第28話 知識の殿堂、欲望の工場
『帳簿記録:組織の腐敗は、最も光の当たらない場所に澱む。そして、どんなに堅牢なシステムでも、動かす人間の「慢心」という名のバグが必ず存在する』
◇
1.パイプの迷宮と「鉛の匂い」
リアから託された羊皮紙の地図を頼りに、俺たちは旧式の排気ダクトの中を這い進んでいた。
膝や肘に当たる冷たい金属の感触と、長年積もった埃のザラつき。
下へ下へと潜るにつれ、学院の上層部を満たしていた優雅な花の香りは完全に消え去り、代わりに鼻腔を突く悪臭が這い上がってきた。
「……ひでぇ匂いだ」
俺は思わず口元を袖で覆った。
焼けた油の匂い。それに混じって、舌の根がピリピリと痺れるような、安っぽい鉛の匂いが充満している。
「おいケンジ! 鐘が鳴ったってことは、もう最上階で『大儀式』が始まっちまうぞ! 直接上に行かなくていいのか!?」
「手ぶらで総会に乗り込んでも、警備兵に叩き出されるだけだ。……まずは地下の魔導製造ラインで、ベルンを黙らせる『最高の商品(証拠)』を大急ぎで仕入れる!」
その時、前方の通気口の鉄格子から、不意にひょっこりと顔が覗いた。
暗がりで揺れる、長く垂れた獣耳。
「健二、ライル。ここだよ!」
「ミナ。外からのルートはどうだった?」
格子を外してダクト内に滑り込んできたミナは、尻尾の毛を逆立てながら鼻をヒクつかせた。
「酷いもんだったよ。壁の排気口から、ずっと嫌な匂いが吹き出してるの。下から、すごく苦しくて『嘘』を吐き続けてる大きな機械の匂いがする!」
彼女の鋭敏な嗅覚は、物質の匂いだけでなく、現場に渦巻く異様な熱量やプレッシャーをも嗅ぎ取っていた。
俺はダクトの終点を塞いでいる、分厚い埃に塗れた鉄格子に足を定めた。そして、力一杯蹴り外す。
ガコンッ、と鈍い音を立てて鉄格子が眼下の空間へ落下していく。俺たちはダクトの縁から身を乗り出し、薄暗い地下の底を見下ろした。
「……その『嘘』の正体を、仕入れさせてもらおうか」
◇
2.象牙の塔の「工場」
ダクトから音を殺して飛び降りた先。そこは、学び舎の地下に隠された巨大な「工場」だった。
轟音を立てて回る巨大な歯車。もうもうと立ち込める赤茶けた蒸気。
ラインの上を流れていくのは、大量の魔導インク瓶だ。
瓶には堂々と『特級・純度99%』のラベルが貼られている。
俺は足元に転がっていた空の搬入箱の数と、ラインを流れる完成品の速度を数秒間目で追い、計算を弾き出した。
「……投入されている原料の量が、完成品の数とまったく合わない。見事なまでの水増しだな」
純度99パーセントなどというふざけたラベルの裏で、奴らは高価な素材をケチり、安価な不純物を大量に混ぜ込んでいる。
「ケンジ、こっちだ!」
ライルの声に呼ばれ、死角にあるガラス張りの管理室に滑り込んだ。
部屋の奥には、いかにも頑丈そうな鋼鉄の金庫。
ライルは懐から細い針金を取り出すと、カチャリ、カチャリと手首を僅かに捻った。
――カチッ。
グランツ商会の裏仕事で培われた『盗賊技能』。そのプロの指先にかかれば、学院の金庫など数秒の玩具に等しい。
重い扉が開く。
「……あった」
ライルの声が、微かに震えていた。
金庫の中に並んでいたのは、革張りの帳簿が三冊。
そのうち二冊は使い込まれた表帳簿。だが、奥に隠されていた一冊だけが妙に新しい。
俺はその真新しい帳簿を手に取り、ページをめくった。数字の列に目が釘付けになる。
そこには、国家から支給された最高級の触媒『黒魔銀』を横流ししている先――グランツ商会の名と、その穴埋めとして使われている『重金属鉛』の配合比率が克明に記されていた。
「……鉛だって? ふざけやがって」
俺が低く唸ると、横から覗き込んだライルが忌々しげに鼻を鳴らした。
「鉛は魔銀の十分の一以下の価格で手に入る。裏社会の中抜き業者が好んで使う典型的な混ぜ物だぜ。だが……いくらなんでも狂ってる。こんな不純物を魔導炉に流し込み続ければ、不完全燃焼を起こしてシステムが熱暴走するって、孤児院のガキでも知ってるぞ」
「ああ、最悪のコストカットだ。……だが問題は、『誰』の口にこの猛毒を突っ込んでいるかだ」
「誰って……ただの機械(動力炉)じゃねえのか?」
首を傾げるライルに、俺は手元の裏帳簿を突きつけた。
「ライル、お前も孤児院の授業で『四賢者』の歴史は習ったろ?」
「そりゃあな。神の片鱗に触れたっていう伝説の……まさか」
ライルの顔から、スッと血の気が引いた。俺はコクリと頷く。
「ノワルマルシュの商人ギルドで、イレーネさんに特別文献を閲覧させてもらった時に調べたんだ。このアルカ学院の正体……ただの乗り物じゃない。『空の賢者』と呼ばれる学院長そのものなんだよ」
「なっ……じゃあ、この船自体が賢者だってのか!?」
「そういうことだ。神代の賢者は肉体を捨て、都市や船と融合した者もいた――文献にはそう記されていた。『機嫌が悪いと半年間も停泊し、退屈だと高度を下げる』なんていう、とんでもなく気まぐれなお伽話と一緒にな。つまりベルン教授たちは、己の懐を潤すためだけに、そんな気まぐれな超存在を騙し、最高級の食事と偽って『鉛(猛毒)』を食わせ続けているんだ!」
喉の奥が、焼け付くように熱くなった。
無機質な数字の列。だが、この水増しのツケを直接肉体で払わされているのは、他でもない空の賢者だ。
商人袋の中で黒焦げになった魔導符の悲鳴。そして、ミナが外から嗅ぎ取った『苦しくて熱い匂い』。そのすべての原因がここにあった。
学院長が怒りと食あたりで熱を出し、船体が今にも墜落しかかっているのだ。
俺は裏帳簿と、ラインから抜き取った「水増しインク」の瓶を、ドゥランの工房で仕立てた丈夫な商人袋に放り込んだ。
厚手の麻と革がギシッと鳴り、肩にずっしりとした重みがのしかかる。
物理的な重量だけではない。これは、この巨大な組織がひた隠しにしてきた「罪の重さ」そのものだ。
◇
3.魔法の弾幕と「殺気の検知」
「ネズミが入ったぞ!!」
鋭い怒声が、轟音の工場内に響き渡った。
ガシュゥゥゥッ! と重い排気音を立てて、工場の中央にそびえ立つ巨大な高速昇降機の扉が開く。そこから、上層階の警備に当たっていたであろう全身黒ずくめの私兵(魔導兵)たちが次々と吐き出されてきた。
さらに、背後の通路からも増援が一斉になだれ込んでくる。完全に挟み撃ちだ。
「チッ、見つかったか!」
ライルが腰の短剣を抜く。
兵士たちの杖の先端から、眩い光弾が連続して放たれた。空気を焦がすオゾン臭と、肌を焼くような熱波が迫る。
「右から来る! 熱い匂い!」
ミナが俺の腕を強く引き倒した。
直後、さっきまで俺の頭があった空間を、赤い火球が通過して背後のパイプを吹き飛ばす。
飛び散る火花と蒸気の中、ミナは目を細め、垂れた耳をピクッと動かした。彼女の超覚醒した嗅覚は、壁越しに迫る魔力の熱量や敵の殺気を完全に捉えている。
「次は上! 三人! ……下からも来るよ!」
警告と同時、蒸気の死角から一人の私兵が肉薄してきた。手には鋭利な短剣が握られている。
「もらったァ!」
だが、ミナは一歩も退かなかった。
小柄な体をさらに沈め、地を這うような四つ足の姿勢で刃の軌道を下から潜り抜ける。ビーグル獣人特有の低い重心と、バネのような脚力。
彼女はそのまま兵士の懐へ滑り込むと――攻撃するのではなく、腰に下がっていた予備の魔力ポーチをガシッと奪い取った。
「なっ!? 返せ、この獣っ!」
「こっちだよー!」
ミナは奪ったポーチを口にくわえ、兵士の股下をすり抜けて周囲をチョロチョロと駆け回る。まるで飼い主と「引っ張りっこ」で遊ぶ無邪気な子犬のような動きだ。
「ちょこまかと……待て!」
完全にペースを乱され、目を回してふらつく兵士。
その決定的な隙を、裏社会を生き抜いた『スカウト』が見逃すはずがない。
音もなく背後に回り込んでいたライルが動いた。左手には防御のための短剣を逆手に構え、利き手である右手で懐から黒い金属の筒を取り出す。
シャキンッ! と小気味よい音を立てて伸びたのは、悪友ドゥランに特注で作らせたという振り出し式の特殊警棒だ。それが、兵士の後頭部をスコンッと冷静に叩き据えた。
「ぐべっ……」
白目を剥いて、崩れ落ちる兵士。
「お前のじゃじゃ馬っぷりには、おいらも助かるぜ」
「えへへ、すごいでしょ!」
垂れた耳を揺らして、顔面にへばりつく勢いでドヤ顔をするミナ。
だが、敵の数はまだ優に二十を超えている。ライルはそのまま俺の商人袋に手を突っ込み、道中の廃棄場で拾い集めておいた『粗悪な廃油』の詰まった瓶を取り出し、床に向けて思い切りブチまけた。
ツルリと足を滑らせた後続の兵士たちの陣形が崩れる。
「おまけだ!」
ライルが火打石を弾き、油に引火させる。
ボワァッ! と黒い煙が立ち上り、一瞬にして強烈な煙幕が周囲を包み込んだ。
魔法の照準を狂わせる完璧な連携だが、このままではジリ貧だ。
◇
4.在庫管理システムの「物理ハッキング」
煙に巻かれながら後退する俺の目に、ふと奇妙なものが飛び込んできた。
ラインの横に整列し、重い木箱を黙々と運んでいる金属製の巨大なゴーレムたち。
彼らの四角い頭部には、スリット状の認識装置があり、そこに差し込まれた『荷札』の指示に従って機械的に動いている。
俺の頭の中で、冷徹なビジネスの論理が閃いた。
魔法が使えないなら、システムの『ルール』そのものを書き換えればいい。
「ライル、ミナ! あのデカブツたちの前まで敵を引きつけろ!」
俺はポケットからペンを取り出し、白紙の荷札数枚に素早く文字を殴り書いた。
――『廃棄物(特急処理対象)』
煙を切り裂いて突っ込んでくる兵士たちを躱し、俺は稼働中のゴーレムたちの頭部に飛び乗り、その認識スリットに書き立ての荷札を次々と叩き込んだ。
ガガッ……ピーー!
ゴーレムたちの赤い駆動音が変わり、機械の目がギラリと光る。
ズゥゥンッ……と、俺たちの足元の鉄板が深く沈み込んだ。
分厚い歯車が軋む低い唸りが、周囲の空気をビリビリと震わせる。魔法ではない、数トンもの鋼鉄がもたらす純粋な「質量の暴力」が目覚めた瞬間だった。
彼らのシステムは、組織が定めた「書類」の指示を絶対とする。新しいラベルを読み込んだ彼らにとって、目の前にいる武装した私兵たちは、もはや人間ではない。
『ただちにダクトへ放り込むべき、巨大なゴミ』だ。
「な、なんだ!? おい、貴様ら何をしている! うわぁぁっ!」
ゴーレムの太い鋼鉄の腕が、兵士たちの襟首を次々と掴み上げた。
もがく兵士たちを無慈悲に宙へ持ち上げると、ゴーレムはそのまま廃棄ダクトの口へ向けて、豪快にシュートし始めた。
ガコン、ゴトン! という情けない悲鳴とともに、精鋭の兵士たちが次々とゴミ箱送りになっていく。
俺は汗を拭い、ひっくり返る私兵たちを見下ろした。
「悪いな。ここの在庫管理を、少しだけ修正させてもらったよ」
◇
5.賢者の間への「最終プレゼン」
私兵たちがゴーレムと格闘する大混乱の隙を突き、俺たちは工場の中央にそびえ立つ高速昇降機へと飛び乗った。
先ほど私兵たちを運んできたばかりの、上層階への直通ルートだ。
ライルがレバーを最上段まで叩き込む。
強いGが全身にかかり、昇降機が最上階――『賢者の間』へ向けて一気に加速を始めた。
先ほどまでの喧騒が嘘のように、密室となった昇降機の中には重苦しい「静寂」が降りていた。
ギギィィ……と、ワイヤーが軋む音だけが暗いシャフトに響く。
ミナは荒い息を吐きながら垂れた耳を不安げに揺らし、ライルは特殊警棒を握る手を微かに震わせている。武者震いか、それともこれから対峙する強大な権力への本能的な恐怖か。
ジジジ、ジジジジッ……。
俺は肩から下ろした商人袋を強く抱え直した。
袋の奥で、黒焦げのSOS魔導符が高熱を発し、激しく震え続けている。現場の限界は近い。
だが、今の俺の手には確かな『武器』がある。
袋の中に手を入れると、分厚い革張りの『裏帳簿』の硬い感触と、冷たいガラス越しの『粗悪なインク瓶』が指先に触れた。
数字の改ざんと、現場の粗悪品。
巨大組織の腐敗を証明するエビデンス(証拠)を握る俺の指先もまた、抑えきれない怒りと決意で小刻みに震えていた。
予定を早めて鳴り響いた大儀式の鐘。その重苦しい余韻が、今も微かに昇降機を震わせている。猶予はもうない。
俺は作業着の襟を正し、上へ向かって流れる景色を鋭く見据えた。
「……さあ、学院長様に、ご機嫌斜めの『本当の理由(決算書)』を提出しに行こうか」




