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 小さな頃から大事に貯めていたお金を、机の引き出しから取り出す。そのすぐそばには束になった手紙があり、雫はそれを手に取ってから、もう一度同じ場所にしまった。

 ぎしぎしと響く古い床を歩き、玄関でサンダルを履く。その時すっと襖が開いて、下着姿の雫の母親が顔を出した。

「ああ、あんたいたの」

 雫は何も答えずに、玄関に脱ぎ捨てられた男物の靴を眺める。

 昨日の夜も、母は男を部屋に連れ込んでいた。薄い壁の向こうから、母親の淫らな声を聞くのは気分の良いものではないけれど、そんな日常に慣れ切ってしまった自分がいる。

 そして、母親とたいして変わらないことをしている自分には、やはり同じ血が流れているのだと、雫はあきらめたように感じていた。

「……お母さん」

 思わずつぶやいた雫の声に、母の名前を呼ぶ男の声が重なる。

「何?」

「……何でもない」

「ヘンな子」

 母の視線が雫から離れる。

 自分に背中を向けて、去って行く母の姿。目の前で襖が閉まった瞬間、雫は心を決めた。

 ――この人が必要としているのは、私じゃない。

 がたついた引き戸を開けて外へ出る。眩しい朝の日差しを受けながら坂道を下ると、海沿いの堤防にもたれて立っている、拓海の姿が見えた。


「拓……」

 雫の声に、拓海が顔を上げる。

「何やってんの? こんな所で」

「……別に」

 ぼそっとつぶやいて、拓海はさりげなく視線をはずす。そんな拓海の向こうに、見慣れた青い海が見える。

 こんな何もない場所で、朝から突っ立っている人間なんて普通いない。きっと拓海は自分のことを、待っていたのだろう。

「どこ……行くんだよ?」

 雫の姿をちらりと見て、拓海が言った。

「こんな朝っぱらから、どこ行くんだよ?」

 お金の入ったバッグを握り締める。蒸し暑い潮風が鬱陶しい。

 雫は拓海に背中を向けて、ぽつりとつぶやいた。

「遼二くんに、聞いた?」

 拓海は何も言わない。

「聞いたんでしょ? 私が……妊娠してること」

 振り返って拓海を見た。拓海は唇を噛みしめるようにしてうつむいている。

「大ちゃんには言わないでよ? 私、あの家族を壊そうとか、思ってないから」

「なんで……」

 ゆっくりと顔を上げて、拓海がつぶやく。

「なんでそうやって、自分一人で抱え込むんだよ?」

 顔を上げた拓海と一瞬目が合う。

「もっと俺のことも頼れよ。バカ!」

 突然、腕をつかまれた。その力が思ったよりも強くて、雫は少し戸惑った。

「……戻ってくるよな?」

 雫の腕をつかんだまま、拓海が言う。

「一人でどこか行ったりしないよな?」

 拓海の声を聞きながら潮の匂いを嗅ぐ。鼻の奥がつんとして、幼い頃の風景がぼんやりと頭に浮かぶ。

 カタカタとランドセルを鳴らして、追いかけっこするようにこの道を走った。

 二人でブランコに乗って、どちらが高くこげるか競争した。

 お互い家に帰りたくなくて、なんとなく並んで座って、茜色に染まる海を眺めた。

 拓海との、そんな甘酸っぱい思い出を壊したくはなかった。

「……拓」

 つぶやきながら、そっとその手を振りほどく。

「私はもう……昔の私じゃないの」

 拓海が自分を見ているのがわかる。

「拓の知ってる私じゃないの」

 大輔とあんなことをしておいて、今さら拓海と歩けるわけない。だったらこのまま、思い出くらいは綺麗なまま……。

 潮の匂いを吸い込み、息をゆっくりと吐き出す。

「だからもうついてこないで。私なんかにかまわないで」

「雫……」

 ぼんやりとした顔つきの拓海に背中を向けた。バッグを握った右手がかすかに震える。

「それでも俺、待ってるから」

 歩き出した足を止め、拓海の声を背中に聞く。

「雫が戻ってくるまで……俺、ここで待ってるから」

 その言葉を胸にしまって目を閉じる。そして振り返らないまま、雫は歩き出す。

 きっと拓海は見ているだろう。これから罪を犯そうとしている自分の背中を……。

 じんわりと熱いものがこみ上げた。だけど振り向いたら決心が鈍りそうで、雫はそのまま駅に向かって歩いた。

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