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第60話/99話 「去り行く それでも」

 〇

    3月28日(火)

「……おはよう」

 

 ――いつも応える声が無い。

 

 朝5時。

 もうすぐ夜明けだから、少し明るい。

 雨の日も、風の日も、雪の日も。

 返ってきていた声が無い。

 アキがいない。昨日はいたのに。

 電柱の陰とかに隠れて、アタシを脅かそうとしているのかな、と、そこらを探してみたけど出てこない。

 休むのは、いつもアタシの方だったのに。

 まあいいか。ついにアイツに1日分追いつける日が来た。

 アタシは学校へ向かい、走り出した。


 〇

   3月29日(水)

「師匠、昨日も今日も、ランニングにアキが来ないんですよ」

 

「そうなの? 見舞いに行ってあげたら? 母子家庭で、1人のことが多いんでしょ?」

 

「う~~ん、なんかちょっと、いかにも、恋愛ものの少女漫画っぽくて嫌ですけど……まあ、心配は心配なんで、明日行ってみますよ」


 〇

    3月30日(木)

 アキの家に行ってみた。

 りんごを持って。

 チャイムを鳴らしても誰も出なかった。


 〇

    4月1日(土)

「……す~~」

 

「師匠?」

 

 レッスン前。朝8時……くらい。

 休みの土曜のレッスンは、アタシが来たら始める、なのでいつも時間はバラバラだ。

 ダイニングに通され、テーブルに着け、と言われ、そのまま座った。

 師匠が隣に座ってくる。

 師匠はテーブルに両肘をつくと、そのまま両手で口と鼻を覆った。

 目を閉じ、深く息をする師匠に、アタシは呼びかける。

 朝弱いとはいえ、今寝られても困るんですけど。

 師匠はそのまま、なんどか深呼吸をし、目を閉じたまま言った。

 

「……クライシーヴァね。死んだわよ」

 

 アタシは鼻で笑ってしまう。

 

「ぷっ、いやいや、師匠。いくらアキが朝に来てない話をしたからって。不謹慎すぎますよ。そんな変な恰好までつけて。今日が何の日だか、アタシだって知ってますよ。エイプリルフールでしょ、エイプリルフール」

 

 もう、と笑い飛ばすアタシ。

 師匠は、目を開けずに言った。

 

「マジよ」

 

「だから、そんな、深刻な雰囲気、作らないでくださいよ。ネタにしていいことと悪いことがあるでしょ……」

 

 アタシはこの時まで笑えていた。

 師匠は全く目を開けない。

 え……。

 

「……」

 

「もしかして、エイプリルフール、……じゃない?」

 

 今にも、次の瞬間、手を広げて、目を開けた師匠が。

 ……アタシをからかって……。

 うっそぴょ~ん、とそう言って……。

 

「ない」

 

 師匠は、ゆっくり両手をスライドさせて、目を隠す。

 口元は……歯を食いしばっていた。

 どくん、と心臓が跳ねる。

 

「……すみませんでした。嘘だと思って」

 

 アタシは謝る。それでも、まだ信じていない。

 正直、今でも少し、師匠が嘘だと言ってくれるのではないかと思いながら。

 

「いや、あたしが悪かったわ。今日が何の日だか忘れてた。仲間内の連絡で知ったの。確か、だそうよ。狭い世界だからね。生き死にもみんなに伝わるわ」

 

 そんなわけがない。おかしいじゃないか、とアタシは叫びたかった。

 しかし、アタシは知っている。去年、大好きだった叔父、マサアキさんが亡くなった時もそうだった。

 好きな人は突然いなくなってしまう。そういうものなのだ。年齢にも、健康にも、こちらの気持ちにもかかわらず。

 

「……死因、とか、聞いてるんですか?」

 

「首都近郊へ移動中の事故、らしいわ。それ以上は知らない」

 

「そうですか……」

 

 少しの間、沈黙が空間を支配する。

 アタシも師匠も、数回会っただけの、そんな人だ。

 関係はそこまで深くない。

 だが胸の奥が……隙間が空いたような。そんな感覚。

 

「なんでソビエトで生き延びたやつが、安全な日本で死んでるのよ。……チッ」

 

 師匠の舌打ち。

 がりがり、とこめかみを手の平でさすって。

 師匠は、吐き捨てるように言う。

 

「残された者は、出来ることをするしかない。……アキくんが心配ね。会ったら、支えてあげるのよ」

 

「はい」

 

 アキの来ていないのはそんな事情からか。とはいえ、アイツも肉親ではない。家に行っても出てくれないのは不自然だ。

 ……次の月曜もこなかったら、また行ってみよう。


 パンパン、と自身のほっぺたを叩いて、師匠は立ち上がる。

 

「そうね、自分で言っておいて、あれだけど、やれることをやるしかない。大体、リーニャはあたしよりよっぽど幸せに死んだわよ」

 

「ええっ、そうですか? まだ若いのに」

 

 師匠は時々、とんでもないことを言う。

 とはいえ。

 アタシも、師匠につられて立ち上がる。

 

「だって、そうでしょう? モスクワで音楽家として栄光をつかんで、日本に来て、才能ある弟子が、師匠の自分を超えるところを、ほとんど現実として見ながら死んだのよ」

 

「む~~。じゃあアタシも、師匠が幸せに死ねるように頑張りますよ」

 

 なんだか、リーニャ先生の死を軽く見られてるように感じ、少しの反発を感じたので、皮肉を込めてしまった。

 そんな、イラっとするアタシを師匠は見ながら

 

「あんたが、あたしを超えるには、100年はかかるわよ……ふう」

 

 とため息をつきながら言った。

 レッスン室へ歩きながら、師弟の間に少し妙な空気が流れる。

 

「むう。……師匠、死ねませんね」

 

 そんなことを言うアタシに対し、師匠は一瞬、宙を見て考える。

 

「出来ることをするしかない。本当に。そう思わないと、やってられないわね」

 

 レッスン室のドアを開けながら、続けて、師匠は言った。

 

「……さ、今日も、100年を、1日縮めるわよ」


 〇

     4月3日(火)

「おはよう!」

 

「おはよ」

 

 朝5時。

 晴れた空は、夜明けも近く、もう明るい。

 でっでっぽーと山バトの声。

 アキはそこで待っていた。いつもの電柱で。

 張ったその声はよく通り、少しの不在期間を感じさせない、そんな声だった。

 見た目は何も変わらない。

 防水の、アタシのよりは目立たないシャカシャカジャージ。

 長身にサラサラの髪。顔も感情のわかりづらい微笑。

 それでも、ダメージを受けていないわけはない。

 この声は、アタシに気を遣わせないように、精一杯作った声だろう。

 だから、アタシはこう続ける。吐き出しやすいように言う。

 

「リーニャ先生のこと、聞いた」

 

「――っ」

 

 少しだけ、アキがひるんだ様子を見せる。

 アタシが知らない可能性の方を信じていたのだろうか。

 

「話なら聞くから。力になれないかもしれないけど、話したかったら、話して」

 

「……うん」

 

 視線を落として少し考えるアキ。

 唇を噛み、少し考える様子を見せる。

 パン!

 アタシは、その背中を叩き、一言

 

「走ろっか」

 

 それだけ言った。

 アキは、うん、と応じ、着いてきた。

 

 〇


 校庭でのランニングからの帰り道。

 

「弁護士さんから、遺言状が届いてさ」

 

 ぽつ、ぽつ、と。

 アキが喋りだす。

 

「へえ」

 

「僕に、財産を全部渡すって。あの家も。家にあるものも。あと海外の口座にあるお金も。でも、着たのは紙だけでさ。葬式もしたかどうか知らないんだ」

 

「ふぅん」

 

 ああ。なるほど。

 アタシは師匠から聞いたけど、アキの場合、リーニャ先生が音楽の世界への受け渡し口だ。

 そこがなくなったら、どうやってアキに伝わるのだろうと思ったら、そういうことだったのか。

 

「母さんが、権利を受け取ってくれればよかったんだけど。嫌なんだって。だから、僕が成人するまで、財産は裁判所とか法務局のものなんだってさ」

 

「ふぅん」

 

 家に行ってもいなかったのは、その手続きのためだったのだろうか。

 なんとまあ事務的だな。当事者たちの気持ちも知らないで。そんな風にアタシは思った。

 当然だが。世界は悲しみで動いているわけじゃない。

 

「家の鍵はあるし、売り買いとか出来ないだけで、入れはするんだけど」

 

「うん」

 

「掃除とかしに行かなきゃ。20歳までほっといたら、家も腐っちゃうよ」

 

「そうだね」

 

 ふふっ、とアキは、自分のあまり面白くないジョークに笑う。

 コイツは強い。

 アタシが師匠を仮に失くしたら……立ち直れるだろうか。

 遺書に、財産以外に何が書いてあったとか、何を知っているの、とかアキに訊きたいことは色々ある。

 でも、やめておいた。

 愛しい人を失くした人に、かける言葉をアタシは持たない。

 朝日に照らされ、無力をアタシは噛みしめた。


 〇


 第60話/99話 「去り行く それでも」 終


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