設計士の夢
ー幼少の秋ー
明治30年、春。
雪多く残る横手の、清々しい青空が広がっている。
汽車もまだ通らず、ただ一面の畑に、一軒の家があった。その家は7人家族で、一番小さい5歳の『博之』が、畑を走り回っている。
『博、ここさけ!そこばおっかねがら。』と、兄の英吉が言うと
『にっちゃん!遊ぶべな!』
まさに遊び盛りの博之は、こうして畑作業のない時は英吉に遊んでもらっていた。
鷹野家は農家であった。地域の中では裕福な方であったが、決して余裕があるわけではないから、畑作業を手伝ったり、家族のうちの3人は年季奉公に出されていた。
博之も年季奉公に出される予定だったのだが、姉たちの頑張りで、家で生活していた。
その年の秋頃、長男の英吉は学校に行くことになった。
『にっちゃん、学校ばどなところなんだ?』
『文字とか、皆でかだって勉強ばするとこだ、博之、おめぇも学校さいげよ?』
『兎に角、明日から学校だば、きょうばその祝いだべ!』
父の誠一が言う。
続けて母のキヨが
『んだんだ、気合いいれてけな!かっつぁんえづでもみでっからな』
と言い、英吉は力強くうなづいた。
博之にとっては、それが大きく見えた。
翌日、英吉は小学校に入学した。英吉は気さくな明るい性格であったから、すぐに馴染んだ。博之はそれが羨ましくて、畑さぼって学校を覗きに行ったりした。そして帰ってきては叱られてを繰り返していたが、それでも学校に行きたいという気持ちが強かった。
いつしか、学校に行きたいということが口癖になっているくらいの思いになっていた…。
英吉が小学校に入学して2年たった。
待ちに待った、博之の入学である。
前日、博之は
『どんなとこだ?どなとこだ!?』とはしゃぎ回っていた。新品の、母が縫った着物に身を包んで、砂利道を小走りで学校に向かった。
学校の門をくぐり、校舎に入ると、沢山のひとが話をしていた。初めての経験で、博之にとっては少々うるさく感じた。
一人の男の子が博之に話しかける。
『初めまして!おらば、吉兵衛っつんだ!おめは、なんつ名前ば?』
『おら、博之だ、よろしくな!』
吉兵衛は増田の町人出身で、のちに職場の同僚となる。
吉兵衛と博之は、ここである種、運命的な出会いをしたわけだ。
その夜、博之はその吉兵衛の話で持ちきりになった。面倒くさいと思うほどに、一晩寝るまでの間ずっと吉兵衛の話をしていた。
この頃の日本の情勢といえば、日露戦争である。日本は、英国と同盟を組み、旅順に攻撃したのを発端とし、その後ポーツマス条約までの1年余り戦争を続けた。日露戦争後のポーツマス条約に対して民衆の不満は爆発し、条約の改定を求め各地で運動が盛んに行われた。それが暴徒化したのが『日比谷焼き打ち事件』であり、犠牲者が出るまでになった。結果としてこの戦争は、ただ国民に対しての負担が大きく、それに比べて得たものがとても小さかったが、勝ったことで、国際的に認められるきっかけとなったのも事実だ。
博之も気づけば、12歳になっていた。旧制中学に入学し、立派な青年になっていた。
吉兵衛が
『汽車通ったって!見に行ってみね?』
と言った後に
『ほんとか!あべ!(行こう!)』
と言った。
この年の6月30日に、横手にも汽車が開通した。横手駅が開業し、多くの人で賑わうようになり、また秋田(現秋田市)や土崎の方にも、行きやすくなった。
博之と吉兵衛は、その日こっそり汽車で奥羽北線に乗った。生まれて始めての汽車で、秋田に向かった。興奮冷めやらぬままに、田植えが終わった畑と奥羽山脈を眺めながら秋田にひた走った。
そしてふたりは、土崎の港に船が来るということを聞いたので、そこに向かうことにした。秋田駅を降りて歩くと、馬車が通っていたり、近代的な様式の建物に目を奪われ、道ゆく人にぶつかったりした。
土崎に着くと、そこには日本海が広がっていた。
『なあ吉兵衛、これ綺麗すぎるな!』
『んだな、こだなもん横手じゃ見れねしな』
続けて吉兵衛が
『船、どこさ来るんだ?おらはよ見てみてぇ!』
『あっこさ、着くんだと、楽しみだな!』
この日の土崎に、大きな汽船が到着した。
それは周りの人を大いに驚かせ、湧かせた。
その汽船の姿の中に、将来を見て惚れ込んだ博之の心の中には、こんなものが作れるのか、そしたら、おらもそれしてぇ、という気持ちが強く広がっていた...。




