第35話/99話 「ぼやける 視界」①
〇
4月4日(月)
「おはよう」
「……おはよ。……毎日、ほんとよく来るよね」
「それは、シオリだってそうでしょ」
「……アンタがたまにはサボらないと、アタシがいつまで経っても追いつけないじゃない」
午前5時。
今日もアタシたちの朝は、寒くて暗い時間に始まる。
アキは毎日、アタシの家の前の電柱のところで待っている。5時にどちらかが来なかったら、勝手に一人で走ることになっているが、アタシが行ったときにアキがいなかったことはない。雪の日も雨の日も。
もうすぐ日の出を迎える町は、そこそこ明るい。道に転がる石を避けられる程度には。
でっでっぽー、でっでっぽーと、ヤマバトの声がする。ときおり、ゲーンだかカーンと高い音で、キジか山鳥の声もする。
ジャージの下に少し着込まないと、家を出るときにまだ肌寒い季節だが、どうせ走れば暑くなるので気にならない。
校庭が雪でグズグズしていない。
春は好きだ。
1周400メートル弱の、市内の小学校で一番広い校庭。
10周もすると、アタシはぜぇぜぇと息を切らしている――なんなら、後半はずっと――が、アキはいつも平気そうだ。
悔しいので、腹と肺の痛さに相応に苦しんで、もう走りたくなくなってから、とりあえずもう1周か2周追加することにしている。一緒に走る奴の苦しむ顔を拝んでやろうとしているが、見られることはまずない。
「今日から新学期だねえ」
爽やかにそんなことを言い、アキは続ける。
「……シオリが、仲良い友達に僕の名前をあげてくれたら、いっしょのクラスになれたのにな……」
少しだけ残念そうだ。
いや、コイツが態度に出すということは、目に見えるよりも、かなり。
「また言ってる。別にいいでしょ。……アンタはどこ行っても友達多いんだし」
春休み中の登校日に発表されたクラス替え。
アタシは1組で、アキは3組。
5年生から6年生になる時にクラス替えがあることは稀だと聞いているから、このまま2年間を過ごす可能性が高い。
別に、教頭先生に尋ねられたアタシの意見が、そのまま反映されたわけでもないだろうに、アキはなんだかグチグチとブー垂れている。
……まあ、仲良い友達としてあげた、イサオやスズちゃん、トモクニなんかは同じ1組だったのだが。
「……そうかもしれないけど」
「それよりさあ、5年生でクラブも楽しみだよね。アタシは楽器クラブにするけど、どうする?」
「僕もそうするよ。これまで音楽室借りといて、他のクラブにするわけにいかないでしょ」
「……それもそっか」
大手を振って音楽室を使えるようになるのは、正直結構楽しみだった。
人は少ないと聞いたが、どうだろう。
フルートやる子が他にもいると、話が合うからいいな……、とほんの少し期待している。
〇
「それじゃあ、今日はここまで。1年間仲良くやって行こうな」
新しい担任の獅子戸先生は、若い男の先生だった。
整髪料で固められた短髪がツンツンしていて、背が高い。
今日は始業式だから、昼前に終わり。特に何もない。
クラブを決めるのは明日らしい。
「ねえ、初鳥さん……話があるんだけど」
「シオリちゃん、いっしょにきてよ」
「ん」
いつもどおり、トイレに寄ってから、帰宅しようとしたら、新しいクラスメイトに声をかけられた。
師匠のレッスンに平日も通うようになって以降、アタシは家の鍵を持たされているから、トイレに入れない心配は無い。……のだが、年明け以降どうも腹の調子も悪い時が多いから、それもあって、習慣は崩していない。
声をかけてきたクラスメイトは3人。ミキちゃんと、ヒロコちゃんとカズミちゃん。
ミキちゃんとヒロコちゃんは4年生の時も同じクラスだったから、話したことはある。いつもアイドルの話ばかりしている子らで、家でテレビを見ないアタシとは話が合わない。
クラスのカースト上位にいる方だが、中心も中心といった感じのユミちゃんとは違って、必死にアタシと同じような底辺には落ちないようにしている、という印象を受ける。
カズミちゃんは同じクラスになったことがないから、顔と名前くらいしか知らない。
「ついてきて」と言われたので、近くの空き教室に入る。
〇
「あのさあ、明日の委員会決め、どうするつもり?」
空き教室の壁際。
3人に囲まれたアタシは、開口一番、そんなことを言われる。
詰問するような調子で。
「え、放送委員やるけど。4年生と同じ」
放課後、練習場所でスタジオを使えるのは、相変わらずアタシには大きい。コミュニティセンターへ通うようになっても、特にプールで泳がない日もあるし、移動時間も必要ない放送室の方が、都合の良い日もある。
師匠のレッスンの日がズレるのは、申し訳ないのだが。
「はあ。それさあ、やめてくれない? カズミにゆずってほしいんだよね」
なんだかキツイ調子でミキちゃんが言う。
「え、なんで?」
「あんたさあ、昼の当番入ってなかったじゃない? みんな、めいわくしてるんだよね」
「リクエストの受付ができないってさ」
……。
ああ、なるほど。
一瞬、なんのことかと思ったが。
放送委員の仕事は、臨時の放送を除けば、昼の給食の時間に校内放送で音楽を流すこと、夕方の下校の時間にアナウンスを入れることの2つ。それぞれ、同じ日で当番が分かれている。
昼の放送は、放送室の隣の資料室にあるカセットテープやCDを流すこともあれば、自分で持参した曲を流しても良かった。
友達のCDを渡されてリクエストされることもある。
委員でない子は、仲の良い放送委員か、同じクラスの委員に頼むのである、
アタシが昼の当番にならないから、リクエストの持って行き先がないという話だった。
勝手なものだ。
4年生のリクエストはほとんど通らないという噂があって、去年のアタシは争奪戦も何もなく、不人気な委員をやったというのに。
実際は去年の上級生はみんな優しくて、そんなことは無かったみたいだけど。
「ああ、それなら、アタシが委員になったら、他のクラスの子に頼むよ。集まるのは日常的にあるからさ」
少しのイラっとする気持ちを隠しながらアタシは言う。
「それだと面倒だからさ、委員になるのをやめろっつってんの」
「……え? なんだかおかしくない?」
様子が変だ。
アタシは続ける。
「アタシが委員になっても、放課後だけじゃなくて、昼の当番にも入れっていうんじゃダメなの?」
放課後当番は人気が無いから、去年はアタシの昼当番と、他のクラスの子の放課後当番を代わっていただけなのだ。
それを元に戻せば良いだけなのに。
「いいじゃん。カズミにゆずりなよ」
「アタシが譲っても他の子だってやりたがるかもしれないじゃん。普通に立候補して、じゃんけんでもなんでもすればいいでしょ」
ちなみにアタシは、大事なじゃんけんで負けたことは無い。
人生で一度も。
「他の子にも言うからさ。おねがい」
「意味わかんない。じゃあね」
さっぱり要領を得ない問答が面倒くさくなったアタシはこの場を去ろうとする。
踵を返そうとしたアタシを、3人が遮る。取り囲むように。
「……ダメだよ、こいつ」
「一応、説明をしたほうがいいんじゃない?」
「あんまり話したくなかったんだけどなあ……」
口々にそんなことを言い、ヒロコちゃんはアタシに言う。
「美雲くん、いるじゃん」
「ああ、アキね。それが?」
「アキ、だってさ。メガネブスのくせに、気やすく呼ぶよね」
ミキちゃんは、なんだか、アタシに当たりが強い。
アキと呼べ、といったのは本人だ。みんなそう呼ぶからと。
「放課後、放送室で練習する日もあるんでしょ? カズミが仲良くなりたいんだって」
「……はあ?」
素っ頓狂というのは、こんな声か、というような声をアタシはあげてしまう。
「だからさ……、わかるでしょ。カズミが話したいんだって」
「あんたも最近、美雲くんと仲良くしてるらしいけどさ。別に付き合ってるんじゃないでしょ。カズミにゆずってあげなよ」
はぁ。
放送室でアキが練習しているのは事実だけど、音楽室でやってる方が多いんじゃないかな。
なんなら、アタシが師匠のところに通うようになってからは、放送室のスタジオは、アタシが個人練習をしている方が多いと思う。
アタシが放課後いない日は知らないけど。
「別に、アイツ、音楽室で練習してる方が多いから、そっちで話しかければいいじゃん。わざわざ放送室に来るの待たなくても」
「あんた、バカなの? 音楽室で練習してるところに行ったら、いかにもって感じだし。自然なのがいいんでしょ。ね、助けると思ってさ」
「はぁ。アキと話したいなら、今年から始まるクラブ、楽器にしたら? アイツ、楽器クラブに入るって言ってたよ」
「いや、私、楽器は興味ないし……。それに、シオリちゃんも入るんでしょ? 自分より上手い子ばっかりとか、入りたくないじゃん」
カズミちゃんは、笑いながらそんなことを言う。
卑屈な笑いにも見える。
……興味なくても、アキの本気の音を1回聞けば、大体の人間は虜になるに決まっているのだが。
黙って聞いて、アタシみたいに狂え。
聞きもしない、やりもしないうちから、この子は何を言っているんだろう。
……アキが、楽器関係なく魅力的な人間なのは、悔しいが認めるけれども。
「意味わかんない。アタシ、もう行くからどいてよ」
なんのことはない。カズミちゃんの色ボケっぽい何かに、ミキちゃんとヒロコちゃんが付き合って、なんとかしようと一肌脱いだ。まあ本人たちの中ではそんなことになっているのだろう。
他人の色恋沙汰を邪魔するつもりはないが、他にいくらでも手段のある『話しかけ方』なんぞのために練習場所を譲る理由にはならなかった。
「待ちなって。……あんたも、美雲くんねらってるんじゃないでしょうね。そういえば、毛虫みたいだった髪もなんか短くしてるし。……かわいくしてるつもりなの」
ヒロコちゃんは、というか3人とも退いてくれない。
「ちょ、髪触らないでよ。引っ張らないで!」
3人がアタシの髪や服を触ってくる。
「あんたと美雲くんじゃ、釣り合うわけないじゃん」
「少し前なんか、あんた学校で吐いたんでしょ。ゲロ女のくせに、何調子乗ってんの」
なんなんだ、こいつらは。
アキはアタシにとって、いつか倒す、認めさせてやる目標であって、恋人でもなんでもない。
大体、彼氏彼女になったとして、こいつら、どこでデートするつもりなんだろう。喫茶店の1つもない、デートスポットなんぞ無いこの町で。
アタシが髪を短くしたのは、日常的に水泳をするようになって、少しでも髪を乾かす時間を短縮したいからだ。アキの好みが短髪の女の子であるかは知らない。かわいいとは言っていたけど、アイツは他人が喜びそうな言葉を選ぶのが上手いし、社交辞令を簡単に使いこなすから、本心であるかはわからない。
大体、アタシの髪はくせっ毛で、短く切った今は、そこら中がぴょんぴょんハネているので、本人としてはかわいくもなんともない。クシでなでつけても、どうしようもないので諦めている。
……つか、誰だよ、アタシが保健室で吐いたのを話してるの。
「かわいくしたいならさあ」
ミキちゃんがもみ合うアタシの眼鏡をひょい、と取り上げる。
「これなんか外した方が良いんじゃね」
「やめて、返してよ!」
手を伸ばすけれど、アタシより背の高いミキちゃんはそのまま手を上の方へあげて、アタシの手の届かないところへ眼鏡を持って行ってしまう。
「うわ、なにこれ、全然見えないじゃん。ヒロ見てみなよ」
「どれどれ、……うわ、ほんとだ。カズミ、これ」
「ちょっと、勝手に渡さないで、見ないでよ!」
アタシの、度のキツい眼鏡は手から手へ渡り、全然返してもらえない。
手を伸ばして、取り返そうとアタシは頑張るが、全然思うようにいかない。
「つか、コイツ、うるさくね」
手を伸ばして抵抗するアタシに業を煮やしたのか、ミキちゃんがそんなことを言う。
「だよね。だまりなよ、あんた」
ヒロコちゃんはそう言うと、手を振りかぶった。
――ガツッ!
アタシの左目から鼻にかけて衝撃が走る。
「……づっ」
思い切り顔面を殴られた。
痛みに顔を抑え、思わず体を折る。殴られた場所が熱い。
「ちょ、ちょっと、なぐるのは」
カズミちゃんがそういって止めようとするが、それもミキちゃんが止める。
「いいって。このくらいやんないと、調子に乗ったまんまだよ、こいつ」
「なぐるのはダメだったかあ。じゃあさあ」
そういったヒロコちゃんは、アタシの顔を起こす。
「こっちならいいよね」
バシッ!
右の頬に熱い衝撃が走る。
「ぐっ……、な……」
今度は平手ではたかれた……ぽい。
よく見えない。
顔を抑えるが、痛みと熱さで反射的に涙が出てくる。鼻水も。
「うわ、泣いてるよ、こいつ」
「きたなっ」
「これにこりたらさあ……」
……何言ってんだこいつら。
「ふぐっ……ぐっ……」
正直、なぜ殴られているのかもアタシはよくわかっていなかった。
……えーと、アタシの練習場所が気に食わなくて……じゃなくて。
衝撃でまとまらない、アタシの思考を遮ったのは。
「ちょっと!!! あんたら、なにやってんの!!!」
ユミちゃんの大声だった。
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