19
小さな頃から大事に貯めていたお金を、机の引き出しから取り出す。そのすぐそばには束になった手紙があり、雫はそれを手に取ってから、もう一度同じ場所にしまった。
ぎしぎしと響く古い床を歩き、玄関でサンダルを履く。その時すっと襖が開いて、下着姿の雫の母親が顔を出した。
「ああ、あんたいたの」
雫は何も答えずに、玄関に脱ぎ捨てられた男物の靴を眺める。
昨日の夜も、母は男を部屋に連れ込んでいた。薄い壁の向こうから、母親の淫らな声を聞くのは気分の良いものではないけれど、そんな日常に慣れ切ってしまった自分がいる。
そして、母親とたいして変わらないことをしている自分には、やはり同じ血が流れているのだと、雫はあきらめたように感じていた。
「……お母さん」
思わずつぶやいた雫の声に、母の名前を呼ぶ男の声が重なる。
「何?」
「……何でもない」
「ヘンな子」
母の視線が雫から離れる。
自分に背中を向けて、去って行く母の姿。目の前で襖が閉まった瞬間、雫は心を決めた。
――この人が必要としているのは、私じゃない。
がたついた引き戸を開けて外へ出る。眩しい朝の日差しを受けながら坂道を下ると、海沿いの堤防にもたれて立っている、拓海の姿が見えた。
「拓……」
雫の声に、拓海が顔を上げる。
「何やってんの? こんな所で」
「……別に」
ぼそっとつぶやいて、拓海はさりげなく視線をはずす。そんな拓海の向こうに、見慣れた青い海が見える。
こんな何もない場所で、朝から突っ立っている人間なんて普通いない。きっと拓海は自分のことを、待っていたのだろう。
「どこ……行くんだよ?」
雫の姿をちらりと見て、拓海が言った。
「こんな朝っぱらから、どこ行くんだよ?」
お金の入ったバッグを握り締める。蒸し暑い潮風が鬱陶しい。
雫は拓海に背中を向けて、ぽつりとつぶやいた。
「遼二くんに、聞いた?」
拓海は何も言わない。
「聞いたんでしょ? 私が……妊娠してること」
振り返って拓海を見た。拓海は唇を噛みしめるようにしてうつむいている。
「大ちゃんには言わないでよ? 私、あの家族を壊そうとか、思ってないから」
「なんで……」
ゆっくりと顔を上げて、拓海がつぶやく。
「なんでそうやって、自分一人で抱え込むんだよ?」
顔を上げた拓海と一瞬目が合う。
「もっと俺のことも頼れよ。バカ!」
突然、腕をつかまれた。その力が思ったよりも強くて、雫は少し戸惑った。
「……戻ってくるよな?」
雫の腕をつかんだまま、拓海が言う。
「一人でどこか行ったりしないよな?」
拓海の声を聞きながら潮の匂いを嗅ぐ。鼻の奥がつんとして、幼い頃の風景がぼんやりと頭に浮かぶ。
カタカタとランドセルを鳴らして、追いかけっこするようにこの道を走った。
二人でブランコに乗って、どちらが高くこげるか競争した。
お互い家に帰りたくなくて、なんとなく並んで座って、茜色に染まる海を眺めた。
拓海との、そんな甘酸っぱい思い出を壊したくはなかった。
「……拓」
つぶやきながら、そっとその手を振りほどく。
「私はもう……昔の私じゃないの」
拓海が自分を見ているのがわかる。
「拓の知ってる私じゃないの」
大輔とあんなことをしておいて、今さら拓海と歩けるわけない。だったらこのまま、思い出くらいは綺麗なまま……。
潮の匂いを吸い込み、息をゆっくりと吐き出す。
「だからもうついてこないで。私なんかにかまわないで」
「雫……」
ぼんやりとした顔つきの拓海に背中を向けた。バッグを握った右手がかすかに震える。
「それでも俺、待ってるから」
歩き出した足を止め、拓海の声を背中に聞く。
「雫が戻ってくるまで……俺、ここで待ってるから」
その言葉を胸にしまって目を閉じる。そして振り返らないまま、雫は歩き出す。
きっと拓海は見ているだろう。これから罪を犯そうとしている自分の背中を……。
じんわりと熱いものがこみ上げた。だけど振り向いたら決心が鈍りそうで、雫はそのまま駅に向かって歩いた。




