうせならサーレルでもいい。あのくらい腹黒く自分中心で動く奴は、それだけ信用ができる。もちろん、裏切る勘定を加えてもな」
「我々は違うと?」
「たった一人の小娘を見て、尻に火がついたように狼狽える。お前達は自分の失態にどんな制裁がくるかと怯えている。要するに臆病者だ」
「カーン!」
「違うのか?こいつは、小さな見たままの娘だ。賢い知識とちょっとばかり変わった力がある。こいつを少し長生きさせる為に俺がついてる。神殿から預かった客だ。それをお前等は試そうとした。任務?任務じゃねぇ、臆病だからだ。預かってる俺の顔を潰してだ。つまり、俺を舐めたんだよなぁ?」
「そんなつもりは」
「そんなつもりは無い?笑えるなぁ、俺が小娘の世話を焼いているから、勘違いしたんだろう。多分、誰か中央の奴で、俺が死ぬほど嫌いな奴に聞いたんだろう。任務をしくじり、隠居したとでも」
音が途絶えた室内で、私は言い合う雰囲気に負けていた。
理由も何もわからない。
私がおろおろとしていると、カーザが再び、私を見ると言った。
「すまなかった。巫女見習い、苦しめるつもりはなかった。ただ、お前が何者か知りたかった」
どういう事ですか?
「お前が、こいつ等の弱みを探りに来たと思ったのさ。お前があんまり良い子だからな」
私を抱え、カーンは部屋を出た。
カーザも、床に転がったままのバットも呼び止めなかった。
診察は、エンリケだった。
医務官を追い出して、カーンが勝手に寝台に靴を脱がずに横たわる。
「脱水症状、やはり喉が腫れている。食事は固形物はとらないように。薬は飲んでるか?」
吐き気が収まると、飴の袋を手渡された。
「特に問題は無い。水分、煮沸後の水か果汁をもらって飲め」
飴と白湯を手渡され、私は口に飴を含むと白湯を飲んだ。
「で、どうしたんです?」
人払いされた診療施設の個室で、カーンは不機嫌なままだ。
「小賢しい事を馬鹿がするんでな、そろそろ引き上げる」
「了解しました」
それだけの会話に、私はカーンを振り見た。
説明をお願いします。
「お前はとばっちりを受けただけだ。」
とばっちり?
「元々、このマレイラに何が起きたとしても、俺は手助けだけで処理は彼奴等がしなけりゃならないんだ。少し話したが、彼奴等は失点がある。それを取り戻さないとならない。だが、俺が手助けをしたら罰則がかかる。」
それがどうして、とばっちり?
「俺が手助けをするとしても、こっちが主導で事を処理したら俺の加点になる。だから、俺がするのは下地を作る作業だ。どっちを向いたら良いかって旗振りだ。ところが、彼奴等には、俺も敵に見えたんだな」
敵だなんて。
「まぁ、手助けというかそういった動きを上から指示されている事を彼奴等は知らない。だから、不審に思った。カーザは、自身の指導力不足を理由に俺に指揮権が移るのを恐れた。バットは、前回の任務の失策を本部査察されるのを恐れた。」
だから臆病者と?
「どちらも己という芯が揺らがねば、恐れる事はない。カーザは自分の指揮を例えしくじっても責任を持つと腹をくくれば良いだけだ。バットにしても、兵士を無駄死にさせた責任と悪名を恐れなければいいだけだ」
責任と悪名、怖いな。
「だったら兵士を辞めればいい。人を殺して生きるのを止めればいい。それだけだ。保身に必死じゃぁ、上には立てない。」
だとして、何がとばっちりというのです?
「お前が、審問官だと考えた」
予想外の言葉に、私は口を閉じるのを忘れた。
その間抜けな顔に、カーンとエンリケが笑った。
「飴を喉に詰まらすなよ、娘」
エンリケの珍しい笑顔を見ながら、私は口を閉じて飴を転がした。
「俺が神殿に頼んで、審問官を呼んだと彼奴等は考えた。だから、審問官には、神殿の巫女の仕事はできまいと考えた」
馬鹿な。
私の一言に、カーンは笑いを深めた。
「お前が何者かを確かめたくて、箱の封を触らせた。多分、返書には、巫女なりお前には、封だけ解かせて、中身に近付けるなと注意されていたろう。だが、巫女でないなら問題ないと、彼奴等は考えた。」
カーンは、飴の袋から一つ摘むと口に含んだ。
「だが、ああして事が起こっても、彼奴等は信じなかった。俺が、此奴や下にいるスヴェンや仲間を信頼できるのは、頭の中身に余裕があるからだ」
余裕ですか?
「宗教的な教義に凝り固まっていても、憎しみや偏見を価値観の芯にもっていても、他者の価値観を拒否しない。価値観だけじゃない、常識もだ。お前が吐いて、部屋中に何かが広がって、それでも彼奴等は、自分の理解できる常識にしがみついている。」
私の何処が疑われるんだ、でしゃばるなと言うなら何も、私だって…
思わず漏らすと、カーンが楽しそうに言った。
「だから彼奴等の前で、彼奴等の考える、俺が言いそうな事を言ってやった。丁度良い理由ができて、よかったよ」
どういう事です?
「つまり、面倒な他人の手柄を作る下地作業はここまでで、後は、自由に動いてやろうってな。お前も、どうせ公爵の儀式やら姫の事を調べるんだろう?」
さっきのあれは、演技ですか?
「演技じゃない。理由を向こうがくれたから楽になったってだけだ」
なるほど、本当にとばっちりなんですね。
「俺は彼奴等に言った。言葉をそのまま受け取れとな。あの場で俺は偽りを述べてはいない。お前だってそうだ。お前は良かれと思って手を出した。彼奴等は、自分で自分の首を絞めているだけだ。」
そう言えば、カーンは彼らに言っていた。
地均しはしたんだと、お前達がやれと。
「だから、俺はいつも通りだ。どこか変わったか?」
カーンはがりがりと飴をかじった。
確かに、飴の食べ方は変わってないな、と思った。




