表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

48/134

第33話/99話 「崩れる 普通」

 〇

 

 潜る。

 前に進む。

 そのまま少し慣性(かんせい)で進むに任せる。

 キイン、キイン、キインと耳鳴りがしてくる。

 まだ早い。

 腕で水を掻いて進む。

 脚も蹴る。何度も蹴る。

 高かった耳鳴りが、ゴウン、ゴウンと重い音に変わる。

 もう少し。

 苦しい。肺の空気を吐き出す。胸がしぼむのがわかる。

 重かった音が、ガン、ガン、ガンと体全体を殴りつけてくるような感覚に変わる。音ではなく感覚に。

 必死で水を()いて浮上する。

 クリアになる視界と充満(じゅうまん)する酸素。

 水は、体の感覚に集中できる。

 何も考えなくて良い。

 水泳は好きだ。


 〇

    2月9日(水)

「ほら、早く答えを書いてください、あなたには簡単でしょう?」

 

 静かな教室。

 長尾先生の冷たい声が響く。

 子供らは誰も何も言わない。

 

「あなたも、もうすぐ高学年でしょう? いつまでも反抗的な態度じゃ困りますからね。立たせても答えないあなたのために、今日は黒板に答えを書くだけのものにしました。私からの気遣(きづか)いですから、先生ありがとうと言ってもいいんですよ。あなたは目上への(うやま)いがいつも足りていませんね」

 

 いつものくだらない授業中。

 アタシは教壇(きょうだん)の上で立たされていた。

 目の前には黒板。背中と後頭部に突き刺さる無数の視線。

 

 年明けからの長尾先生は、以前にもまして、やけにアタシに厳しい。

 何度も廊下に出ているように言われたし、テストの答案がアタシだけ返ってこないこともあった。

 どうせ出来ているから問題ないけれど。

 確かに授業中に指名されて答えないのは問題かもしれないが、最近は私怨(しえん)も混じっている気がする。

 別に授業の邪魔をしているわけではないのだが。

 最近は優等生を見習って、無意味なノートを取る真似事までしているのに。私怨があるとすれば、アタシの何が気に入らないのだろう。

 目つき悪いとは言われるからな……。


 指名され、ふらふらと教壇の上に立つまでは問題なかった。

 チョークを手に持ち、解答を書くだけ。

 教室の弛緩した空気は、別にアタシを急かしたりはしない。

 席に座り、板書を写しているときは分かっていた。

 なんなら、長尾先生が板書でまだ書いていない部分すら、何を書こうとしているのかもわかっていた。

 目の前にある黒い平面に、簡単な答えを書くだけ。

 なんなら今から思考を開始してもわかる程度の簡単な……。


 ……アタシはなにをしているんだっけ。

 チョークをつかんだ手が上に上がらない。

 

初鳥(はつとり)さん? わからないんですか? そんなわけないですよね。いつも先生のこと、なんだと思ってるんですか。今日という今日は……」

 

 長尾先生の声が遠くで聞こえる。

 やけに息が荒い。

 血の気がすべて足元へ行き、体が粘土の中にいるかのように、締め付けられて重い。

 苦しい。

 鼓動(こどう)が聞こえる。アタシの呼吸と鼓動が、耳のすぐそばで聞こえる。

 ……わからない。

 何をするのかわからない。

 どうして、こうなっているのかもわからない。

 立っているのだけはわかる。足があるから。足の裏に床があるから。

 チョークは持っている。なぜ持っているのかはわからない。

 呼吸をしている。荒い。それだけはわかる。

 ……。視界が、狭い。


 ――ドン!

 教壇を踏み鳴らす音が、アタシの固まった体を砕くように響き、アタシは、びくっと体を(ふる)わせる。

 次の瞬間(しゅんかん)、アタシは、狭い視界の左の隅から体当たりしてきた影に抱きつかれ、教壇から突き落とされるように、立ったまま、教室の入り口の方に吹っ飛ばされた。

 

狐塚(きつねづか)さん!?」

 

 長尾先生の声が響く。

 ――あ、これ、ユミちゃんか。

 乱暴は良くない。何をする。普段なら間違いなく抗議の声を上げていただろうけど、さっきまで固まっていた体は、思う様に動いてくれない。

 当然、喉も。

 ユミちゃんは教室のドアを開け、アタシを両腕で廊下へ突き飛ばすと、教室に向かって、――おそらくは先生に向かって――そのまま叫んだ。

 

初鳥(はつとり)さんは、体調が悪いみたいなので、私が、保健室へ連れていきます!」

 

「な……あなた……」

 

「私、学級委員ですから!」

 

 そう叫んだユミちゃんは、教室を抜け出すとドアを締め、ものすごく怖い顔でアタシの方を睨みつけた。

 

「さ、聞いたとおり、いくよ、保健室」


 〇


「ち、ちょっと待って、……待ってってば」

 

「いいからいいから」

 

 ユミちゃんは、アタシに後ろから覆いかぶさるようにして、どんどん先へ進ませる。

 アタシは別に保健室へなど行きたくないので、その場にとどまろうとするが、ユミちゃんの背はアタシより高いし、力はアタシより強い。

 そのまま廊下を、階段をどんどんアタシは進まされていく。

 くそう、最近は体力をつけようと、色々鍛えているのに……。

 いや、悔しがっている場合では……そうではなく。

 

「待ってって!」

 

 階段の踊り場で、ユミちゃんが少し力を弱めたので、ようやくアタシは振りほどく。

 

「ぜっ……ぜえ……はぁ……、保健室とか、アタシ、用無いから。少し体動かなくなっただけだから。もう平気だし、戻ろ」

 

「はぁ? 白い顔して、息切らして、何言ってんの。いいからちゃんと休んで」

 

 ユミちゃんはなおもアタシを押していこうとする。

 階段は危ないからやめて欲しい。

 

「……いや、戻らないと、みんなに変な目で見られるでしょ。アイツ、元気なのに何サボってるんだって。病気でもないし。だからさ、大丈夫だから……、ぜっ……ぜっ」

 

 ……あ、まあ確かに息は切れてるか。

 教室に戻り、座っていれば問題ないと思う。

 ぐいぐいと押されながら、アタシは戻ろうと抵抗する。

 

「病気でしょ」

 

 ユミちゃんはアタシを押しながら、低いトーンで言う。

 

「……あんたは病気だよ」

 

「病気じゃない。アタシは病気なんかじゃない。意味くらいわかるよ。精神病(せいしんびょう)とか言いたいんでしょ。……(しょう)がい者みたいに、頭おかしいやつみたいに言わないで。ゼぇ……ゼヒ……、……そんなのないから。みんな、そういうんだ。ママも、みんなも、ユミちゃんも……ハッ……ハッ…」

 

 息が乱れる。

 『おかしいって、みんな、そう言ってるからさ』とアキの言葉を思い出す。

 それでも、アタシは違う。

 

「わかったから、それでも今日は休もう?」

 

「うるさい、病人扱いするな! アタシは普通だって! びょ……、ぐっ、ふっ、ふうっ。ふうううぅぅうぅ……はぁ」

 

 幼い子に言い聞かせるみたいに、なだめるユミちゃんの態度に、イラっときて、つい言葉が乱れる。

 一瞬、興奮して血がのぼった頭。

 すんでのところでアタシは我に返り、思わず言いかけた言葉を飲み込む。

 呑み込んだ言葉は『病院にだって、行ったんだから……』。


 ……本当に、心の底から苦痛だった。

 無意味な時間で、屈辱(くつじょく)だった。

 アタシは、自分のフルートレッスンを許してもらったし、ワガママばかりでは、先生を探してくれたパパやママに悪いと思った。

 よって、渋々ながら冬休み中、母と一緒に小児科、紹介された精神科を訪れたのである。

 

 無意味に長い、アタシを幼児か知恵遅れの何かと思っているような、あまったるい、気持ち悪い言葉での問診。知能テストと称した、幼稚園児でも解けるような国語や算数の問題、間違い探しのような謎のテスト。いくつも受けさせられた、アタシに年齢相応の10歳の知能があると思っていないようなそれ。アタシのちっぽけな自尊心を、ゴリゴリと削るための時間と言って間違いなかった。

 出てきた結論は『どこもおかしくありませんよ』。思春期(ししゅんき)には良くあることですよ。

 冗談じゃない。体が固まることがよくあってたまるか。……自分がおかしいのは、そう思ったとき、言語化したときに自覚した。

 診断されて、即、養護(ようご)学校やらへ行かせられなくて済んだと、ホッとはしたけれども。

 

 話はそれるが、発達障害(はったつしょうがい)という言葉が、地方都市で一般的になる前の話である。精神科も精神科でひとくくりの時代である。……ずっと未来の診断なら、何かは見つかったかもしれない。

 なお、アタシはこの時点でも一時的、精神的な心の病と知的障害の区別はついていない。小学生なんてそんなもんだ。

 

 閑話休題(かんわきゅうだい)

 

「え……? ……よ、よくわかんないけど、病気じゃないなら、それでもいいから。大人しくついてきて」

 

「……だから、大丈夫だって。アタシは何もないんだってば。病気とか、ちがう……ちがうぅ……」

 

 思わず口を滑らせそうになって、それを回避したことで、少しだけ落ち着いた頭。

 冷静に話をすれば、ユミちゃんもわかってくれるし、きっと……。

 

「大丈夫じゃない。……シオリはずっと大丈夫じゃない。あんたはずっとおかしいよ。お願いだから言うこと聞いて。後で怒ってくれてもいいから、私の言うとおりにして。……今日は戻らず、休んで。先生たちには私が話すから……」

 

 なんだか泣きそうな顔をしながら、心底アタシを心配していそうなユミちゃんの剣幕(けんまく)に押され、アタシは従わざるを得なくなった。

 

「……わかったよ。……少し休んだら戻るからね」

  

 〇


 コンコン。ガラッ

 

「4年3組の狐塚(きつねづか)です。クラスメイトの初鳥(はつとり)さんが調子悪そうなので、連れてきました」

 

「……つれられました」

 

「はいはい。4年生? 最近の4年生、ここでサボろうとする子が多くて、……あなたたちは違うわよね……って、あら、……これはどう見てもダメね」

 

 ユミちゃんに肩を抱かれるようにして、保健室へ入ったアタシを、椅子に座った先生が見る。

 立ち上がり、そのまま寄ってくると、ユミちゃんから受け取るように、アタシの肩と額にそっと手をやり、こう言った。

 

「……ちょっとこの顔色はないわ。熱はなさそうだけど。少し寝ていきなさい。あなたは教室へ戻って」

 

 いや、待って。

 アタシ保健室なんてほとんど来ないから、アタシの普段の顔色なんて、この保険医(ほけんい)の先生知らないでしょ。

 ……それでもわかる程度に悪い顔色をしているのだろうか?

 

「わかりました。よろしくお願いします」

 

 ガラガラ……パン。

 アタシの背後で扉が閉まる音がする。

 ユミちゃんが出て行った。なんだか少しほっとする。まったく、おせっかいというか……。ふぅ。

 

 ……と、アタシの体の中を、気持ち悪い塊がせりあがってくる。

 

「うぶっ! ……おえっ……おえええええええええええ……げえええ……」

 

 膝から床に落ち、うずくまって、反射で口を抑えるが、それだけでは到底(とうてい)間に合わない。

 すっぱくて、焼けつくような痛みとともに、()しゃ物がアタシの口から、指の隙間から、鼻の穴からあふれ出す。

 吐いた。

 保険医の先生が、咄嗟(とっさ)に、近くのゴミ箱をアタシの目の前に持ってきたのが、視界の隅でわかる。最初にこぼれた幾ばくかを除き、それに向かって、げえげえ、と吐き続ける。

 痛みと不快感で涙がこぼれる。

 痛い。苦しい。意味が分からない。

 ユミちゃんが出て行ったことで、張りつめていた気持ちが、一瞬抜けたのが良くなかったのかもしれない。

 

「抑えないで。全部吐きなさい」

 

 先生が優しい声でそんなことを言っている。

 

「えぅっ……げぇっ、げっ、えっ……、……えろろろろ……」

 

 臭い。痛い。べちゃべちゃで汚い。熱い。痛い。

 アタシの体はとっくに何かダメになっているのかもしれない。

 

「げほっ、げほっ……がっ、ごほっ……」

 

 背中を先生にさすられ、アタシはようやく吐ききった。

 

「大丈夫? ちょっと楽になった?」

 

 先生が、タオルでアタシの口と服と腕、手を拭いている。それはわかる。

 

「…………ごめんなさい。………今、()きます。きれいにします……」

 

 床にも、アタシのまき散らした、ぬるぬるした吐しゃ物が落ちている。

 ……保健室の洗面台にタオルがかかっているのが見える。

 あ……。

 それを取ろうとしたところで、先生に、文字通り首根っこをつかんで止められた。

 

「いいから、あなたはこっち。休みなさい」

 

「……大丈夫です……」

 

「駄目です!」

 

 ……怒られた。

 (うなが)されるままに誘導され、眼鏡を奪われ、汚れたトレーナーを脱がされ、ベッドに横にされる。ついでにベルトまで持っていかれた。

「掃除はしておくから、寝ていなさい」

 そんなことを言われる。

 ゲロった後なので、(のど)と、吐しゃ物が通過した鼻の奥がまだ焼けるように痛い。

 ……困ったな。今日レッスンなのに。

 フルート奏者(そうしゃ)に、喉は指と並んで生命線である。

 

 のどが、いたくちゃ、フルートが……。

 

 そのまま、アタシの意識は、どろんと落ちた。


 〇


 第33話/99話 「崩れる 普通」 終

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ