Act90 命の器
ACT90
私の中で、本が開く。
文字が浮かび、私を取り巻く。
歌だ。
美しい旋律が流れ始める。
調和のとれた調べ、細く高く太く低く。
笛の音に似た調べが続く。
風の音にも、鳥の囀りにも聞こえた。
通路に踏み出すと、闇にも文字が流れていた。
少し濁った緑の文字だ。それが静かに流れている。
闇は、文字により、闇ではなくなる。
それは醜い淀みに見えた。
私は、その淀みをかき分けて進む。
すると、それまで見えなかったモノが鮮明に眼にうつる。
地下の水路は、夥しい文字で埋め尽くされていた。
煉瓦一つ一つにも文字が刻まれ、力を溜めている。
それを見れば、この水源地が、水の供給源以外にも重要な場所であったと伺えた。
城塞そのモノが、巨大な魔法陣である。
私の中の者が、そう判断した。
ここの場所は、力を効率よく制御し、吸い上げる事を目的としている。そして、地下の水により、その力を清めているのだ。
ところが、今は、毒の水が溢れている。
そして今まで、頭上では、呪いをかけ続けていたのだ。
ふと、私は、奥方の目的と、男達が笑った意味に気がついた。
奥方は、婆様の呪に便乗して、自分の望みをかすめ取ろうとしたのだ。
命を吸い上げる陣に、自分への流用をした。
愚かな。
私も思わず笑った。
呪陣から、力を流用した?
人の身で、何を馬鹿なと笑えてくる。
そこに命と魂の知識が欠落している。
この知識は呪を扱うものならば知っている。
未だ、不老不死が完成されない理由でもある。
ボルネフェルトでさえ、完全なる不死は無理であると知っていた。
死という事象を変化させる事はできてもだ。
死者が蠢く事は可能でも、生者として永遠に長らえる事は無理だ。
故に、死霊術師は、死の理を犯したのに。
愚かな女はどうしただろう?
あの水路の集約地にたどり着く。
そこには、腹を刺されたグーレゴーアと膝をつき顔を覆う奥方。そして、エリを抱えたライナルトがいた。
死者は水の中に潜んでいる。
どうやら、私の気配に気がついたのだろう。
私が、彼らの元へ歩いていくと、死者達は怯えたように水に沈んだ。
「それで、もう、決着はついたのでしょうか?」
自分でも聞いたことのない、冷たく嘲る声音だった。
「お前は何者だ?」
荒い息でグーレゴーアが問いかけてきた。
彼の隣には、兄がいた。
兄の隣には少女がいた。
私は微笑んだ。
「お迎えだ。横を見ろ」
私が指さすと、グーレゴーアは口を開け眼を剥いた。
二人は横たわる男に触れ、水にずるずると引きずり込んだ。
水に溺れながらも、男は兄の顔をずっと見つめていた。
「君は何者だ?」
ライナルトは私を冷たく睨んだ。
この男には、何も憑いてはいない。
ただ、夥しい毒が体にかかっていた。
毒水を浴びたのだろう。
片目が痛むのか閉じられている。
「何故なの」
床に這う女からうめき声が上がった。
ライナルトと私の中間で膝を着く奥方は、髪の毛を振り乱して顔を押さえていた。
「何故とは?」
「私の術は、確かに、成功したのに」
そして、奥方が顔を上げた。
氷のような美貌は消えていた。
穏やかとはほど遠い面相である。
何しろ、彼女の顔には、幾つもの小さな人面ができていたからだ。
小さな人面は、共に苦悶を浮かべてうめき声を上げている。
「こちらこそ聞きたい。何故、呪陣から盗もうなどとした」
「手を出したから、皆、生きているのよ。あの呪陣は、本来できあがった瞬間に輪の中の者を殺すのよ。私が、書き換えたから、皆、生きてるのよ」
その答えに、私の中の者が即座に否定した。
違う。この女は、対価を自分で払いたくなかったのだ。
力とは、対価を必要とする。
呪とは、それに相応の犠牲が払われる。
「嘘だね」
私の否定に、奥方は憎々しげに睨んできた。
「誰だか知らないけれど、私は、この城塞に使われている呪を読み解いたのよ。誰もできなかった事よ。王都の人間にも理解できないような高度な呪陣よ。私が、救ってあげたのよ」
すると人面がそれぞれに奇声を出して喚く。
嘘だね
嘘だね うそだね うーそだねぇぇ
「呪陣?」
ライナルトは奥方の姿に驚きつつも問うた。
「そうよ。呪いがかかっていたのよ。グーレゴーアと彼に従う者にね。この町にいる、貴方の探している者達によ。それを死なないように、私がしていたのよ」
「死なない程度に、生気を抜いていたの間違いでしょう?貴方は、婆様の呪陣を利用して、横領していた。」
気でも狂ったかと、ライナルトは私と奥方の会話に驚いている。
「追いかけてきたモノをどうにかするには、しょうがないのよ。この町の人間で足りなかったら、補うしかないわ。さもなければ、青馬の再現になるもの。私は、皆の為に手を出したよ。責められる謂われはないわ」
嘘だ。
私の中にいる者が笑う。
あぁ、まさしく相応しい。なんと嘘に固められた心。なんと、なんと、人間らしい汚らしさだ。
「違うでしょう?貴方は、嘘を本当にしたかった。これまでの行い全ては、今の貴方の姿が答えだ。」
「どういう事だ?」
ライナルトの再度の問いは、呻きを伴っていた。
「貴方は知っている。この人の願いは、自分の生まれを否定することだ。己の中の偏見に勝てなかった。だから、嘘を本当にする事にした。奥方の望みは、何だ?」
「そんな馬鹿な」
ライナルトの馬鹿の意味は、妄想に対する呆れであろう。
だが、私の呆れは違う。
「奥方は勘違いをされている。命とは、接ぎ木のようにはならない」
私の言葉に、彼女は顔を押さえたまま目を向けた。
「婆様は教えてはくださいませんでしたか?」
「どういうこと?」
「足りない分を注げば長生きできると貴女は考えた。たとえば、飲み干した杯にお代わりを注ぐように」
「私は、分けてもらっただけよ。少しだけよ、誰も死なないわ」
誰も死なない?
嘘だと、私の中の者が嘲笑する。
「そうですね、貴女は誰よりも長生きできそうですよ。もう、人間に見えませんから」
「良くないわよ、なんで、私の何が間違っていたの!」
「貴女の器は、継ぎ足しても無駄だ。わからないのですか?」
「だって生気を取り込めば」
「生気を取り込めば、不老不死になるか?答えは否だ。貴女の肉体は、短命種だ。」
「違うわ、私は」
「黙れ。簡単にいえば、貴女の命の器は、年と共に消費された分だけ小さくなる。だから、お代わりをしても、受け取れないんだよ」
「命の器ですって」
「寿命は、人種によってほぼ決まっている。それを器とする。器はライナルト殿と奥方では大きさが違う。
さて、生きた時間が器の酒を飲んだ量とする。
奥方は、こう考えた。
呑んだ分だけお代わりをすればいい。
そして、奥方は、罠にかかった人間の生気を貰えるだけ奪った。
これで、ライナルト殿と同じくらいの酒を手に入れたと喜んだ。
だが、実際は違う。
命の器は、時間と共に小さくなる。だから、満たされた酒の量も同じく少なくても満杯だ。さて、奥方は、もらった生気で若返り長生きできるかな?」
ボルネフェルトの知識は付け加える。
不死とは、理から越脱する事であり、それは既に人間ではない。
それに不老とは他人から命を吸い取るようなものではない。
命を吸い取る事を考えるのは化け物だ。
では、不老不死に近い人族の長命種とは何であるのか
それも奥方の今の姿が答えだ。
長命種とは、限りなく薄く大きな命の器を持った者だ。
薄い器は脆いが、異物を濾過する器官を持っている。
それが病を退け、傷を再生させる。ただし、器は大きいだけで、必ず無くなるのは短命種と同じである。
そして、異物を濾過する器官が無いのが短命種だ。
奥方には、この長命種の器官、臓器が足りない。
この女が知らなかったところを見るに、まじめに学んだ訳ではないのだろう。
ボルネフェルトは、幾体もの人体を解剖し、この濾過器官が個人によって違うことを見つけている。つまり、遺伝と体質によって、長命種であっても肉体の損耗に差がでるのだ。
だから、死ねば塵になるのは、最初にこの器官が働かなくなることで、肉体が経過年数分、一息に老いるからだ。
だから、不老不死とは人間をやめると、同義だ。
だから呪はある意味成功している。
そう、奥方は不死になったかも知れない。
濾過器官が無い奥方が、呪陣から人間の命を浴び続けた。
体が変質したのだろう。汚れて理を越えた。と、魔が認め宿ったのだ。
老いるかどうかは、時が教えてくれるだろう。
「それに婆様の呪陣は、呪いです。奥方は、自分は呪われないとでも思っておいでか?」
「だって、私は何もしていないわ。殺したのはグーレゴーアよ。村の連中だって半分は自分達でやった。自業自得でしょう?私は何もしていない。」
私を見捨てたのは?
お父様をそそのかしたのは?
薬をすり替えたのは?
皆の争いを利用して、手を汚していないなら、それは罪ではない?
いつも、見ていた。見ているだけ。
たった一人の友達も井戸に投げ入れた。
だから、一緒に見ていた。
「私は被害者よ。こんな暮らしをするために、村から出たんじゃないわ。あいつらが死んだのだって、自分達が勝手に身内を売ったからでしょう?そもそも、嘘をついたのは村の人間だし、そう、侯爵だってそうよ。私は悪くないわ。いつも、いつも、損をしているのは私だけ」
彼女に罪悪感は欠片も残っていないようだ。本来なら、見えるはずの者が見えていない。
彼女の側には、泣きそうな顔をした子供がいるのだ。
エリの側にいた小さな女の子。
その女は、無理だね
影がわき出た。
そして、水面から男達が立ち上がった。
腐れた体の男達は、骨を鳴らして笑っている。
ライナルトは、エリを片手で抱えると剣を抜いた。
後同輩、今夜は良い晩だ
逃げた方がいいよ
何しろ、我らが封じていたモノが
外に出てしまったからね
あぁ、すっかり忘れていたが
私らは村に縛られていたんじゃないよ
私らが、アレを封じていたんだ
ご先祖様がね、人間を喰うアレを封じて見張るようにしたんだよ
だから、アレを封じると貰えるモノは、どうでも良かったんだよ。
これが、最初の偽りだね
偽りが、結局、自分の首を絞めたんだ
さて、今の人間は、アレを封じられるかね
どちらにしろ、いっぱい死ぬから
生け贄にはちょうどいいさね
言葉と共に、あらゆる事が一瞬で起きた。
沢山の人間が、水と共に押し流されてきた。
その水の流れとは別に四方の水路が石壁で閉じる。
派手な音と共に、この場所は出入り口が頭上の穴と、滝のように流れる巨大な水の入り口だけになった。
広い場所であるが、徐々に水かさは増えている。
赤い水だ。
流されてきたのは、領兵達だ。
おおよそ、見た限りでは怪我はない。ただ、呪陣によって弱らされているのか、動きは鈍い。
腐れた男達が兵士へと近寄っていく。
ライナルトが警告を発しながら、彼らの元へかけて行った。
奥方は、増えてきた水に足を取られながら、未だに何かを呟く。
大丈夫さ、あれには、もう力などない。
影は、顔の前で手を振った。
元々たいした力がないから、外に出した。
だが、出た場所が悪かった。
ここは、壊れた場所だから、人もだんだん壊れていく。
もちろん、元々の資質だがね。
兵士は剣を抜いて固まった。
赤い水は増え、膝下までになっていた。
腐れた者が彼らを取り囲む。
そして、水量の増えた水から、最後の一人らしい者が吐き出された。
吐き出された男は、緊張する兵士の間でよろめきながら咳こんでいる。
そして、落ち着いてきたのか周りを見回すと、場違いな朗らかさで言った。
「いやぁ、迷いました。出口はわかりますか?」
サーレルだった。
毒の水を飲んだわりに元気そうだった。