#01-17
ルィンは「信じている」と言った。
それこそが彼女の心を支えていたものだ。
それこそ彼女が石化する最後の瞬間まで微笑んだままでいられた理由だろう。
ルィンは「信じている」と言った。
それは「蛇塚ショウイチが石化蛇バジリスクに必ずや勝利してくれることを信じている」と言っていたのだ。
オレの身代わりになって石化したルィン。そんな彼女の最後に託した思いを、どうして無下にすることができるだろうか。そんなこと、できるわけがない。
オレがあのまま衝動に身を任せて銃剣突撃することなど、誰も望んじゃいない。
あのまま考えなしに突撃したら、ふたたびバジリスクに呑み込まれて今度こそ死んでいただろう。
オレが採るべき行動は『玉砕』ではなく、『戦略的撤退』以外ありえない。
ハチキュー小銃をしっかりと保持する。
右手は下、銃床をつかむ。左手は上、被筒をつかむ。体にぴったりとくっつけて、しっかりと抱きしめるように。
頭には鉄帽、胴体には防弾チョッキ。頑丈な半長靴や迷彩戦闘服も、通常のランニング用と違って重くて硬い。弾帯サスペンダーはガチャガチャと揺れてなおさら走りづらい。
小銃を保持したまま、全身フル装備で疾駆する。それは図らずも『ハイポート』という、自衛隊内で1、2を争うほど過酷な訓練とまったく同じ恰好になってしまった。
だがこれは訓練ではない。人命がかかった実戦だ。
バジリスクが追ってくる。
あの巨大なヘビは、ずっとオレを狙っていた。
ルィンと戦っている間もずっと。ルィンが石化していったときでさえ、このオレを第一目標としてずっと目を離さずに狙い定めていた。
おそらく最初の一撃、眠っていたバジリスクに不意打ちをしたときの怒りの炎がまだ消えていないのだろう。なんという執念深さだ。
だがそのおかげで石化したルィンから、やつを引き剥がせた。バジリスクがオレを狙っている間は、ほかに誰も食われることはない。
ふっと、バジリスクの気配が消えた。
今度は気付いた。
右か、左か……? それともまた上から丸呑みにするつもりか?
走りながらオレは全周囲警戒する。
――――右前方!
とっさに反応する。
体をひねりながら前進する。ここで退いたら意味がない。
草むらから飛び出してきた大きく開いた口腔をギリギリで避ける。
無理な姿勢、かすった衝撃で足元がふらついた。
ひねった体を戻す反動で強引にバランスを取ろうとする。
そこへバジリスクの追撃が襲い掛かる。
緊急回避っ!
オレは地面を蹴って前に飛び出した。
両足が地面から離れて宙に浮く。
上下が逆さまになって頭から地面に。
小銃を掴んだままの両手でなんとか受け身。
勢いを殺さないようにごろんと前に1回転。
視界の端に目印を見つけた。
オレは体勢を反転し、急ブレーキをかけた。
もう逃げるのはおしまいだ。
ここがオレの目的地。バジリスクとの決戦場だ。
鬱蒼と生い茂る森をじっと睨むように見つめる。
すると、ずるりずるりと巨大な胴体を蛇行させながら、深い森の奥底からバジリスクが姿を現した。
やつはオレを追い詰めたものと思っているに違いない。オレが逃げるのをあきらめ、最後の抵抗をするために待ち構えているのだと、そう感じたのだろう。
バジリスクは絶対強者として、真正面から堂々とオレの企みを叩き潰すつもりだ。
オレは初めて本気のバジリスクと相対していた。
やつはすでに未消化のものを吐き出して身を軽くしている。日は昇っていて、追いかけっこもしていたので体温が上がりきっている。
不意打ちやルィンの攻撃で多少キズはつけたが能力を低下させるには不十分。しかも我を忘れるほどの怒り状態が解けてしまっている。
バジリスクは万全の状態といえる。さらに純粋で冷酷な敵意と殺意は増している。
バジリスクとの距離はすでに4メートルもない至近距離だ。
こちらの武器は威力不足の銃剣のみ。最後に一撃お見舞いしてもやつは倒せない。
たぶん反撃は必殺の巻きつき攻撃だろう。じわじわ絞め殺されるのは悲惨な部類の死に方だ。毒で苦しんで死ぬのも、生きながら丸呑みにされるのも、どれもこれも悲惨だが。
どのみち石化死だけは意地でもしないつもりだ。
真正面から相対していても、わざと視線を下げてその魔眼を見ないようにしているのはそのためだ。
まあ、そのせいでバジリスクの攻撃タイミングが掴みづらいのだけれども。とてもじゃないがカウンター戦法は狙えそうにない。
絶体絶命の状況だが、オレは笑っていた。
そんなオレに不気味さを感じたのか、バジリスクはなかなか襲い掛かってこなかった。
先攻でも後攻でも、どちらでも絶対に勝てる状況なのになにをためらうのか。さあ、かかってこいよヘビ野郎。
オレは突きつけていた銃剣の切っ先を、下げた。
バジリスクが先に動いた。
それを見てから避けようとしたオレは一瞬だけ遅い。
だがそれでいい。
バネで弾かれた様に飛び掛かってくるバジリスク。その狙いは、やっぱりオレの頭部だった。
バックステップしたオレの眼前に、バジリスクの大きな口が迫る。
だがオレは、もうその光景を見ていなかった。
なぜなら真横の巨木に刻まれた目印を確認していたからだ。
オレは銃剣で、木のツタを切った。
次の瞬間、巨大な丸太がバジリスクの右側頭部を叩き潰していた。
その巨大な丸太はお堂の鐘突きのように、あるいは破城鎚のようにバジリスクの頭部を叩き潰した。
その威力たるや、たった一撃で瀕死にいたらしめるほどだ。
瀕死の石化蛇。
牙は折れ、片目は飛び出し、潰された頭部は醜く変形して原型をとどめていない。誰の目から見ても再起不能の大ケガだ。
これはむしろ即死しなかった生命力を褒めるべきだろうか。だがこれはただ単に即死しなかっただけだ。もはや絶命するのも時間の問題だろう。
バジリスクはピクピクと痙攣していた。大きな口を開け、伸びきった舌を放り出したまま横たわっている。
オレは無造作に近づき、飛び出ている左眼球を銃剣で切って回収した。
突然バジリスクが暴れだした。
激痛にのた打ち回っているのか、怒りに身を焦がしているのか、最後の力でオレに一矢報いるため暴れ回っているのか、わからない。
オレはすでに距離を取ってそれを見ていた。
無表情、無感情のまま、それを見続けていた。
やがてオレはふたたび目印を探す。もちろんトドメを刺すためだ。
獲物を長く苦しませてはいけないと、祖父もそう言ってた。これは慈悲の心ではない。肉が不味くなるからだ。苦しみや恐怖といった感情は、とてもにがくて不味い味がする。
ロープに使っていた木のツタを次々と順番に切っていく。
最終兵器の予備として似たようなものをいくつも造っておいたのだ。トドメを刺すにはちょうどよかった。
支えを失った宙吊りの丸太は、10メートル下の目標に次々と落ちていく。
バジリスクがぺっちゃんこになるまでには、そう時間は掛からなかった。