ACT120 豆は…
ACT120
再び目を覚ますと、あの神官だけが側にいた。
私が目覚めると、薬の杯を口に差し出す。
あの薬だと身構えていたが、口の中には、甘い味だけが残った。
「これは俺達の使う高級品だ。旨いだろう」
砂糖で甘みが加えてあるのか、確かに甘く薬の臭いもするのだが、旨かった。
私が黙って見つめていると、神官は、困ったように笑った。
「お嬢さんは、ちょっとばかり、真面目に考えすぎだ」
答えない私に、彼は参ったねぇと呟くと続けた。
「呪いってのは、真面目に受け取れば受け取るほど、縛られる。どうしてかわかるか?」
枕元に座ると、神官は続けた。
「例えばだ。俺が、明日、空から豆が降ってくると予言する。イグナシオがそれを聞いたら、頭から信じるだろう。そりゃもう、あいつは馬鹿だから」
あまりの言いように、何となく目をそらす。
「でだ。同じ事をカーンに言えば、全く話を聞かないはずだ。冗談にもとってくれないだろう。腹立つよな」
それにも答えようがない。
「嘘か真実かは、明日までわからないのに。さて、人の認識できる領域は、人が認識しようと思う範囲でもある。つまり、否定する者には豆は降らないし見えない。この法則が呪術を説明する上では、基本になる。つまり、もしかしたら存在する物を、認識できるようにする、感化の力だ。」
そして、如何にも胡散臭い表情を浮かべると付け加えた。
「逆に言えば、まったく信じない者には、手が出せない」
その意見には同意できないという表情をしていたのか、神官は残念そうに首を振る。
「儀式や生け贄などの手段は、感化の力を強める。信じなくとも、恐怖や嫌悪を覚えれば、自ずと人は流される。ましてや、豆を降らせる力を持っていた訳だしな」
「神官様は、グリモアをご存じか?」
「理論だけなら。現物は知らないね。王国の宗教統一というのが、俺の二世代前位にあったからね」
「二世代」
「俺の二世代前というと、ちょうど、お前さん達がいなくなった頃だよ」
「いなくなった?」
「知らないのかい?君の種族は、この宗教統一に巻き込まれた。馬鹿な話だよ。グリモアも呪術者も、皆、焼き払われた。肝心の、神の使いまでも殺してね」
「私の種族は何と呼ばれていたのですか」
「精霊種と呼ばれていたよ。そういや、君は幾つ?」
「五十年ほど生きております」
「んじゃ、まだ、子供だね。長命種で平均が五百だから、それよりも少し長めで考えても」
「成人は幾つからですか」
「確か、精霊種は、百二十位だったと思う。王都に戻れば、詳しいことはわかるんだが。君の家族は」
「捨て子として育ちました」
「捨て子ねぇ」
諸々の事が私の思考を鈍くした。
「話がそれたな。君は人殺しになるという。どうしてそう思うんだい?」
「グリモアが、そうさせるのです」
それに神官は、再び大げさに頭を振った。
「一つだけ確かな事がある。」
そしてゆっくりとした口調で言った。
「グリモアは、質が悪いが、基本的には使う者に左右される。使う者にだ。君はグリモアの血肉となったと言ったね」
「はい」
「では、血肉は従であり主にはなり得ないと思う?」
「ボルネフェルトは」
「違うよ。君は臆病者の人殺しではない。そうだね、豆は空から降るんだ。」
わからないという私に、彼は言い含めた。
「イカレた信心と同じだ。豆は空から降る。グリモアは主ではない。そして、死人を恐れる必要はない」
皮肉なことに、ボルネフェルトも死人を恐れてはいなかった。
そして、そのボルネフェルトも、既に人の世にはいないのだ。
「でだ、俺としては、グリモアも気になるんだが。本題は、お嬢さんにかかっている呪いだ。まぁ、呪いというより誓約だろうか?」
忘却する事で、皆が守られている。
死者の宮と主は、ずっと見ているだろう。
彼らは忘れて良かったのだ。
だから、知られてはいけない。
私が目に見えて、身構えたのが伝わったようだ。
神官は、少しだけ考える素振りをした。それから、私をしみじみと覗きこんだ。
「血肉はグリモアに食われた。君は、もう、いない。では、魂は何に捧げたんだろう」
じっとのぞき込まれて、身震いが走る。
神官の体に巻き付く黒々とした太い縄がぎりぎりと軋みながら蠢く。
まるで、あの穴の底にいるような錯覚を覚える。
硝子の上に人が暮らすように、この世は儚く、恐ろしい。
神官の体に巻き付くのは縄のように見えたが、こうして側で視ると、全く別の物だった。
うねるように肉体を縛り、ずるずると這い回る。幾万の言葉が組み合わされた、呪の帯である。
一目で、それは憎しみと怒りの力を発し、触れれば猛毒となるだろう。
それは繰り返し、あらゆる表現で、この神官に死ねと囁いている。
私が、正しく怨念の固まりといえる帯を凝視している事に気がつくと、神官は体を引いた。
そして、問いかける力を霧散させ、少し、笑って見せた。
「まぁ、簡単には言えないよな。」




