第27話/99話 「師弟 その誓い」①
〇
「お疲れさまでした。お友達が勝てて良かったですね。会ってるところ、見てましたよ。お花を持ってきたときは、ちょっとどうかな、と思いましたけれど、お祝いになって幸いでした」
会場からの帰りの車。
雪はずっと降り続いているけれども、マユコ先生の車は馬鹿みたいに暖房が効くので平気だ。
マユコ先生が話しかけてくる。
その言葉遣いはすっかりいつもの丁寧な口調に戻っていた。
「アキの演奏、すごかったです。他の人と比べると、改めて上手いってわかるものなんですね。……先生、アキの先生も見ました?」
「ああ。そばにいた女、クライシーヴァでしょう。一目でわかりました。久々に見ましたよ」
え。アタシは少し驚いた。
「でも名前、リーニャ先生って言ってましたよ。……知り合いなんですか?」
「一方的に知ってるだけです。リーニャはクライシーヴァの愛称でしょうね。昔、雑誌で何度も見ました。一部では、の注釈付きですけど、結構な有名人ですよ、あの人」
「へぇ……」
「クライシーヴァ=オブラコワ。レニングラード生まれ。幼い頃にスカウトされ、音楽アカデミーを出て、14歳でモスクワフィルの首席奏者。天才少女として、あたしたちの世代で楽器やってて知らない人なんかいませんよ。ソ連が崩壊した後見ていなくて、どうしたのかと思ってましたけど、日本にいたんですね」
先生は饒舌にすらすらと語る。
生い立ちまで知ってるんだ。よほどの有名人なんだな。
「きれいな人でした。アキが音楽の神様みたいなって言ってたのがわかる気がします」
「あたしは、野生のシベリア狼を連想しました。美人でしたね。共産圏の広告塔みたいな女ですから当然ですけど。……チッ」
先生は言葉の後に舌打ちを足した。あまり機嫌がよくないみたいだ。
アタシもなんと話しかけて良いかわからず、少しの間、車内が静かになる。
先生は少し考えて、ため息とともにこう言った。
「……ひと晩ください。今夜のうちに、あなたが、あなたの友達と並べるように、今後のことを考えます。……明日はレッスンがありませんが、学校が終わったらあたしの家に来られますか?」
「明日は委員会が無いので、早く帰れますけど……。……でも、この雪なので、自転車が使えるかわかりません」
街中でも、車の窓ごしに見える歩道は雪で埋まっていた。
アタシの住む桜山団地や、先生の住む散居地区は、山1つ隔てた町側の地区からは「奥座敷」なんて言われる、開発された山の中だ。市の中心部からは10キロメートルも離れていないのに、雪はずっと多い。
「では、あたしが迎えに行きます。家で待っていてください。住所は聞いているので大丈夫です」
「……わかりました」
先生の車は他の車と形が違っていて目立つし、うるさいので、乗るところを他人に見られたら嫌だな、と少しだけ思った。
「今夜、真剣に考えますから、雑音の入らないように、真面目に話しましょう。……クライシーヴァの顔を、目を見ましたか?」
「あ、はい。見ました。きれいな金色でした」
深い金色。ラッカー塗装されたトランペットみたいな色。
「……あれは、自分たちが特別で、他人はすべてモブ。歯牙にもかけない、かける必要はない、そんな目でしたね……。完全に選ばれた人間だと自負している、傲慢そのものの顔です。自分たちの中に、昔のオケ仲間たちやあなたのお友達も含まれるんでしょうけど。目の前にいたあなたや、他の会場にいた奏者もひっくるめて、相手にされていませんよ」
「そうなんですか? ……笑っているけど感情がわからない顔だなあ、とは思いましたけど」
まるで創作ものの魔王や悪役を語るかのように先生は言う。
アタシは、会っただけでは、そこまで分からなかった。
先生のように経験を積めばわかるのかもしれない。
「……二度と、あなたを、あたしの生徒を、……あんな目で見ることはさせません。許せません」
最後の方は、小さく、押し殺した、悔しそうな、決意を込めた声だった。
「でも先生、すごくきれいな目でしたよ」
「……それはそうかもしれませんね」
〇
12月20日(月)
朝の会――地域によってはショートホームルームと言われるそれ――で、アキが文部大臣賞を取ったことが先生から発表されていた。
そのうち全校集会で表彰されるらしい。垂れ幕も作成されるとか。
クラスメイトは、みんな笑顔で祝福していたけれど、誰も妬んだりしないのだろうか。
……まあアキは良い奴だからな。嫌っているやつはいないだろうけど。
それでも。
〇
「一晩考えました。このままだと、早晩あなたは、あなたの友達と並ぶどころか、同じレベルで演奏をする、同じ目線に立つことも出来なくなります」
テーブルに置かれた、2つのペットボトルを前にマユコ先生は切り出した。
マユコ先生の家の応接間のテーブル。
初めて来たときはママと並んで、先生と向かい合ったが、今日は先生は隣に座っている。
「……はい」
昨日のアキの演奏は圧倒的で、先生の言葉は真実であると思われた。
「恐竜からアリは見えません。怪獣はネズミを気にしません。楽器をやるうえで、あなたのような一般人と、あなたのお友達はそのくらいの差があります」
……わかっていたことだ。
先生に何を言っても始まらない。
レッスンを受けるときに、アタシを上達させると言ってくれたのは何だったのか、と思わなくはないが、あれはアキの演奏を先生が聴く前の話だ。
アタシが、正確に目標を伝えられていれば、……一緒に吹きたい、並び立ちたいトランぺッターが、どれほど上手いのか、知識があって説明できていれば、……先生は軽々しくそんなことを言わなかっただろう。
文句は言えない。
「……わかりました。引き続きご指導よろしくお願いします」
失意とともに、先生に返す。
仕方がない。それでもフルートは続けよう。家計にダメージは引き続き入るが、少しだけ楽しくなってきたところだ。
が、先生はちょっと待ったというように、身を乗り出して話を続けた。
「何を言っているんですか。話は終わっていません。最後まで聞いてください。残念ながら、フルートに必殺技はありません。上達の近道もありません。ですが、練習の質を上げることも、時間を増やすこともできます」
「はあ……」
多少の質をあげたりしたところで、そこまで劇的に変わるものだろうか。
アタシにはそうは思えなかった。
「まず、1つ。真剣にフルートに打ち込む前に、1つ注文があります」
「……なんでしょうか?」
「頭を使うのをやめてください」
「え……」
バカになれと。
「この3ヶ月、レッスンをしていてわかります。あなたがいつも、一生懸命考えていることは伝わってきます。余計な事を言わないように、それと、何かをあきらめる際、仕方のないことだと理屈付けるために。この練習の意味は何かと考える癖も。動きがほんのわずかに遅れます。レッスン中も、どうしても考えすぎてあと一歩集中できていません……いえ、そうではないですね。集中は出来ています。小学生でも、こんなに一生懸命楽器がやれるんだと、あたしは少し感動すらしました。ですが……没頭とか一心不乱とか、そういった表現の段階に達していません」
「……はい」
先生の言っていることは事実だ。あたしは、感情に流されて間違いをやらかすし、その場の空気にそぐわない、突拍子もないことを言いだしてしまう癖がある。
幼い頃はよく失敗をした。
それは幼さゆえの行動や、未熟さの発現であったかもしれないが、アタシはそれを恥ずかしいと思う感性がずっとあったし、間違いはなるべく避けたいと思っている。
ママに先日言われたように、会話でずれた答えを返してしまうのも、関係はしているのかもしれない。
失敗しないように、何かをする前に、ほんの少し考える癖はアタシの数少ない長所だと思っている。
……それを捨てろと。
「育ちのせいですか? 生まれつきですか? わかりませんけれども、抑圧された、鬱屈した、あなたが普段我慢してると感じる自分を、全部解き放ってください。あたしの前で恰好つける必要はありません。練習の意味も知らなくていいです。フルートの上達には頭を使う必要がありますが、あなたはその段階に達していません」
……正直、あたしの育ちは良くない。
『全楽』の予選会場も、本選会場も、着ている物や手に持ったバッグやコートも、あたしより正直、金のにおいのするやつばかりだった。
……楽器をやっている子供で、あたしの生まれた家より金の無いやつは、……1人しか見たことがない。
生まれもった光る物もおそらくない。勉強はしているから出来るが、頭は悪くて機転も効かないし、運動神経も悪い。器用ではないから、楽器だって本当は向いてないだろう。
「……アタシは、どうすればいいですか」
瞬間、改めて自分と向き合い、少し悲しくなりながらアタシは尋ねる。長所も捨て、短所しか残らないアタシに、何ができるだろう。
「レッスン中、体裁を全部取り払って、本音で話してください。隠しごとは無し。飾るのも無し。本当のあなたを見せてください。あなたの本質を見せてください。それだけで質は上がります。あたしもそうします」
「先生も?」
「はい。一生懸命、あたしの知っている『立派な音楽の先生』をやってきました。音楽教室とはそういうものだと。ですが、むき出しのあなたに本音で話させる以上、あたしも本音で、包み隠さず話します。飾らない以上、言葉遣いも汚くなると思います。それでも、あなたを絶対上達させてみせます」
『上達させる』。その言葉を聞くのは2度目だったが、最初よりも力強く感じられた。
「わかりました。レッスンの時は頭を使うのをやめます」
他に方法は無いのだ。とりあえず、……とりあえずだ。
先生の言葉を信じることにした。
「オーケー。じゃああたしも、それでいくわ。約束したし、礼儀だしね」
突然、フランクな言葉遣いになる先生に、アタシはドキッとする。
少しの、迷いと、照れも感じる。
昨日、アキの演奏を聴いた後のようだ。おそらくこっちが普段の姿なのだろう。
「でも先生、アタシ頭を使わないと、本当に空気の読めない、突拍子もないこと言い出しちゃうかもしれませんよ」
「あたしがそうしろって言ってるんだから、それでいいわよ」
「レッスン中に、『みかんが食べたい』とか言い出すかもしれませんよ」
「別にいいわよ。『パンナコッタが食べたい』とか言っても怒らないわ」
「あ~……、サイダーが飲みたいなあ……な~~んて、いてっ」
頭に軽くげんこつが飛んできた。
「真面目に話してんのよ。飲み物の話は後にしなさい。……いや、ごめん。嘘ついたわ。あたしは結構、感情的になりやすい方だし、真剣に指導してるときに、あんたが『ティラミス食べたい』とか突然言い出したら、叱りつけるし、ぶっ飛ばすと思う。それでも絶対、あんたを見捨てないから。怒った後で必ずケアするし、フォローするから。あんたをそういう奴だと思って接するから。好きなだけあたしに怒られなさい」
「……怒られたくないんですけど」
誰だって、心にダメージを受けたくない。
アタシもそうだ。傷つきたくない。
「駄目よ。怒られなさい。言っておくけど、指導じゃないから。あたしが反射的にそうしてしまうだけだから。直せなんて言わない。直すために考える、その一瞬が無駄だから。むき出しのあんたでフルートに取り組んで。技術以外は全部、今のあんたのままでいい。あたしのいうことも、フルートの話以外全部無視していい。上手くいく。どうせ他人の言葉で、人は変わらない。……何かの結果として変わったなら、別にそれでもいいけど」
「……わかりました」
「頭使わない手始めに、そうね。昔、あたしが、あたしの先生に言われたようにやりましょうか。『音楽の師とは神様、生徒は虫けら以下』。あたしのいうことには絶対服従。音楽を真剣にやるのはそういうことよ。あたしのことは今から神様と呼びなさい」
「はい、神様」
「あんたの呼び方も決めましょうか。むしけら、便所虫、ぞうりむし、クソムシ、ありんこ、ミジンコ、ウンコバエ、どれがいい?」
「……その中なら、クソムシでいいです。神様」
「どういうセンスよ、てか、神様って呼ばれんの、こそばゆいから、もうやめたいわ」
「自分から言い出したんじゃないですか」
……ずいぶんと勝手な神様だ。
「やらせてみたら、神様は恥ずかしかったわね。……師匠とでも呼んでもらおうかしら」
「はい。師匠」
神様は恥ずかしいのか。師匠の方は恥ずかしくないのか。この人の感性はよくわからない。アタシが呼ばれるとしたらどっちも恥ずかしい。
てか、あたしの虫けらとかクソムシ呼ばわりの方はどうなったんだろう。
ぐ、と。
疑問をよそに、師匠はアタシの肩を抱き寄せる。
花みたいな香水のいいにおいがする。
「頭を使わないウォーミングアップは終わり。大事な質問をしましょうか」
「ん」
師匠はささやくようにアタシに言う。
耳元で聞こえる声が色っぽくて少しドキドキする。
〇




