第62話/99話 「受け入れる 堕ちた王族」①
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アキはリーニャ先生が亡くなった後も、平気そうに見えた。
無理しているだろうことは伝わる。
アタシも、それなりに心配だったから、なるべく一緒にいるようにしたし、合奏も、何度も一緒にやった曲でも、断らないようにした。
合わせたいと、新しい楽譜を、なんでもない風に渡してきたときは、むしろアタシの方が感傷的になってしまった。手書きをコピーした楽譜。渡してくるということは、それはリーニャ先生の遺作だから。
音は相変わらずいつ聞いても最高だったし、表現力も凄まじい。ソロを吹いてもらうと、いつ聞いても、同じ人間が出しているのか疑わしいほど、どんな音色でも曲に合わせて出してきた。それが最良かは、素人のアタシにはわからないけれど、多分最良なのだと思う。
技術が多少ついても、師匠の指示通りにしか吹けないアタシとは、やっぱり違う。
だからアタシは、アキのことを信じている。その音と同じくらい信じている。
多少、いや、かなり傷ついても、どんな苦境もそのトランペットでねじ伏せてくれる男だと――そう信じている。
ぽつぽつと。
リーニャ先生の想い出と一緒に、現状も話してくれる。
新しい先生は、カヤとルイさんの父親、榎本先生の紹介で、すぐに見つかったそうだ。ルイさんが頼み込んでくれたらしい。ルイさんと同じ先生だと。
ただ、遠方に住んでいるので、週に1回だけ。
金曜の夜に夜行バスで出かけて行って、土曜はレッスン。土曜の夜から日曜の朝にかけて、また夜行バスで帰ってくる。
夜行バスは眠れない。昔アタシも、何度か両親に連れられて、乗ったことがあるからわかる。次の日、体がギシギシ言う。
辛くないのか、と訊いたら、立ち止まっている方が辛い、という。後から考えたら、かなり無粋で、しない方が良い質問だった。
アタシはアキの音を信じている。
師匠が、音で決まる世界などない、と言ったとしても、きっとコイツとその音だけは例外だと信じている。
〇
4月20日(木)
「ほい、女番長、仕事だぞ!」
「誰が女番長だ、誰が!」
放課後の音楽室。
職員室で鍵を借りて、個人練習の用意をしていたところ。
楽器クラブに新入部員は来なかった。各学年、100人くらいはいて、5年生になればどこかのクラブに入らなければいけないのだから、1人くらいは来てくれてもいいのだが。
そんなわけでアタシはアキと、どちらが放課後、音楽室を使うか、かなり気軽に決められるようになっている。
ごそごそ、と。
準備をしていたところに、音楽室の扉が開いてユミ。
後ろにランドセルを背負った、髪の長いきれいな女の子を連れている。
入り口から動く気配がないので、アタシもそちらへ移動する。
そちらから訪ねてきたのに、アタシを動かすとは、相変わらずユミさまはえらそうですこと。まあ別に、音楽室はアタシの家ではないのだけれど。
「5年生の亀卦川ヒトミ。知り合いなんだけどね。楽器クラブに入りたいんだって。ヴァイオリンが得意で、やりたいんだってさ。今日は顔合わせだけ」
ヒトミちゃんは、ユミの後ろに隠れたまま、少し頭を下げる。
うん、美人だな。
着ている服も普通だが、何度も洗ってヨレヨレのアタシの物より形が整っている。生地が違うんだろう。生地だけではないことをアタシは知っている。
その子を見ながら、半ば独り言のようにアタシは口に出す。
「はあ。仕事って、何かと思えば。――ヴァイオリンね。ユミが連れてくるのは、やっぱり金持ちなんだ。アタシ、ヴァイオリンなんか買えないわ」
ゴン!
いきなりユミからげんこつが飛んでくる。
「いったあ! 何すんの!」
「ちょっと来い!」
そのままユミはアタシの腕をつかむと引きずるようにして、入り口にヒトミちゃんを置き去りにしたまま、音楽室にずかずかと入って、入り口から少し離れた位置で。
聞こえないようにひそひそ声で、ただしキツイ口調で、ユミは言った。
「バカ! あの子、春から母子寮に来た子なのよ!」
「うえっ……」
アタシはマズイことを言ってしまったと慌てる。
母子寮。
何度か遊びに行ったことがある。
桜山団地の3丁目、東の一番低地の外れに位置する集合住宅。
その名のとおり、何らかの理由で、母親だけの家庭の子たちが住む。低所得の。
建物の裏にはちょっとした遊具が置いてある公園があり、その下を囲むように、鯉とザリガニしかいないようなドブ川が流れている、町の外れ。
3階建ての、外観は保育園にも似た鉄筋の建物。
風呂とキッチンは共同で、トイレは各階共同。
……楽器をやるには、最も向いてない住まいかもしれない。
なお、どちらも低所得層が住む集合住宅である、県営住宅と母子寮の違いとして。
県営住宅が、引っ越してくる子も出ていく子も多いのに対して、母子寮は、出ていく子が極端に少ない。
子供のうちは、そこにずっと住むのが一般的である。
対して、ヴァイオリン。
師匠は言った。アタシなど及びもつかない金持ちがやる楽器。
オーケストラの中でも、意思決定権を持つ奏者がやることが多い、いわば王族である。
トランペットやフルートならともかく、それは、基本的にある程度の防音が施された室内でしか練習ができない。
アタシもアキも立って吹く、いわゆる立奏を基本に屋外で練習できるが、ヴァイオリンは風に弱く、現実的ではない。
木で出来ているから、湿度や温度変化にも気を使う。雨で濡らすなんてもっての他。
消耗品にかかる金も、フルートやトランペットの数倍。
それを継続的に続けられる環境。オーケストラで将来演奏するのを視野に入れるなら、大体は未就学児から始めて。
王族の楽器であるのも当然だ。
つまり、入り口からアタシたちを、不安そうに見ている長髪の女の子は、ヴァイオリンが得意だ、と言える環境に育った。その上で、楽器なんかやれない環境に――身も蓋もないアタシたちの論理で言えば――、堕ちてきた子である。
「ど、どうしよう」
「とりあえず、今日は挨拶だけだから、軽くやっちゃいなさいよ」
怖い顔のユミに言われ、アタシは渋々、入口へ戻る。
「あの、楽器クラブの決まった活動は、金曜日だけだから。今日はアタシ、自主練してるだけで。明日、楽器持って来てくれる?」
「……はい。わかりました……」
消え入りそうな声でアタシに答えたその子は、そのまま踵を返すと、とぼとぼと音楽室を後に歩き出す。
丸めた背中が印象的な子だ。
「言葉、気を付けなさいよ!」
隣でユミが、アタシを睨んで怒っている。
「先に言っておいてよ……」
「クラスでもいまいち、なじめないっていうから、あんたに紹介したのに! あの子が登校拒否になったら、あんたのせいだからね! 明日はクラスまで一緒に迎えに行ってやるから」
そんな無茶苦茶な。
アタシの責任重すぎるだろ……。
「そういうなら、ユミも楽器クラブ入ってよ」
「私はバドで忙しい。大体、何が楽しいの、楽器なんて」
「始めたら、アタシより良いフルート買ってもらえるくせに」
「それは否定しない」
ばっさりと、そんなことを言って、ユミは行ってしまった。
ヒトミちゃんを追いかけて、さりげなくフォローを入れるのだろう。
「……そういえば、アタシ、名乗りもしなかったな」
独り言を漏らすも、応える声はない。
ヴァイオリン、ヴァイオリンかあ……。
続けたくてクラブに来るなら、毎日やりたいに決まってるよね……。
音楽室だけじゃ足りないんじゃないかなあ……。
失礼なことを言ってしまったけど、どうやって仲良くなれば……。
つか、どうすんだよ。母子寮でヴァイオリンなんて……。
この日、アタシの悩みは尽きず、フルートを吹いている時間以外は、大体モヤモヤがくすぶっていた。
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