Act113 闇の調べ
ACT113
ぽつりぽつりと甘い調べが聞こえる。
美しく、懐かしく、そして、泣きたくなるような音だ。
だが、それは遠く、遠すぎて掴むことはできない。
私は暗闇に一人だ。
相も変わらず一人だ。
ただ、その孤独が不幸かと言えば、違うと答えることができた。
ただ、怖くないと言えば嘘になるのも本当で。
勇気のない者、自らをさらけ出す事のできない者、待つだけの弱虫には、闇はお似合いだ。
卑屈な感情が振り払えない。
だから、こんなに寂しいのか?
寂しいなぁ、と言葉にする。
誰にも言ったことのない本音だ。
寂しいなぁと言って、更に続く言葉を飲む。
ひとりぼっちの場所でさえ本音は飲み込んで言えなかった。
すると、闇の中に薄い紫の光がはしった。
誰かが来る?
私は膝を抱えたまま、その紫の陣を見つめた。
綺麗な紋様だ。
今の私には、その古代の言葉と組み合わせた紋様の美しさが理解できた。
陣の再現には才能が必要だ。
いくら学んでも、この陣を美しいと理解できなければ、力を込めることができない。
物真似では完全な再現は無理なのだ。
写し取っても、それはただの模写である。
だが、これを美しい形と無駄のない配列だと感じることができた瞬間に、この世に満ちる力と陣の歯車が噛み合う。
「だから、あの女の陣は、いずれも完全には働かなかった。己の欲を混ぜた醜悪な物が出来上がる。本人は己がさも賢いように思っていたが、甚だ自惚れが強すぎた。
知識も中途半端なら、力のある陣を勝手につなぎ合わせてみせただけ。歪な繋ぎ合わせの呪陣に、何が呼べると言うのだ。」
やめて。
私は膝を抱えたまま、嘲る言葉を遮った。
暗い闇の中で、私は、グリモアに抗弁する。
憐れな魂に安息は無い。飢えて惨めで、孤独なんだよ。
「卑怯な人殺しに同情か?」
違う。
ただ、憐れで寂しいなと思ったんだ。
「では、あの女に殺された者は憐れではないのか?何の落ち度も無く生け贄になった者は?」
何も言えない。
ただ、あの女の姿は私でもある。そう思った。己を理解してくれる人と場所が欲しかった。
底なしの欲望は、裏返せば我慢のできない飢餓感という苦しみだ。苦しくて、絶望して。
ヌルリとした闇から、グリモアは現れた。
それはボルネフェルトという少年の姿をしていた。
本当の死霊術師とは異なり、白金色の髪と赤い瞳をしていた。
「供物の女は、馬鹿だね。」
そう言うとグリモアは笑った。
「お陰で、主はとても喜んでいるよ。大量の糧が宮へと届いたからね」
糧?
「少なくとも、皆、君には感謝していたよ。人は、生きていても死んでいても、話を聞いて理解してくれる事を望んでいる。
それにとても面白いモノも宮に一つ増えた。とても素晴らしい余興になる。」
何のこと?
グリモアは笑い、そして私をのぞき込むと囁いた。
「いずれ君も僕と同じになるよ。もう、わかっているだろう?」
私は、その赤い瞳を見つめ返しながら、体が冷たくなっていくのをぼんやりと感じていた。
「本当はここが何処だか知っている」
甘い調べは、鈴の音を含み徐々に大きくなっていく。
私は座っている。
黒々とした湿った大地の上に。
息を吸い込むと、重く濁った感触がした。
空は、胸苦しい朱を含んだ黄色の雲が流れていく。
荒涼とした大地。
地平には黒い霧が淀み、見渡す限り人がいた。
「ほら、一人じゃないだろ?」
見渡す限り、人が倒れ、腐り、散らばる。
生きている者など何処にもいない。
甘い調べは消え、すすり泣く声のような風が吹いているだけ。
「君は見ていないだけだ。聞こえないふりをしているだけ。寂しいのなら、呼べばいい。皆答えてくれる。皆、君と同じに寂しいのだから」
私は立ち上がり、自分の姿が化け物になっていないかと確かめた。
胸に手を押し当て、私は周りを見回す。
誰も彼もが死んでいる。
皆、私を置いて逝ってしまう。
「違うよ。呼びかけてごらんよ、御同輩。」
グリモアが言う。
「彼らも待っているんだよ。君に呼ばれるのを、そうすれば、もう、苦しくないよ」
本当に?
「そうだよ。苦しくないし、独りぼっちじゃない。」
私は、赤い瞳を見ながら、浮かぶ言葉を舌先に乗せようとした。
「ほら、大丈夫だよ。これでもう、君は寂しくない。一人じゃない。ずっと一緒だね」
三日月に微笑むグリモアは、仮面の異形の姿に変わる。
ぼんやりと痺れる体に、言葉を紡ごうと
不意に、私を何かが包んだ。
とても暖かい。
凍えた四肢に血が音を立てて流れるのが感じられる。
ここは何処だ?
相変わらず荒涼とした景色なのに、私は不意に暖かく心地よいと感じている。
グリモアは、再び少年の姿に戻ると、残念だと呟いた。
「もう少しだったのに、邪魔が入ったね。でも、これも主の望みでもある。」
そう言うと、グリモアは土になった。
まるで、人間が溶けたように見えて、私は悲鳴を上げた。
すると、素直に言葉が漏れた。
もう嫌だと、繰り返す。
アレンカと同じように、助けてと言い、怖いと繰り返した。
ただ、蠎の代わりに、私は薄紫の光に包まれた。
怖いと言う度に、何故か暖かくなった。そして私を押しつぶすように、その暖かみが体を締め付けて心地よかった。
思うのだ。
独りぼっちも怖いが、この世の最後の人間になるくらいなら、仲間外れの方がいいと。
ゆらゆらと光の帯が全てを包む。
暖かい。
ギュウギュウと締め付けてくる暖かさに私は泣いた。




