ACT136 波路
ACT136
集会場は、倉庫が立ち並ぶ場所の近くだった。
岸壁に水しぶきがかかる。
集会場は街側に位置し、モンデリー商会は湾を挟んで反対側にあるそうだ。
漁船が並び、漁の網が干されている。
こちら側は、地元の漁業船が多く利用している。
怪我人がこちらに運ばれたのは、たまたま、アッシュガルトの漁船が彼らを引き上げたからだ。
本来は、東公領の海軍船か兵隊が働くのに、結局は地元民とモンデリー商会が怪我人の面倒を見ている。
昨日の領兵のような勘違いをした者が多く、自分たちの勤めをこなさない怠け者ばかりなのだ。と、これはウォルトの弁だ。
私とクリシィは、モンデリー商会の馬車に乗った。
他は教会の馬車で後に続く。
カーンは馬車と併走を続けている。
出立前、ビミンはカーンを見ると恐れるように母親に隠れた。
スヴェンやオービスには気後れをしないというのに。
私の視線に、ビミンの母親が小さく笑った。
船着き場から倉庫街の方へ向かう道の先には、市場らしき物も見えた。
波音と風と、海猫が鳴く。
馬車はまばらな人出を縫うように、進む。
倉庫の並びから一つ陸地側に入った場所に、赤煉瓦の建物があった。
この街の漁師の組合の建物だ。
入り口に受付のような物があり、その奥が普段は集会をする為の場所になっている。
壁沿いには椅子が寄せられ、結構な広さの床には、簡易の寝台が作られていた。
天井の梁から紐を下ろし、布で床まで仕切が作られている。
中は暖炉があり暖かい。
薄暗く、薬と物が饐えるような匂いがした。
クリシィと私、そしてビミンの母親が集会場に入る。
ビミンとニルダヌスは馬と荷物の所に留まり、カーンも中へと入った。
怪我人の様子を見てから、ビミンと母親は手伝いをして、その後は浜と街を見る事になっている。
私は、クリシィの手伝いをできるだけするつもりだ。
ビミンと母親が街に行くなら、ニルダヌスが一緒に行く。
ビミン達と私が行くなら、カーンが護衛につく。
クリシィがそう決めたので、私は街に行かないことにした。
ビミンは、カーンを怖がっている。
母親は、それを困ったように見ているが、理由は教えてくれなかった。
単に、大きな男が怖い訳ではないだろう。
ウォルトはクリシィの手を引いて、怪我人の幕の一つに導く。私は、クリシィの荷物を持ち、その後に控えた。
驚きを表さないようにするのに、歯を食いしばった。
竦んだ私に気が付いたのだろう、カーンが側に立った。横に立つと、幕の隙間から見える光景に目を凝らす。
無惨な光景に慣れた男も眉を顰めた。
想像していたのは、欠損や爛れ、苦痛の表情であった。
どんな光景であっても、怯まないようにと思っていたが、覚悟がたりなかった。
傷は開いていた。
丸く小さな傷だ。
無数にある。
顔は崩れてわからない。
クリシィは話しかけた後、顔の穴に耳を寄せた。
そこが口なのだろう。
人形を針山に叩きつけたような傷だ。
そこから絶え間なく膿と血が細く流れている。
石榴のように弾ける寸前まで何か鋭い物で刺されたような傷。
肉片になる寸前の傷。
膿、否、何か緑色の液体が滴り落ちて、当て布でさえ置くことができない。
すでに痛みも無いのか、混濁する意識のまま、ぼんやりと寝台に横たわっている。
クリシィは、無惨な男の崩れた手を取ると、耳元に囁いた。
魂の行き先と安らぎの世界について。
信じない者には無意味な話だ。
だが、このように無惨な最後には、少しでも心が安らぐ話が必要だ。
確かに、安らぎが必要だ。
カーンはウォルトを部屋の隅に促した。
私はクリシィの側に立つと、荷物から筆器具を取り出し帳面を開いた。
最後の願いを書き記すのだ。
同じような傷を持つ重傷な者が四名。クリシィと一人づつ面談を続ける。
殆どが、意識が朦朧としていたが、一言二言、残すことができた。
親への詫び、妻への伝言、家財の処分。
実用的な事もあれば、譫言のようなもの、後悔、悲しみ、そして、痛みと恐怖の言葉。
朦朧としているから、何処までが本当かは判らないが、ともかく、帳面に書き付ける。
我慢強く聞き出すクリシィを見ながら、ついでに彼らの傷の状態も書いていく。
家族が知りたいかどうかは判らないが、ただ、何もせずに言葉を待つ時間が長かったからだ。
四人を回り終えると、一端休憩することになった。クリシィは集会場で彼らの面倒を見ている者と話をするようだ。
私は帳面をクリシィに渡すと、集会場の外に出た。
薄い陽射しがさしこみ、潮風に吹かれる。なんとか気持ちを立て直そうと、私は深呼吸を繰り返した。
側の水場で音がした。
引き水のされた流しがあり、ビミンと母親が汚れ物を洗っていた。
裏手には様々なガラクタが積みあがり、一見何に利用するかも判らない物ばかりだ。
その真ん中に水場と小さな炉があり、木組みの簡素な小屋がかけられている。
集会場の裏は、倉庫と倉庫の間に位置している。挟まれる狭い通路は、そのまま海岸線へと続いていた。
ただ、砂地になる手前に高い石積みの風除けがあり、階段で上るようになっている。
洗濯を手伝おうとすると、ビミンの母親に止められた。
どうやら、顔色が悪いらしい。
私は何とか微笑むと、目の前の狭い通路に踏み出した。
よろよろと歩き出して、杖を中に置いて来てしまった事に気がついた。
だが、取りに戻るより、あの石積みの階段を上って海が見たかった。
海を見て、叫びだしそうな心を抑えたかった。
歯を食いしばり、少しづつ前に進む。
海風が押し寄せて、私はよろけた。
どうしよう?
どうしよう?
怖い、こわい、こわい、誰か
わかってる。誰も呼んじゃ駄目だ。
でも、こわいんだ!
傷に怯んだのではない。
死に恐怖したのではない。
私は後ろが振り返れなかった。
石段を前にして立ち止まると、越えられない壁に息苦しさが増した。
お節介な声が笑う。
見えたかい?
君は黙っていられるかな?
死体は焼けば灰になるけど。
君は黙っていられるかな?
知らないふりで生きていける?
自分だけ助かればいいと?
それとも偽善者だから、皆に忠告するかい。
誰かが、人を殺しているって?
泣くな、と自分を叱咤する。
息絶えようとする彼らの周りには、沢山の人がいた。
それぞれに、心配そうに集まっていた。
彼らは無言で、私を見た。
私は必死で気がつかないふりを続けた。
彼らは、無念を訴えているのではなかった。
痛み、苦しみ、悲しみ、無念、そうした物は死する時に置き去りにしたようだ。
皆、陽に焼けた男達で、仲間の苦しみを案じていた。
その中でも、特に老いた男が私の耳の側で言うのだ。
ここには性根の腐った魔女がいる。
だから、あんたぁ、気をつけなよ。
男を喰って生きている。
男を餌にして養ってるんだぁ。
だから、自分以外の女が嫌いなんだ。
それにあんたぁ、神のお使いだ。
魔女は、あんたのような女が嫌いだ。
だから、あんたぁ、気をつけなよ。
少しでも幸せな女を見つけると、不幸にしようとするんだよ。
石段を這い上りながら、少なくとも、私は幸せな女ではないと、遅い反論を繰り返す。
不幸ではないが、幸せかと問われれば答えられない。
ふらついて足を踏み外す。
中程まできていたので、落ちながら白い空が視界を過ぎた。
だが、叩きつけられる痛みは無く、誰かに抱き上げられて。
朝焼けの色が混じる眼が冷たく見下ろす。曇る冬の空ではない。白い、瞳だ。
抱え上げられるとそのまま石積みの壁をひょいと越えた。
私には山越えのような難儀も、男にとっては一跨ぎという理不尽さだ。
「杖も付かずに何をしている。皆から離れてどうするんだ」
説教を聞き流すと、私は水平線を見た。
冬の海は灰色で、波頭が次々と浜に打ち寄せる。
湿った海風に晒されながら、私は縋るものを探す。
だが、そんな都合のよいものなど無い。
遠い水平線の先は霞んで見えなかった。
私を抱え上げたまま、男は波打ち際に向かって歩き出した。




