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1.深夜

2010.01

改行を多く入れるのはあまり私の好みじゃないんですが、そのほうが読みやすいんでしょうか。

今回は多めに入れてみました。

 とうとう戦争が始まった。



 千歳はそのニュースを娘の千草と聞いた。

 夕飯のシチューをスプーンですくいながら、二人で水曜日のドラマを見ていたところだった。

 テレビ局のアナウンサーがニュースを読み上げる何年も前から、誰もが戦争の気配を感じ取っていた。だから、大きな驚きはなかった。連日テレビに新聞に溢れてくる不穏なニュースは、国民にゆっくりと覚悟と諦感を植え付けていった。



 その晩、千歳は千草を自分の寝室に呼び、五年ぶりに同じベッドで眠った。

 胸に抱きしめると、小さな唇からイチゴの歯磨き粉の匂いがした。千草は落ち着かないようで、しきりに瞬きを繰り返していたが、ものの数秒で可愛らしい寝息をたて始めた。

 千歳のほうは、なかなか寝付けないでいた。戦争のせいではない。ここ数年、夜中になると頭痛がして、毎日睡眠不足だった。

 もどかしい温もりが薄桃のネグリジェの下の柔肌を伝い、緩やかな痛みとなって頭を駆け巡る。眠気は一向に訪れそうにない。暗闇の中の気だるげな頭痛は奇妙な浮遊感をもたらす。千歳は何だか自分が、広い広い宇宙に佇む小さな星みたいに思えた。



 千草を起こさないよう気をつけながら、するりとベッドから抜け出す。木目の床が裸足の足に冷たい。暗闇。痛み。胸騒ぎ。何故か子どもの頃のことが思い出される。

 悪さをするような期待と緊張感をもって、自室を抜け出す。階段を小さな足音と共に降りていくと、白い光がぼんやりと浮かんでいる。

 リビングだ。

 青年が一人、ぽつんと立っているのが視界に入る。千歳の夫が仕事から帰ってくるのを待っているのだろう。テーブルの上に、彼が作った胃に優しそうな料理がラップをかけられて並べられている。

「……」

 千歳は彼が寂しそうに見えるのだった。

 彼女は知っている。

 彼は鏡だ。

 とてもよく磨きあげられたぴかぴかの美しい鏡。

 映す姿のエゴを可憐に晒す。

 共に過ごした時間は長いけれど、本当は彼のことをよく知らない。もしかしたら゛彼″は中ががらんどうの空筒なのかもしれない。

 こんな真夜中には空想じみたことが頭をよぎる。

「……」

 ゆっくりとリビングに近づいてきた千歳に、彼はついっと視線を合わせた。


 沈黙。


 それはささやかな抵抗だと千歳は思っている。何の力も意味もない。

 もちろん彼女の。


「……奥様」

 彼は薄い声音で彼女をそう呼ぶのだった。

「奥様、また眠れないのですか?」

「……水を一杯頂戴」

 差し出されたグラスをゆっくりと傾ける。

「思いつめないことですよ、何事も」

 冷蔵庫のモーター音が羽音のように広がる空間に、彼の声はやはりものさみしい。温く食道を潤す水のように染み渡る。


「思考は時に毒だとか、言いますでしょう」

「では考える前に動けと?」

「全く考えるなと言ってるわけではないでしょう、過去の偉人も」

「お前、今日は饒舌ね」

「……そうでしょうか」

 そして、いつも以上に素っ気なく、虚ろな目をしていた。それも、彼女自身の姿だったのかもしれないが。

 再び深夜の沈黙が訪れる。

 千歳は何をするでもなく、白い明かりを眺めていた。彼もぼんやりとその傍らに佇んでいた。静かだった。

「……」


 ふいに、彼が空気を乱した。振り返り、丁度階段のある方向を見ている。何事かと、千歳もならって顔を向けると、千草が頼りない足取りで階段を降りてくるところだった。


「千草、どうしたの」

「……パパは?」

「仕事よ。直に帰って来るわ」

「本当に?」

「本当よ」

「でも戦争が」

「大丈夫よ」


 何が大丈夫なのか、自分でもわからないまま千歳は答えた。それが千草にも伝わったのだろう。千草は階段を駆け降り、彼にしがみついた。


「本当? 本当に本当? パパは帰ってくるの? 戦争が始まるんだから、パパは、」

「ママの言う通りだよ。パパはどこにも行きやしない」

 千草は二人を交互に見る。猜疑と安堵が入り交じった瞳がせわしなく動く。

「二人ともずぅっとそばにいるさ。……ちぃちゃんのそばにずっと」

 千歳は千草の手を握り、軽く揺すった。柔らかな感触に千草は安心したようだった。

 昔から、この子はいつもそうだ。口で言うことは聞かない。あやすように手を絡め、千歳は微笑む。

「もう寝ましょう。明日の朝、眠たそうな顔をしていたら、パパが心配するわ」

 千草は一回頷き、後は大人しく千歳に手を引かれてベッドの中に戻った。



 千歳は、自分はベッドに入らないで椅子に座り、千草の髪を優しく撫でた。千草が眠った後も、撫で続けた。温かな気分にはなったが、まどろみや悪夢には程遠く、闇に溶けるような微かなノックの音もしっかりと受け取った。

「お入りなさい」

 千歳の部屋にノックをするのは、彼くらいのものだ。千歳は千草の寝顔を見ながら、返事をした。こんな夜遅くに彼が部屋にやって来るのは珍しい。

 彼は音をたてずにドアを開け、その場から彼女に声をかけた。千草のことを気にかけた声量は、シャボン玉のように儚げだった。


「やっぱりまだ起きていた。眠れなくても横になるくらいはしないと、体に障りますよ」

「わかってはいるのよ」

「本当は、障ってもいいと思ってるんでしょう?」

「そんなに無責任な人間じゃないつもりだわ」

「人間なんて皆無責任だと思いますが」

「……お前、今日は本当に口が達者ね」

 呆れて息をつく。彼は構わず、言葉を続ける。

「まだ、眠れそうにありませんか?」

「そうね」

「私もです」

「……」

 呆れを通り越して、一瞬千歳は言葉を失った。

「お前が眠れないだなんて、今紀最大のジョークね」

 無表情に切り捨てる。

 馬鹿馬鹿しい。今日はどうしたというのだろう。彼の、意図の汲めない言葉に、千歳は苛立ちを覚えたが、彼はいつもと何も変わらない真面目な顔をしている。


「少し散歩に行きませんか?今日は星が綺麗に見えますよ」


 今度こそ、千歳は彼の顔を見返した。自分の耳を疑い、夢を見ている可能性を考えた。おかしい。こんなこと、ないはずなのに。


 千歳が戸惑っている間に、彼はドアを開けたまま、部屋の前から立ち去った。彼女は適当なコートを羽織りながら、その後を追った。玄関に脱ぎっぱなしにしてあった赤いハイヒールを履いて外に出る。


 彼が言ったように、今晩は星がやけにきらきらと輝いていた。

「戦争が恐ろしいのでしょうか」

 家の前の歩道で彼は待っていた。二人は行き先を決めずに並んで歩く。人影はなく、車の通りもほとんどない。自由を錯覚するほどだった。

「それもあるでしょうけど。でもそれだけでもないでしょう。千草にだって色々あるのよ」

「貴女のことを聞いているんです」

「私?」

 千歳は片眉をぴくりと上げた。

「怖くなんてないわよ。都市に戦禍は及ばないわ。人間には関係がない、関係があるにしてもそれは……、」

 そこから先は彼にふさわしくない。そう思って、千歳は言葉を濁した。

「私たちには関係がないことだわ。……確かに無責任ね、私たちは。お前はどうなの」

 彼は答えなかった。千歳は無礼を非難するでもなく、彼の横顔を見た。

「……ちいちゃんが怖い思いをしなければいいと思いますよ」


 千歳がぴたりと足を止めた。顔だけで彼が振り返る。それを確認もせず、千歳はいきなりハイヒールを脱いだ。

「何をなさっているんです」

「見てわからないの。靴を脱いでいるのよ。そして投げるの」

 言葉通りに、千歳は手にしたハイヒールを力の限り投げた。赤い軌跡が闇に消える。遠くで乾いた音が鳴る。

「……お嬢さま!」

 彼はそう叫んで、はっと口をつぐんだ。千歳は小さく笑う。

「あぁ、足が冷たいわ。このままだと風邪をひいてしまう。……何をぼやぼやしているの。さぁ、早く靴を取ってらっしゃい、ハチ」

 ……沈黙。

 恐らく彼の抵抗だった。そして葛藤。

 そして、彼は負けた。軽やかな足取りで走っていく。



 ハチ。

 ――806jpt型アンドロイド。


 彼は、千歳がまだ赤ん坊の頃、彼女の子守用に購入されたアンドロイドである。今は型遅れですらあるが、アンドロイド倫理学の第一人者である小町博士が存命だった当時、806jpt型は小町博士の理想とするブレインを積んだ最先端のアンドロイドだった。

 千歳の生まれた家は裕福とは言えなかったが、父と母は彼女の一生の財産として、彼女にハチをプレゼントした。アンドロイドが子どもの情緒面の成長に良いとメディアでもてはやされた時代であった。

汝、姦淫するなかれ。

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