【1】なろう界のエリート
以来、那賀 恢復は、なろう小説の世界に潜入するのが日課になった。板野 雄武は電話番号と、使い捨てではない本物のプライベートSNSを教えてくれた。
「ところでここ、本当に研究施設なんですか」
「ほかの人は那賀くんの居ないときに来ているよ」
その研究者を今まで一度も見たことがない。それでも現実はここにある。それを訝っても仕方ないとも思った。恢復はこの部屋のカギも手に入れた。
襖の向こうは二部屋続きになっているのがこのアパートだ。そちらにもドアも台所もトイレもある。一度だけ見せてくれたが、同じように空っぽで生活感はゼロだった。
雄武は掃除が面倒だからと、向こうの部屋から襖にカギを掛け入れないようにしていた。恢復はとくに気にも留めなかった。
なろう小説の作者は自分のルサンチマンを小説にぶつけ、辛い現実から逃避する読者が集い、彼らは作者と共有するコミュニティを生み出していた。コミュニティは数千数万といわれるなろう小説の数だけ存在していた。
恢復はその世界に片っ端から潜入し、ハリボテの街を破壊し人形のような登場人物を踏みつけ、読者と作者を切り刻み現実の痛みを突きつけた。一度破壊されたコミュニティは魅力を失い、逃げ場を失った読者も作者も、辛い日常をそれでも受け入れるしかなかった。
楽しかった。彼らが困り果て仕方なく親や学校やブラック企業。そんな怨憎会苦の世界に進む姿は恢復の未来を明るく照らした。何があっても努力は続けなければいけない。立ち止まれば愚かな自分を晒し嘲笑を受け続ける。それが死よりも辛い罰になる社会。それが正しい社会だと一人でも多くの人に気付いてほしかった。
命乞いをする作者もいた。
僕たちの最後の希望を壊さないでと土下座する読者もいた。
恢復は彼らへの憐れみなど微塵にも感じなかった。
小説の世界に潜入した恢復はアバターと呼ばれる仮の姿だった。誰にも正体を特定させなかった。だから気軽に暴れることが出来た。
残虐に作者と読者を殺したあとは、その小説だけでなく同じシチュエーションのなろう小説までもがアクセス数が激減したのは痛快だった。
雄武は深夜残業ばかりだったが少しの合間でも来てくれた。講義が終わるとアパートに入り浸り、今まで潜入した数十冊の文庫本に囲まれ、大学のレポートをこなす恢復にお菓子やテイクアウトの食事を持ってきてくれた。
どんなむごい方法でなろう小説の世界を破壊したのかを恢復は自慢気に語り、雄武は頷き手を叩いて喜んでくれた。
突然の作者の廃業。突然の売上低迷はネットではすっかり話題になっていた。
読者の多くは甘美な夢想を捨てられずに別のなろう小説にのめり込んでいった。なろう小説の隆盛は変わらなかった。
しかしメリットは大きかった。
『謎の人物』がなろう小説の世界を破壊するたび、恢復の小説へのアクセス数や高評価が増えていったのだ。それが恢復の血肉になっていた。
相変わらず大学ではぼっちだったが、そんなことは彼にはどうでもよかった。
そうして数か月が過ぎた。
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大学でなろう小説は話題だった。講義室で中庭で学食で貧困な学生が貪るように読んでいた。彼らは自分の境遇を忘れたくて、努力せず強くなることに憧れ、やがて現実も同じように変えたいと行動し始めた。
「何度もセミナーに行くうちに気がついたんだ」
「この社会はどれだけ努力をしても幸せになれない」
「だったら努力なしで成功したい」
「ブラック企業で働かないことが大事だってセミナーで言ってた。ブラック企業の利益になることは優良企業を潰し、自分たちの首を絞めるのと同じなんだ」
「努力なんてのは強者の作った言い訳よ。弱者は強者から成果を奪うことで贅沢してるの。努力すれば報われるって嘘を教えてるの」
そう語る海部 慈に周囲は文句なく迎合した。
「金持ち最低だな」
「大学を卒業してもロクな仕事がない」
「私たちは奴隷にならない権利がある」
「これは憲法でも認められている」
「働かなくていい。働くに値する職場が見つからない限り」
セミナーで植え付けられた価値観が彼らを怒りに駆り立てた。答えるのはセミナー参加を先導していた慈だった。
「そうだよ。貧困は努力では変えられない。セミナーで言っていた通り、すべて政府のせい。役人は大企業を優遇して莫大な賄賂を受ける腐った存在なのよ」
「俺たち貧困層を笑ってやがる」
「上級国民め! 絶対許せない」
慈は彼らに燃料を注いだ。
「あいつらがわたしたちから奪った富を取り戻すのよ。団結して働かないことで政府を困らせるの」
「楽して豊かな生活は先進国の基本だ」
「ほかの国は働かなくても生きていける」
「この国を外国と同じようにする」
「差別も貧困もない本当の幸福をこの国に作る」
恢復は彼らに突っかかろうとは思わずう、姿を隠すように通り過ぎる。恢復よりももっと金持ちの学生も同じように避けていた。彼らは貧困層とは関わらないように常に彼らだけで固まっていた。
『あいつらは努力を放棄し自己責任から目をそらした』
『底辺は底辺のままだ。だから絶対に這い上がれない』
『何も語らず何も教えず、あいつらが捨てた富を奪えばいい』
大学は二つに分断されお互いに接点がない。それが当たり前になっていった。
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日曜日の昼間に雄武と会ったのは、百年以上前からの商家が現存する通りだった。狭い通りに漆喰で固められた二階建ての店は昼間でも薄暗く、スマホで呼ばれるままに奥に進む。すると光が差し込む裏口に出た。
取り囲む古の文化から隔絶した芝生の中庭だった。
テーブルと椅子とパラソルが点在し、青空の下、別世界だった。
オリーブオイルとニンニクが胸を豊かにする。
生ハムの前菜から、平たいパスタや塊の肉が運ばれくるコース料理。
トマトとチーズとバジルのサラダはカプレーゼというらしい。
「今度の敵は大物だ」
「どんなふうに? 板野さん」
雄武はノートパソコンの画面をくるりと向けて、恢復に見せてくれた。
「勝浦 壮哉。売上では三本の指に入るなろう作家だ」
「小説の表紙だけ? 顔はないの」
「顔も本名も明かされていない」
「ふうん」
恢復はちらりと目を向けるだけで、料理にガツガツしていた。
「こいつの本はコミカライズされテレビアニメにもなっている。ソーシャルゲームも好評だ。いままでの泡沫作家とは較べものにならない人気だ」
「それはすごいですね」
食べるのに夢中で恢復はまるで相手にしていない。
「本当に大丈夫なのか。那賀くん」
雄武に恢復はゆるく言い切った。
「板野さんも心配性だなあ。いままでが弱すぎたんです。多少歯ごたえのある奴の方が倒しがいがあるってもんです」
歯ごたえのあるのはスペアリブだとばかりに、恢復は骨をしゃぶっていた。
一抹の不安を抱くのは雄武ばかりだ。
「そりゃあ。雑魚をいくら倒しても効率がよくないと、この作家を探してきたのは私だ。だがなあ」
そんな不安に恢復は答えた。
「このまま底辺をのさばらせておくと、複雑さや高度さを持つゲームや、努力で未来を切り開く小説は消え去ってしまうんですよね」
恢復は目的を忘れていなかった。
「一つ聞きたいんですが。板野さん」
「はい?」
恢復はグラスのサングリアを口につけて聞いた。
「社会で成功している人は、どんな本を読んでいるんですか」
そう聞く恢復に雄武は俯いて小さく笑った。
「那賀くんの言う高度で努力を学ぶ小説だよ。もっとも彼らの需要だけでは商売にならないから出版点数は減る一方だがね」
それは諦めの笑いだった。
緑色のソースはジェノペーゼというらしい。