第1話 別れ
「くそぉぉぉおおお!!!」
叫ぶと同時――背中から地面に叩きつけられ、俺はしばらく空を見上げたまま動けなかった。肺の中の空気が全部出ていって、吸い直すのに時間がかかる。
腕も、背中も、全身が痛む。でも木剣だけは手から離さない。
「俺の勝ちな」
クロフォードの声が上から降ってくる。息はほとんど乱れていない。黒髪が額にかかっていて、黒い目が俺を見下ろしている……余裕のある目で。思わず歯を食いしばる。
差し出された手を掴んで立ち上がる。髪の毛に絡まった砂、膝の土を払い、頬を軽く叩く――パシンという音が裏庭に響く。体に力を入れ、もう一度木剣を構えた。
「もう一回だ!」
「何回目だよ」
「いいから!」
クロフォードはため息をつきながらも構えを取る。こいつはいつもそうだ。俺が諦めない限り、何度でも付き合ってくれる。まだまだ余裕だぞと言わんばかりに。
踏み固められた土、吐く息が白い朝も、日が落ちて何も見えなくなる夜も、俺たちはずっとここで剣を振ってきた。物心ついた頃から、ここが俺の世界の全てだった。クロフォードも同じだ。気づけばいつも隣にいた。
でも、こいつには勝てない。
剣でも、頭の回転でも。何をやっても上を行く。胸の奥がむずむずする。悔しい――それだけじゃ済まない、どうしようもない感覚だ。
四度目も負け、石壁に四つ目の×がつく。
「また俺の勝ちな」
「……まだまだ! 今日こそは百個×がつく前には必ず勝つ!」
「ふざけるな」
「こっちは真剣だ!」
「…………」
♢
シスターのエレナが魔法書を持ってきたのは、それから数日後のことだ。
分厚い革表紙の本で、端がすり切れている。どこかから譲り受けたものらしく、エレナは「二人で仲良く使いなさい」とだけ言って渡してくる。
俺はページをめくってみると、びっしりと文字が並んでいた。だが、一文字も読めない。記号の羅列にしか見えなくて、どこから手をつければいいかもわからない。
「クロ、読めるか」
クロフォードに聞くと、首を横に振る。でもこいつはその本を受け取って、じっと眺め始める。何かを考えている時の顔だ。
「やってみる」
それだけ言って、黙り込んだ。
それから一週間後。クロフォードはすました顔で魔法書を読んでいる。
「どうやって読めるようになったんだ」
「なんとなく、形を覚えた」
「なんとなく?」
信じられない。同じ本を俺も毎日眺めていたのに、文字は相変わらず意味をなさない羅列のまま……いや、俺のことを揶揄っているようにも見える。お前なんかに読まれてたまるかと――何度剣で斬り刻んでから燃やしてやろうかと思ったことか。
なのにこいつはすらすらとページをめくりながら「ここにこう書いてある」と言い始める。
「教えてくれ」
「難しいぞ」
「教えろ」
それからクロフォードが先生になる。文字の形、読み方、意味。根気よく教えてくれるが、俺の頭にはなかなか入ってこない。文字というものが、どうにも体に馴染まなくて。
だから魔法の練習は、見よう見まねでやるしかない。クロフォードが本を読んで「こういうことらしい」と言う。俺はそれを真似る。魔力の流し方、イメージの作り方。言葉では半分しかわからなくても、体で覚えようとする。何度も何度も繰り返して、腕が震えるまでやり続ける。
クロフォードの魔法は、最初から形になっている。手のひらに黒い靄が集まって、空気が歪む。落ち着いた黒で、静かな重さを持つ魔力だ。
俺は何も出ない。
手を伸ばして、魔力を放出しようとする。体の奥に何かがある感触はある。でも外に出てこない。膨大な何かが内側に詰まっているのに、鉄板で蓋をされている感覚で、それが修練するたびに俺を苛立たせる。
「お前の魔力、多い気がする」
ある夜、クロフォードがぽつりと言う。
「出てないじゃないか」
「出てないけど……でかいんだよ、なんか。底が見えない感じがする」
俺には自分の魔力の量なんてわからない。ただ出せない事実だけがあって、それがもどかしくて――悔しい。でも、底が見えないと言われた瞬間、悔しいけど嬉しかった。
♢
クロフォードがあの言葉を言ったのは、二年後の稽古終わりの夜のことだ。
冷え込んだ夜の裏庭に、二人で並んで座っている。見上げた空に星が散らばっていて、手を伸ばしても届かないくらい遠い。体中が痛むのに不思議と心地よくて、この二年で俺は誰よりも剣を振ってきた自負がある。朝五時に起きて、腕の感覚がなくなるまで素振り。体力の限界がきたら、今度は魔法の訓練。いくらやっても魔力ってやつは出てこないが、やめるつもりはない。体の奥に何かがあるのはわかるのに、どうしても掴めない。それでも構わない。剣がある。剣さえ振り続ければ、いつかこいつに追いつく。
けど――追いつけていない。勝負は一日三百を超えて、その全てが俺の負けだ。黒い背中は遠いまま。でも、諦めようと思わない。
「ソラ、お前、いつか俺を追い抜くかもな」
クロフォードが空を見上げた。
あのクロフォードが、そんな言葉を口にする。何をやっても先に行く、何をやっても涼しい顔でこなすこいつが。
「……当たり前だろ! 絶対追い抜いてやる! 三大極星も、俺が先になってやる!」
クロフォードの口元がわずかに緩む。軽い笑い方だ。だが――目は違う。真っ直ぐで、静かで、本気の目。
「俺も負けないけどな」
それだけ言って、また星を見上げる。俺も空を仰ぐ。
三大極星――世界最高戦力三人を示す憧称らしい。
子供の俺たちには途方もない話のはずで、それでも二人で並ぶという言葉がすんなり出てくる。こいつとなら行ける。根拠なんてない。でも確信に近いものが、胸の中に燃えている。
その夜から、俺はもっと剣を振る。魔力を絞り出そうと足掻く。限界まで動いて、動けなくなってからまた動く。クロフォードの「負けないけどな」という声が頭の中で何度も響いて、そのたびに体が動く。悔しいはずなのに、口元が勝手に緩む。それが余計に腹立たしくて、その怒りごと剣に叩き込んだ。
♢
見慣れない大人たちが孤児院を訪れたのは、その数日後だ。
黒い外套を着た男たちが院長室に消えていく。胸には見たことのない紋章。フェリシテ星煌王国のものとは違う、黒地に銀の四つの牙と赤い魔石をあしらった印――北の国、シャドベルグ帝国の者たちだと、後から知る。
俺は廊下から横目で見ていたが、特に気にしない。大人の話は子供には関係ない――そう思っていたからだ。
その夜のクロフォードは、何も言わなかった。
ただ、いつもより長く稽古に付き合ってくれる。俺が何度「もう一回」と言っても、黙って構えを取る。「いい加減にしろ」という言葉が、その夜は一度も出てこない。俺は嬉しくて、全力で打ち込む。月が中天を過ぎるまで、二人で木剣を振り続ける。
稽古が終わると、クロフォードが裏の壁に近づく。古い石造りの壁にそっと手を当て、目を閉じる。黒い靄が指先から滲み出して、ゆっくりと石の中に染み込んでいく。
「何やってんだ」
「……別に」
クロフォードは手を離して、俺を振り返らずに歩き出す。壁にははっきりと黒い染みが残っていて、暗がりの中でもそこだけ違う色に見える。
不思議に思いながらも、俺はそのまま寝室に戻る。
——それが最後の夜だと、知りもしないで。
♢
翌朝、クロフォードのベッドが空だった。
荷物がない。毛布だけが綺麗に畳まれていて、昨日まであったはずの温度が、何もかも消えている。
厠か? 五分待つ。来ない。
裏庭に走る。いない。
食堂。いない。
院内の全部を走り回った。どこにもいない。
シスターのエレナを捕まえて、俺は聞く。
「クロはどこだ」
エレナは少し間を置く。その沈黙が、胸の奥を冷たくする。
「帝国の方に引き取られました」
意味が飲み込めない。
「……は?」
「昨晩、引き取られたんです。シャドベルグ帝国の方が、才能を見出して」
「なんで俺に言わなかった!」
声が大きくなっている。エレナが困った顔をしているのはわかる。でも止まらない。
「昨日まで普通にいたじゃないか……一緒に稽古してたじゃないか……なんで——」
声が詰まる。喉の奥に何かが引っかかって、声が出てこない。怒りとも悲しみとも違う、もっと底の方にある何かが、胸の中でぐちゃぐちゃになっていく。
俺は踵を返して、裏庭に駆ける。
誰もいない。朝靄だけが漂っている。木剣がぶつかる音も、荒い息も、「また俺の勝ちな」という声も、何もない。踏み固められた土と、冷たい空気だけが残っている。
そこで気づく。
地面に、木剣が一本置いてある。
クロフォードの木剣だ。俺のより少し長くて、握りのところだけすり減って色が変わっている。何万回と素振りをしたせいで、そこだけ黒い。
拾い上げると、手に伝わるのは朝の空気と同じ冷たさ。でもそれ以上の何かがそこにあって、俺はしばらくその場に立ち尽くす。
どのくらい経ったかわからない。
怒鳴り込もうとして、でも誰に怒鳴ればいいかわからない。シャドベルグ帝国がどんな国なのか何もわからない。ただ、たまに来る騎士見習いの兄ちゃんたちはフェリシテ星煌王国の人たちだという。そして、ここもフェリシテ星煌王国というのだけは知っている。
顔を上げると壁が目に入る。
昨夜クロフォードが手を当てていた場所。朝の光の中で見ると、うっすらと黒い染みが石の表面に広がっているのがわかる。闇属性の魔力が残っている。何のためにこんなものを残したのか、俺にはまるでわからない。
近づいて、手を当てる。
石の冷たさと、もう少し違う何か……黒い魔力の残滓が、指先に触れる。俺はそこに自分の魔力を流し込もうとする。体の奥にある、出口のない膨大な何かで上書きしてやろうと。消してやろうと。
でも……何も起きない。
魔力は出てこず、染みはそのまま残る。
壁の黒い染みを睨んでいると、クロフォードの声が頭の中で蘇ってくる。
――俺も負けないけどな。
ならば俺も、負けない!
手の中にあるクロフォードの木剣を、壁の染みの隣にそっと立てかけた。まだこれを振る資格が、俺にはない気がした。代わりに自分の木剣を握って、構える。力の限り振り下ろし、また振りかぶる……腕が痛くなっても止まらない。息が上がっても止まらない。体が悲鳴を上げても、それより先に木剣が動く。
追い抜いてやる。どこにいても、何があっても。三大極星になる! その時はクロフォードとは対等だ。
あいつがいなくなっても、この剣は振り続ける!
あいつがいなくなっても、この手を上げ続ける!
——いつか再び相まみえるその日まで。
木剣を振る音だけが、誰もいない朝の裏庭に、いつまでも響き続けていた。




