ACT150 挿話 煉獄への道程
ACT150
彼の中では、全て、整合性がとれていた。
義理の息子へ与えた事も。
娘によって、運び出した事もだ。
だが、それでも、私は...
死んで楽になりたいと、ふと、思った。
途端に意識が濁る。
なぜ、自分に与えられたのか、なぜ、自分は与えてしまったのか。
理由を考えても分からない。
分からないと言う事に気が付いて、やっと理解する。
私という個は、死んでいた。
感情も思考も檻に入れられ、私という器が勝手に動き。
そして、誰に殺されたのかも忘れ。
或朝、鏡を見て気が付く。
お前は誰だ?
見知らぬ他人となった顔を見て、薄ぼんやりと気が付く。
長い間、自分を失っていたことを。
そして思い出し、見回し、取りこぼした人生に絶望する。
ところがその絶望も、よくわからない。
長い間、自分が支配された奴隷だったからだ。
長い間。
そこから足掻く事は、酷く面倒に感じた。
ぼんやりとした意識の奥底で、私は絶叫する。
だが、日々生きているように見える自分は、喋り、食し、眠り、勝手に動き。自分という肉体の檻の中で、弱り切った自我が、出口を探して這いずるだけ。
無力で無気力。
この中途半端な状態が暫く続いた。
実が弾けるように全てが駄目になるのを、内側で見続ける。
ところが、ある日、その支配が弱まった。
徐々に意識が戻る。
それと共に、操られて為した事が、毎晩自分を苛む。
そして、次に何が起きるのかと怯えた。
自分が死ぬのは簡単だ。
もう、半ば死んでいるのだから。
だが、死んで救われる訳ではないと、毎朝、悟る。
そして
「お爺ちゃん、きょ、狂化した人、狂、外に、いる」
青い顔で孫が扉の前を塞ぐ。
隣の若い男も、椅子や家具で扉を押さえている。
「巫女様を奥へ、危なそうなら商会へ運び込めや」
ウォルトが商会の者に指示を出した。
扉の向こうから、うなり声が聞こえる。
徐々に、それは大きくなり、今では耳を聾せんばかりだ。
「おう、おめぇ。外にいんのはぁ、何処の誰だ」
ウォルトが控えの部屋から大振りの鎚を取り出した。
大工仕事に使う物ではない。
彼の体に見合った、戦鎚だ。
まるで、分かっていたように武器を置いていたようだ。
「テリーチルカ、領館側の町の」
泡を食う領兵の青年というより、少年を見据えて武装船員が首を傾げた。
「そいつ人族だろう、おかしいじゃねぇか。」
扉を押さえる少年を退けると、障害物をはらった。
「入って来ちゃうよ」
ビミンの言葉を無視して、ウォルトが顎をしゃくった。
私は剣帯の留め金を外した。
そっと扉を開ける。
狂化とは、獣人が肉体の調整をできない状態になる事を指す。
狂人となり、凶暴化する。
肉体が精神を裏切り、暴走する事。を、指す。
獣人が隷属民として扱われていた過去には、こうした狂化した獣人の姿を恐れ忌避し、蔑んだのが始まりと考えられている。
精神失調が、即、暴力行為になる訳ではないし、肉体変化が思うようにならないからと、全てを破壊するような事は滅多に無い。
それでも、狂化する獣人が皆無になることは無い。
故に、そのような者を見かけたら、手近の獣人が始末する。
狂化した獣人は、仲間以外にはしとめる事は無理だ。
集会場の前の広場を見回す。
誰もいない。
ただ、一匹猫が死んでいる。
酷い有様で、猫の頭部が黒々とした血の中に転がっているのが見えた。
気配を探る。
微かな震える息づかいが聞こえた。
私とウォルトは外に出て扉を閉めた。
ぜぇぜぇと息をする男は、木々の後ろにしゃがんでいた。
ゆっくりと近寄る。
猫の血にまみれた男は、怪異な容貌に変化していた。
裂けた口、濁って黄緑色の目、そして頭部が少し前に延びていた。
ウォルトと私は、木を両側から回り込むように近づいた。
「俺達の血が混じったにしちゃぁ、妙な顔つきと色だな」
肌の色が青い。
鱗を纏う者も確かにいるが、皮膚にそういった鱗は見えない。
むしろ透き通り中の血の動きが見えるような、不健康な様子だ。
男はしゃがんだまま、荒い息をして動かない。
このまま近寄って
捕らえようかという時、不運にも町の住民が行きあわせた。
集会場は町外れ、商会のある岬の灯台が見える位置にある。
普段ならそれほど人が行き来する場所ではない。
だが、それでも町の中心へ続く本通りの最後がこの場所であるから、散歩や誰かのお喋りの為に人がやってくる事もある。
そして、その偶々現れた町の住人に、男は気が付くと一息に襲いかかった。
町の住民、若い男と女は、手荷物を抱えて談笑していた。
最初に女が殴り飛ばされた。
何が起こったか分からない内に、連れの喉笛が噛み切られた。
深く噛みつかれたのか、男の首から血しぶきがあがるが、声は出なかった。
もがいて暴れるのは痛みと驚きだろうか。
躊躇い無く食いつき引きちぎり、深く深く噛むので、恐怖に男の口が開くが声は出ない。
ウォルトが殴られた女に駆け寄るのと、私が剣を引き抜くのは一緒だった。
倒れ伏した女は、その一撃で首が捻れていた。
絶命しているがそれでもウォルトはうなり声をあげると、女の体を引き寄せた。
檻の中の私は、この出来損ないを不愉快に感じた。
そして、私を動かす誰かも、この不始末を嫌悪した。
私は全てを失った時、加工を施された。
獣化する術を失っている。
だが、成人の人族男子と遜色のない筋力を有している。
男に近づくと、その四肢の腱に向かって刃物をふるう。
まるで、金属装備のような手応えだが、足の一本を駄目にすることができた。
その動きのまま、食らいついた男の延髄に剣を叩き込む。
絶命も気絶もしない。
そこで、一端引くと突きの構えをとった。
男が振り返る。
その手には、未だに食い物が握られており、顔中を赤黒い血で染めている。顔も、体も、全身赤い。
私を見ると、男は笑った。
汚い歯をむき出しにして笑う。
それはまるで、仲間を認めたかのように、やけに親しげだ。
不意に、この男の顔を見て気が付く。
義理の息子、愚かな私、そして。
利き足で踏み込むと、突きの一撃を放つ。
何年も鍛錬を続けた突きは、狂い無く喉笛を突き破る。
すると、剣の突き通った場所から、血管が盛り上がり、皮膚の表面を覆った。
醜く盛り上がる皮膚のまま、喉を突かれた男は静かになった。
頽折れていく体を地面に縫い止める。
ウォルトは女の死を確認すると、狂化したという男を見下ろした。
「何だこりゃぁ」
絶命した男は、暫く痙攣していたが、口から何かが溢れてきた。
蛆のような白い細かな虫である。
「おい、誰か、油と火種を持ってこい。早くしろ!」
ざわざわと這いだすと、蛆のような虫は、小さく鳴いて私に向かってきた。
私は、ぼんやりと、それを見下ろす。
汚いな。
汚い。
虫は私の足に触れる直前で、商会の者が運んだ油を浴びた。
「下がれ」
ウォルトが火を放つと、一気に炎が吹き上がった。
「どうして遺体を焼く油薬があるんだ?」
私の問いに、彼は肩を竦めた。
「死んだら直ぐに焼かねぇと。だろ」
難破船の船員の事だろうが、手回しの良さに、何となく四肢から力が抜ける。
死んで焼いたら、さようなら。
ふと、正気の頃に誰かが言った言葉が浮かぶ。
私と、息子と、誰か。
つかみ取ろうとした、主導権が再び逃げていく。
その微かな意志に縋りつく。
怯えた孫の顔を見て、どうにか助かる道は無いかと考える。
考える側から、意識は濁り、そして、汚らわしい行いを続けるのだ。
「人族も狂化するの?」
ビミンと少年は、炎を見て顔をひきつらせている。
「するわけねぇよ。おい、役人呼んで来いや。二人でだ。そこの餓鬼、一緒に行って説明しろ。こっちの所為にされたらかなわねぇからな。おう、おめぇさんは、巫女様と一緒にいろや」
ウォルトの指示に、商会の者と少年兵が町役場へと駆けだした。そして孫は、巫女と一緒に建物の奥へと入った。
「面倒な事になった。上に戻るのは、ちょっとまってくれ。ケリがつくまで、アンタ等ここでお泊まりだ。何、寝床も何でもあるからよ」
燃え上がる肉と油、毛が焼け焦げる異臭が辺りに広がる。
もくもくと黒煙が上がり、その向こうでは死んだ男女を道の端に寄せた。
私は剣に付着した、血糊と油を拭った。
燃え上がる炎を見ながら、支配が弱まる理由を考える。
徐々に、意識が戻ったのは、この土地に来てからだ。
この土地に来て、目隠しが徐々になくなり、いつの間にか、ここにいた。
確かに、今までも自分自身であったのに、全て知っているのに、魂は檻の中に閉じこめられ、何もできなかった。
囂々と燃える炎に肉が落ちて骨が見え始めた。
時々、手渡された油薬をかける。
火傷するほど近くに立ちながら、漸く思い当たった。
悪魔の手を握る者が他にいるからだ。
没落し、奴隷になり、失敗した者を、悪魔は見捨てた。
何故なら、もう、その手を握らなくとも、終わりだからだ。
炎はやがて小さくなった。
そして、ぼんやりと考える。
救いたいと考えて、一歩を踏み出した。
だが、気が付けば、皆、死んでしまっている。
あれほど大切にしていた全てが無い。
根こそぎ消えたのは、自分が願ったからだ。
後悔する。
と、忠告は受けた。
手にした者は滅びるとも。
悪魔は、最初に言ったではないか。
死者は眠らせるに限る。
それでも、貴方は望むのか?
器に、依戻す。
その意味をおわかりか?
もし、この実をお使いになる時は、約束事をお忘れなきよう。
約束は、三つ。
私は態と破った。
永遠が欲しいと望んだから。
与えられた者は、望んだ。
そして、不完全さに狂った。
狂い、人の腹を割き探した。
私は、慌てて戻した。
戻して、全てを失った。
あぁ、恨むこともできない。
悪魔でさえ、恨むことができない。
選んだのは、私だ。
人族も狂化するの?
狂化ではない。
臨界点は近い。
今度は逃げ出せないだろうと思う。
早く、楽になりたい。
早く、早く。
あの手帳を、私は何処へ隠したのだろうか?
ぼんやりとする頭を割って記憶を探したい。
あれに書かれている筈だ。
新しい悪魔の名前。
新しい苗床。
あぁ、思い出せない。
だが、それも当たり前だ。
大切な人の名も忘れ、顔も姿も思い出せない。
早く、楽になりたい。
それから三日後の朝。
アッシュガルトから内地の三公貴族の合同領主館へと続く街道に、奇怪な男達が現れた。
奇っ怪な男達は、領主館とその町の住人を襲った。
襲撃から程なく、内地の領兵が駆けつける。そして即座にミルドレット城塞へと抗議の使者が送られた。
獣人による、マレイラ人族地域の襲撃としての抗議だ。
これに城塞の駐留中央高官が対応。
獣人による襲撃という事実無根の抗議に対して、治安回復名目の派兵をマレイラに行う用意があると対応する。
そして、襲撃犯とされる数名の男を三公に引き渡した。
三名の(人族)である。
その三名の人族は、獣人の混血と当初思われていたが、彼ら三名が正式な東マレイラの東公領の住人であり、領兵の成れの果てであることが確認される。
重要なのは、彼らが(人族)であるという事だ。
しかし、それでも強硬な姿勢で、獣人による陰謀であるという抗議を、東の貴族から示される。
だが、時を置かずに抗議の声は無くなる。
それよりも深刻な事態、内地から支援に向かわせた兵隊が、まるで獣人のように肉体を変異させ殺戮を行い始めた。と、現地の三公領主より東公領中央に伝えられたのだ。
獣人のよう。
野蛮な行為を為しているのは、東マレイラの人族であり、そのような行いをしてもいない獣人を引き合いに出すことは、侮辱行為である。
この東公領主の中央、政治母体に届けられた伝令文が、中央の幕僚本部にも届けられた。伝令文は対応をした高官が手に入れた物だ。最初の抗議文と共に届けられた高官の文章が、公王と元老員の目に触れる。
結果、東の今回の騒動に対して、中央軍は、静観する姿勢をとる事となった。
静観、つまり、見せしめの為に、見殺しにする事を決めたのだ。




