第68話/99話 「崩れる 大きな」②
〇
と。
ふう、と。ため息をつき、アキが立ち上がる。
「まったく。仕方ないな。そんなに期待されちゃ。でもシオリ、元気出してよ。リーダーがそんなんじゃ、新入部員もこないよ」
「誰がリーダーだ。リーダーはアンタだ」
「いやいや」
軽口をたたくうち、少し元気になってくる。
と、アタシは思いつく。
「そうだね、元気になりたい。アンタのソロを聴かせてよ。久しぶりに」
思えばここのところ、無難な曲の合奏ばかりで、アキのソロをろくに聴いてなかった。アタシも自分の練習で忙しかったから。
大体、アタシの小さな悩みに付き合っているよりも、好きにトランペットを吹いている方がコイツには似合う。
「美雲先輩がすごく上手いのは知ってますけど、合奏とまた、ちがうんですか?」
ヒトミがそんなことを言う。
なんだ、結構いっしょにいるのに、まだ聴いていないのか。
「コイツ、好き勝手吹かせるのが一番すごいよ。……こ、もうなんだろ。ボコボコにしたくなるくらい」
「ちょ、ひどい」
殺したくなるくらい、という本音が思わず口から出かかって、言い直した。
そう、アキは、誰とでも、どんな曲でもあっという間に合わせるが、1人で吹いてる時が当然一番すごい。合わせられるのは余裕の産物なのかもしれない。
ごそごそ。
ちゃ、と。
トランペットを持ったアキは、ポーン、と軽く音を出すと言った。
「ほら、自己満足リーダー。吹くよ、何が良い?」
「誰がリーダーだ。でも、そうだなあ……なんでもいいの?」
「いいよ」
と、言われてアタシは困る。
そもそもアタシは、自分が吹いたことのある曲ですら、そんなに曲名を覚えていない。あんまり興味が無いから。
記憶力は悪くないのだが……。
ああ、そうだ。
アタシは去年のクリスマス会を思い出す。『全日本楽器コンクール』、ジュニアではなく一般の部に出すために、アキにスラブ系をたくさん吹かせていると言っていた、リーニャ先生を。
「スラブ系の曲、吹いてよ。どうせすごい練習してるんでしょ。ハチャトゥリアンとかやってよ」
アキが、ん、という顔をする。
ヒトミは期待をこめた目で見ている。
「あ、少し離れた方が良いよ、本気のコイツ、めっちゃ音通るからね」
そう言って、アキから遠い窓際まで離れるアタシたち。
教室のなるべく対角、端の方へ。
「おっけ~! おねが~い!」
と。
そう呼びかけたアタシに。
いつもの音が返ってくると思っていた。
しかし、アキは、なかなか吹こうとしない。
何度か、呼吸のために胸が動く。
じらしているのかな、と少し思った。
でも、おかしい。そんなアキは見たことが無い。
いつも、つい、と無造作にすら見える自然な動きで、構えたトランペットの、そのベルから即座に音を出すのがアキのはず。
「どうしたの? ……なんだ、無理してるのはアタシじゃなくて、アンタだったか」
そう言って、アタシはヒトミから離れ、アキの方へ行く。
ほとんど本音。少しは心配。
お互い余裕ないよな、と。こないだケンカもしたばっかりだし、などと思う。
近づき、止めてやろうとした。
――と。
ぶるぶる震えたアキが、ラッパを手からこぼれさせ――、金色のそれが落下する。
「ちょっ!」
アタシは反射的に、頭から、手から、それに飛びつき――なんとか床へ着く前に、それを受け止めた。
当然倒れるような体勢になっている。
毎日走っていて良かった。
「あっぶな! なにやってんの」
顔を上げたアタシの目に見えたのは。
「……うっ。うえっ……げほっ、おええええ」
鳥肌の立った青い顔で、吐しゃ物をまき散らしながら、アタシの方に倒れるアキだった。
アタシはそのまま床とアキに挟まれる格好になる。
「ちょっと、アキ、大丈夫? どうなってんの?」
トランペットもあり、アキの体も絡まって、上手く体勢が立て直せない。
「ごほっ……おえっおええええ」
その間に、アタシたちの体は、吐しゃ物にまみれて、床に落ちたゲロで、ずるずる滑る。
「ヒトミ!」
アタシは呼びかける。大声で。
「ヒトミ! 先生呼んできて! 誰でもいいから」
「は、はい」
そういったヒトミが、アタシたちの脇を抜けて、入口へ――廊下を走るのが見える。
……なんでこんなことになってしまったんだろう。
考え、葛藤し、嘆くアタシの上で、アキは苦しみ続けていた。
〇
「ヒトミ、誰かに見られた? 先生じゃなくて」
「いえ、誰にも。どうしてですか?」
保健室の前。
学校指定の体操服に着替えたアタシと、ヒトミ。
助けに来てくれた先生たちの判断は、迅速だった。
アキを保健室へ運び、アタシに怪我が無いのを確認して、着替えるように指示を。
髪や顔にもゲロがついていたので、ばしゃばしゃ洗った。
かなり臭かったので、もらいゲロしたかもしれない。
服は先生たちがくれたビニール袋に入れてある。
掃除も先生たちがやってくれるから、ここはいいと言われて、アタシたちは保健室の前にいる。
「いや、黙っておいてね」
正直、他のクラブのない日で良かった。
子供が学校に残っている日だったら、見られていたかもしれない。
「そりゃ、言いませんけど。わざわざ言わなくても」
「……アタシ、去年、ゲロ女って呼ばれててさ」
「う」
「結構、しんどいんだよね、アレ」
まあ、アキの人望ならアタシとは違うかもしれないけど一応。
ヒトミは、ほう、とため息をつくと言った。
「初鳥先輩は、ゲロまみれになって、美雲先輩の下敷きになった後でも『汚い』とか言わずに、そっちの心配をするんですねぇ……」
「ん、そりゃ、汚いよ? でも洗ったし。……そっちの心配って何?」
「他人の立ち位置とか、社会性とか人間関係? 体の心配とかでもなく」
「そりゃあ、心配でしょ。毎日来る学校で、悪口とか他人の悪意にさらされてみ。……キツいって。体のことはなんともならないし、わからないけどさ。アイツをアタシたちが守れるのは、それくらいでしょ」
ヒトミは、アタシを責めるような口調ではない。
なんというか、……自分と違うものを見る目をしている。
と。
ふ、と、鼻から息を吐き、ヒトミは微笑んで、言った。
「わかりました。大丈夫ですよ、私、友達いないんで」
……ここで自虐ネタ使えるの、案外強いな、コイツ。
〇
第68話/99話 「崩れる 大きな」 終




