答え
朝の光が、事務所の窓から細く差し込んでいた。
机の上に、白紙が一枚。時刻を書き込むための欄が三つ、縦に並んでいる。
セレナが正装のまま、鏡の前で襟を整えていた。銀の髪が、朝の色を受けて淡く光る。
俺は紙の上の三つの欄を、指先で一度だけ確認した。
バルクハルトに頼んだ観測点は、夜のうちに三つ配置が済んでいた。書記の一人、廊下を往復する伝令、宮廷に詰めているギルドの連絡員。セレナの回答が出た時刻を、それぞれの立ち位置から測る手筈になっていた。
セレナが振り向いた。
「行ってくる」
「ああ」
それだけで、扉が閉まった。朝の事務所に、セレナの香のにおいが短く残った。
最初の報告は、早かった。
ギルドの連絡員が、セレナが謁見の間へ入った時刻を書き付けてきた。その半時間後、二つ目の報告が入る。セレナが退出した時刻。
ここから、宮廷内に「商業上の理由で受けない」という回答が流れ始める。
通常の伝播速度は、半時間から一時間。中立派まで届くのは午後、というのが俺の見立てだった。
三つ目の報告が来たのは、セレナが退出してから十五分後だった。
中立派の西方系旧家、ヴェステンハイム家の使者が、門を出て北へ向かったという。通常の連絡所ではない。家の筆頭家臣の私邸だった。
十五分。
あまりに短すぎた。
想定より、倍以上速い。
俺はペンを一度、紙の上で止めた。
待っていた者の動きだった。
データベースを開いて、ヴェステンハイム家の直近の使者記録を引く。過去三ヶ月で、謁見の回答を待って十五分以内に動いた前例は、一度もなかった。
前日までに「この時刻に動け」という指示が家中に行き渡っていた、ということだった。回答内容を、家中の誰かが、事前に知っていた。
昼前、セレナが戻ってきた。
扉を開ける音が短い。正装の裾を整える手つきが、いつもより丁寧だった。
「商業上の理由で、と申し上げたわ」
俺は頷いた。
「向こうは」
セレナが一呼吸置いた。
「『ラングフォード家の再建を見届けたい。急ぐつもりはなかった』とおっしゃった」
俺は、その言葉を紙の上に書いた。二度は読まなかった。
机の縁を、指で一度だけ撫でた。
頭の中の仮説の紙で、一つの筋が消えた。
向こうは、知らなかった。
セレナが、俺の手元を覗いた。
「向こうは知らない、ということね」
「そうだ。打診を急がせたのは、王太子ではない」
俺は机の上に、別の二枚の紙を並べた。
事件1の夜会招待状で、南翼版を受け取った八名の中立派リスト。そして、昨夜ギルド商会の従契約から外した中央商会——その年商の三割を占める取引相手の家名。
観測時刻表の最速欄に、俺はヴェステンハイム、と書いた。
セレナが息を詰めた。
南翼版の受取人リストに、同じ名前がある。
中央商会の取引相手の欄にも、同じ名前がある。
三本の線が、そこで止まった。
セレナが椅子に浅く座り直した。紙の上の名前を、もう一度だけ目で追う。指は動かなかった。
俺は顔を上げた。
「終わっていない。打診を急がせた家を特定した」
セレナの指が、机を一度叩いた。
「……続きがあるのね」
「ある」
紙の上に、一つの家名が載っている。だが、俺はまだ、その家を「設計者」だとは呼ばなかった。
中立派を王太子派から引き剥がす。次に、王太子本人を焦らせる。縁談で縛れても得、断られて威信が削れても得。
やり口が違った。王弟派でも、ディートリヒでもない。もっと静かで、もっと整っている。
「誰かが宮廷の人間関係を設計している」
セレナが机の上の三枚の紙を、一度だけ見た。それから、目を伏せた。
「明日からは?」
「観測を続ける。設計者はまだ、自分が見られていることを知らない」
紙の上に載っているのは、あくまで「設計者に動かされている家」の名前だった。設計者本人の名前は、まだどこにもない。
セレナが立ち上がった。
三枚の紙を、順に揃えて、引き出しに収める。
木と木がこすれる、短い音が鳴った。
セレナの指は、もう机を叩かなかった。




