第33話/99話 「崩れる 普通」
〇
潜る。
前に進む。
そのまま少し慣性で進むに任せる。
キイン、キイン、キインと耳鳴りがしてくる。
まだ早い。
腕で水を掻いて進む。
脚も蹴る。何度も蹴る。
高かった耳鳴りが、ゴウン、ゴウンと重い音に変わる。
もう少し。
苦しい。肺の空気を吐き出す。胸がしぼむのがわかる。
重かった音が、ガン、ガン、ガンと体全体を殴りつけてくるような感覚に変わる。音ではなく感覚に。
必死で水を掻いて浮上する。
クリアになる視界と充満する酸素。
水は、体の感覚に集中できる。
何も考えなくて良い。
水泳は好きだ。
〇
2月9日(水)
「ほら、早く答えを書いてください、あなたには簡単でしょう?」
静かな教室。
長尾先生の冷たい声が響く。
子供らは誰も何も言わない。
「あなたも、もうすぐ高学年でしょう? いつまでも反抗的な態度じゃ困りますからね。立たせても答えないあなたのために、今日は黒板に答えを書くだけのものにしました。私からの気遣いですから、先生ありがとうと言ってもいいんですよ。あなたは目上への敬いがいつも足りていませんね」
いつものくだらない授業中。
アタシは教壇の上で立たされていた。
目の前には黒板。背中と後頭部に突き刺さる無数の視線。
年明けからの長尾先生は、以前にもまして、やけにアタシに厳しい。
何度も廊下に出ているように言われたし、テストの答案がアタシだけ返ってこないこともあった。
どうせ出来ているから問題ないけれど。
確かに授業中に指名されて答えないのは問題かもしれないが、最近は私怨も混じっている気がする。
別に授業の邪魔をしているわけではないのだが。
最近は優等生を見習って、無意味なノートを取る真似事までしているのに。私怨があるとすれば、アタシの何が気に入らないのだろう。
目つき悪いとは言われるからな……。
指名され、ふらふらと教壇の上に立つまでは問題なかった。
チョークを手に持ち、解答を書くだけ。
教室の弛緩した空気は、別にアタシを急かしたりはしない。
席に座り、板書を写しているときは分かっていた。
なんなら、長尾先生が板書でまだ書いていない部分すら、何を書こうとしているのかもわかっていた。
目の前にある黒い平面に、簡単な答えを書くだけ。
なんなら今から思考を開始してもわかる程度の簡単な……。
……アタシはなにをしているんだっけ。
チョークをつかんだ手が上に上がらない。
「初鳥さん? わからないんですか? そんなわけないですよね。いつも先生のこと、なんだと思ってるんですか。今日という今日は……」
長尾先生の声が遠くで聞こえる。
やけに息が荒い。
血の気がすべて足元へ行き、体が粘土の中にいるかのように、締め付けられて重い。
苦しい。
鼓動が聞こえる。アタシの呼吸と鼓動が、耳のすぐそばで聞こえる。
……わからない。
何をするのかわからない。
どうして、こうなっているのかもわからない。
立っているのだけはわかる。足があるから。足の裏に床があるから。
チョークは持っている。なぜ持っているのかはわからない。
呼吸をしている。荒い。それだけはわかる。
……。視界が、狭い。
――ドン!
教壇を踏み鳴らす音が、アタシの固まった体を砕くように響き、アタシは、びくっと体を震わせる。
次の瞬間、アタシは、狭い視界の左の隅から体当たりしてきた影に抱きつかれ、教壇から突き落とされるように、立ったまま、教室の入り口の方に吹っ飛ばされた。
「狐塚さん!?」
長尾先生の声が響く。
――あ、これ、ユミちゃんか。
乱暴は良くない。何をする。普段なら間違いなく抗議の声を上げていただろうけど、さっきまで固まっていた体は、思う様に動いてくれない。
当然、喉も。
ユミちゃんは教室のドアを開け、アタシを両腕で廊下へ突き飛ばすと、教室に向かって、――おそらくは先生に向かって――そのまま叫んだ。
「初鳥さんは、体調が悪いみたいなので、私が、保健室へ連れていきます!」
「な……あなた……」
「私、学級委員ですから!」
そう叫んだユミちゃんは、教室を抜け出すとドアを締め、ものすごく怖い顔でアタシの方を睨みつけた。
「さ、聞いたとおり、いくよ、保健室」
〇
「ち、ちょっと待って、……待ってってば」
「いいからいいから」
ユミちゃんは、アタシに後ろから覆いかぶさるようにして、どんどん先へ進ませる。
アタシは別に保健室へなど行きたくないので、その場にとどまろうとするが、ユミちゃんの背はアタシより高いし、力はアタシより強い。
そのまま廊下を、階段をどんどんアタシは進まされていく。
くそう、最近は体力をつけようと、色々鍛えているのに……。
いや、悔しがっている場合では……そうではなく。
「待ってって!」
階段の踊り場で、ユミちゃんが少し力を弱めたので、ようやくアタシは振りほどく。
「ぜっ……ぜえ……はぁ……、保健室とか、アタシ、用無いから。少し体動かなくなっただけだから。もう平気だし、戻ろ」
「はぁ? 白い顔して、息切らして、何言ってんの。いいからちゃんと休んで」
ユミちゃんはなおもアタシを押していこうとする。
階段は危ないからやめて欲しい。
「……いや、戻らないと、みんなに変な目で見られるでしょ。アイツ、元気なのに何サボってるんだって。病気でもないし。だからさ、大丈夫だから……、ぜっ……ぜっ」
……あ、まあ確かに息は切れてるか。
教室に戻り、座っていれば問題ないと思う。
ぐいぐいと押されながら、アタシは戻ろうと抵抗する。
「病気でしょ」
ユミちゃんはアタシを押しながら、低いトーンで言う。
「……あんたは病気だよ」
「病気じゃない。アタシは病気なんかじゃない。意味くらいわかるよ。精神病とか言いたいんでしょ。……障がい者みたいに、頭おかしいやつみたいに言わないで。ゼぇ……ゼヒ……、……そんなのないから。みんな、そういうんだ。ママも、みんなも、ユミちゃんも……ハッ……ハッ…」
息が乱れる。
『おかしいって、みんな、そう言ってるからさ』とアキの言葉を思い出す。
それでも、アタシは違う。
「わかったから、それでも今日は休もう?」
「うるさい、病人扱いするな! アタシは普通だって! びょ……、ぐっ、ふっ、ふうっ。ふうううぅぅうぅ……はぁ」
幼い子に言い聞かせるみたいに、なだめるユミちゃんの態度に、イラっときて、つい言葉が乱れる。
一瞬、興奮して血がのぼった頭。
すんでのところでアタシは我に返り、思わず言いかけた言葉を飲み込む。
呑み込んだ言葉は『病院にだって、行ったんだから……』。
……本当に、心の底から苦痛だった。
無意味な時間で、屈辱だった。
アタシは、自分のフルートレッスンを許してもらったし、ワガママばかりでは、先生を探してくれたパパやママに悪いと思った。
よって、渋々ながら冬休み中、母と一緒に小児科、紹介された精神科を訪れたのである。
無意味に長い、アタシを幼児か知恵遅れの何かと思っているような、あまったるい、気持ち悪い言葉での問診。知能テストと称した、幼稚園児でも解けるような国語や算数の問題、間違い探しのような謎のテスト。いくつも受けさせられた、アタシに年齢相応の10歳の知能があると思っていないようなそれ。アタシのちっぽけな自尊心を、ゴリゴリと削るための時間と言って間違いなかった。
出てきた結論は『どこもおかしくありませんよ』。思春期には良くあることですよ。
冗談じゃない。体が固まることがよくあってたまるか。……自分がおかしいのは、そう思ったとき、言語化したときに自覚した。
診断されて、即、養護学校やらへ行かせられなくて済んだと、ホッとはしたけれども。
話はそれるが、発達障害という言葉が、地方都市で一般的になる前の話である。精神科も精神科でひとくくりの時代である。……ずっと未来の診断なら、何かは見つかったかもしれない。
なお、アタシはこの時点でも一時的、精神的な心の病と知的障害の区別はついていない。小学生なんてそんなもんだ。
閑話休題。
「え……? ……よ、よくわかんないけど、病気じゃないなら、それでもいいから。大人しくついてきて」
「……だから、大丈夫だって。アタシは何もないんだってば。病気とか、ちがう……ちがうぅ……」
思わず口を滑らせそうになって、それを回避したことで、少しだけ落ち着いた頭。
冷静に話をすれば、ユミちゃんもわかってくれるし、きっと……。
「大丈夫じゃない。……シオリはずっと大丈夫じゃない。あんたはずっとおかしいよ。お願いだから言うこと聞いて。後で怒ってくれてもいいから、私の言うとおりにして。……今日は戻らず、休んで。先生たちには私が話すから……」
なんだか泣きそうな顔をしながら、心底アタシを心配していそうなユミちゃんの剣幕に押され、アタシは従わざるを得なくなった。
「……わかったよ。……少し休んだら戻るからね」
〇
コンコン。ガラッ
「4年3組の狐塚です。クラスメイトの初鳥さんが調子悪そうなので、連れてきました」
「……つれられました」
「はいはい。4年生? 最近の4年生、ここでサボろうとする子が多くて、……あなたたちは違うわよね……って、あら、……これはどう見てもダメね」
ユミちゃんに肩を抱かれるようにして、保健室へ入ったアタシを、椅子に座った先生が見る。
立ち上がり、そのまま寄ってくると、ユミちゃんから受け取るように、アタシの肩と額にそっと手をやり、こう言った。
「……ちょっとこの顔色はないわ。熱はなさそうだけど。少し寝ていきなさい。あなたは教室へ戻って」
いや、待って。
アタシ保健室なんてほとんど来ないから、アタシの普段の顔色なんて、この保険医の先生知らないでしょ。
……それでもわかる程度に悪い顔色をしているのだろうか?
「わかりました。よろしくお願いします」
ガラガラ……パン。
アタシの背後で扉が閉まる音がする。
ユミちゃんが出て行った。なんだか少しほっとする。まったく、おせっかいというか……。ふぅ。
……と、アタシの体の中を、気持ち悪い塊がせりあがってくる。
「うぶっ! ……おえっ……おえええええええええええ……げえええ……」
膝から床に落ち、うずくまって、反射で口を抑えるが、それだけでは到底間に合わない。
すっぱくて、焼けつくような痛みとともに、吐しゃ物がアタシの口から、指の隙間から、鼻の穴からあふれ出す。
吐いた。
保険医の先生が、咄嗟に、近くのゴミ箱をアタシの目の前に持ってきたのが、視界の隅でわかる。最初にこぼれた幾ばくかを除き、それに向かって、げえげえ、と吐き続ける。
痛みと不快感で涙がこぼれる。
痛い。苦しい。意味が分からない。
ユミちゃんが出て行ったことで、張りつめていた気持ちが、一瞬抜けたのが良くなかったのかもしれない。
「抑えないで。全部吐きなさい」
先生が優しい声でそんなことを言っている。
「えぅっ……げぇっ、げっ、えっ……、……えろろろろ……」
臭い。痛い。べちゃべちゃで汚い。熱い。痛い。
アタシの体はとっくに何かダメになっているのかもしれない。
「げほっ、げほっ……がっ、ごほっ……」
背中を先生にさすられ、アタシはようやく吐ききった。
「大丈夫? ちょっと楽になった?」
先生が、タオルでアタシの口と服と腕、手を拭いている。それはわかる。
「…………ごめんなさい。………今、拭きます。きれいにします……」
床にも、アタシのまき散らした、ぬるぬるした吐しゃ物が落ちている。
……保健室の洗面台にタオルがかかっているのが見える。
あ……。
それを取ろうとしたところで、先生に、文字通り首根っこをつかんで止められた。
「いいから、あなたはこっち。休みなさい」
「……大丈夫です……」
「駄目です!」
……怒られた。
促されるままに誘導され、眼鏡を奪われ、汚れたトレーナーを脱がされ、ベッドに横にされる。ついでにベルトまで持っていかれた。
「掃除はしておくから、寝ていなさい」
そんなことを言われる。
ゲロった後なので、喉と、吐しゃ物が通過した鼻の奥がまだ焼けるように痛い。
……困ったな。今日レッスンなのに。
フルート奏者に、喉は指と並んで生命線である。
のどが、いたくちゃ、フルートが……。
そのまま、アタシの意識は、どろんと落ちた。
〇
第33話/99話 「崩れる 普通」 終




