ACT143 眺望
ACT143
喉が乾いた。
自分を憐れむという行為は、自己陶酔でしかない。
鬱陶しい女だと自分を叱る。
落ち込むのも無駄に思えた。
下でも生水を控えた所為か、余計な水分を流したお陰で、喉がひりひりしている。
簡素な室内を見回すと、繊細な水差しが置かれている。
その中身が飲み水かどうか定かではない。
かといって、外へ水を頼んで届くのだろうか?
この部屋は、城の廊下とは直接接していない。
扉の外から閂がおろされていた。
部屋の奥の小部屋、見たところ仮眠室の様に見える。
部屋の隅に置かれた簡易な便器を見ると、気分が更に憂鬱になった。
只、寝具は清潔で湿った様子はない。
敷き布もかけられた物も洗われ鏝で皺も伸ばされている。
石造りの壁には、綴れ織りの壁掛けが下がっていた。
そして、何よりも虫除けと病気を防ぐ乾燥した薬草が置かれていた。
牢屋、ではない。
清潔で良い匂いがした。
戦城の為か、窓は厚い壁の先にあり、開閉は立てかけられた鍵棒でするようだ。
近寄ると、灰色の海と空が城壁の向こうに広がっている。
この部屋は、思ったよりも高い場所にあるようだ。
城下は見えず、海と空が窓を占めている。
私は水差しを取り上げると、側の杯に注いだ。
腐臭はしない。
一息に飲むと、只の水で、この城の全ての部屋がこの通りなら、よく行き届いていると思った。
そのまま二杯程飲み干す。
例え簡易な便器のお世話になろうと、どうでも良いと思った。
どうやら、目から水分が抜けると、感傷も何処かへ消えたようだ。
腹立たしいわけではない。
ただ、自分の事よりも、考えねばならない事があるのだ。
泣いて頭が痛い。
兎も角、私の事は考えたくない。
瞼を閉じて考えるのは、あの金の記章だ。
船長が書いた文字は見えなかった。
だが、あの記章は見えた。
つまり、あの記章は実在するのだ。
ニコル・コルテス
記念の記章だろう。
実在の人物、存命しているのだろうか?
ニコルと繰り返された言葉が、そのままの意味とは考えがたい。
船長の書いた言葉に、近い何かが、あのニコルという言葉になるのだ。
名前、地名、それとも、ニコルなる人物に縁のある何か?
魔女に気をつけろという警告。
そう考えれば、魔女の正体、もしくは、魔女の行いの意味を指すのかも知れない。
いずれにせよ、あの記章の意味を始めに調べねばならないだろう。
沈没船は二隻。
あの船長はどちらの船の者なのか?
魔女の行い?
否、そもそも誰が何を何処でしているのか?
船の沈没が故意であるとは、わかった。
その手段は何だろう。
魔女?
呪術?
何だろう、何か違う。
呪術の感触ではない。
死者達の不安、匂い、感じ、感覚。
何かが違う。
宮の中で知った力の感触ではない。
だが、微かに力は感じるが、あからさまな物は見えない。
見えない。
つまり、呪術は介在していない。
だが、呪術の元となる気配はある。
呪術とは祈り、思い、執念、人の心。
死者は不安を覚えている。
死んだこと、殺された事を恨む前に、不安を覚えている。
では、死者は何を不安がる?
彼らの心残りの大半が、生きることを絶たれた思いである。
だが、それよりも皆が不安だと残るのは何故だ?
何か根本的に、私には見えていない物があるのではないか?
だが、どうすればいいのだ?
オンタリオ公主、ニコル・コルテス。
糸口はこれだけだ。
目を閉じて上掛けの上に横たわると、睡魔に意識が緩んでいく。
部屋は少し肌寒い。
足を引き上げると私は丸くなった。
きっとこのまま眠ると、折れた足が痛むだろう。
だが、中々に眠気は強く 、私は欠伸をした。
只、靴を脱いで布団に潜り込むのは嫌だった。
できれば、夜は教会に戻りたかった。
私は歩いていた。
奇妙なことに、地面がとても近い。
冷たい石畳を音もなく歩きながら、今日も雨だと嘆いていた。
濡れるのも寒いのも嫌いなのだ。
だが、今日も朝から忙しい。
あいつ等が増えてきたから、早く片づけないと。
仲間が減ったのも問題だ。
あいつ等は、自分たちを気にもしないが、アレは気がついている。
少しづつ、仲間が居なくなる。
あぁ、今日も雨だ。
そういえば、アレは何処にいるんだろう?
最近、奇妙な場所から匂いがする。
私はふわりと跳躍した。
体をのばす。
高い場所だ。
そこから、部屋の中が見えた。
男が書き物をしている。
小さな、手帳だ。
男は暗い場所で書き物をしていた。
肌の色が妙に青黒く、目がどんよりとしていた。
目。
目玉が人にしては丸く大きく、瞼が下りる様子もない。
暗い部屋で書き物をしているが、手元には明かりがなかった。
男は何かを書き付けると、丁寧に油紙で手帳を包んだ。
細い紐で括り付け、革の小箱を取り出すと中に納めた。
革の小箱は蓋の部分に錠がかかっている。
小さな錠前がキラリと光る。
私は高い場所を歩きながら、雨の匂いをかいだ。
腹が空いた。
見回すと裏口が開いた。
そこから女が出てくる。
私が近づいていくと、女が笑った。
手招いている。
いつもなら、近寄るのだが、今日は駄目だ。
嫌な匂い。
裏口の扉の向こう。
暗い扉の向こうは、洞窟のように真っ暗だ。
真っ暗で、大きな獣の口のようだ。
私が近づかないことを不思議がっていた女が、不意に後ろを振り向いた。
誰?
いつものように微笑んでいる。
だが、違う。
あぁ、何故、匂いがするのかわかった。
あぁ、なるほどと感じると共に、私の小さな体は消し飛んだ。
消し飛び、血の一滴も残さずに死んだ。
悲鳴。
悲鳴が聞こえる。
誰の、悲鳴だろう?
私は消し飛んだ。
痛みよりも、不安と心配が勝る。
あぁ、悪意に晒され無防備に生きる者達が心配だ。
人知れず増え続ける悪意を、早く潰さねばならないと。
何故なら、彼らは友人だからだ。
この地に古くから共に生きてきた者だから。
例え、どんなに醜くとも、こんな下らない悪意に利用されて、滅びる事など認められないからだ。
悪意は、ここに住処を得た。
貴方方の航海の無事を祈る。
ニコル・コルテス
ニコル、ニコル、公主の名前。
公主とは?
つまり、公王の血筋。
公王の?




