月120件の取引、集計できない
戦線の拡大は、商売を変えた。
南方に兵が送られる。兵が増えれば物資が要る。物資が要れば商人が動く。商人が動けば市場が変わる。
この一ヶ月で、アルク商会の取引件数は3倍になった。
「レイン様、南門警備隊の追加発注です。赤傷草を五十束、銀苔を三十束」
「傭兵団『鉄槌』から連絡です。来月分の見積もりを出してほしいと」
「ペルツ男爵家の執事から。次回の納品を前倒しにできないかと」
エドが次々に伝票を持ってくる。
事務所の机は紙で埋まっていた。仕入れ伝票、納品書、発注書、品質管理証明書。一件ごとに書類がある。100件を超えた取引の一つ一つが、紙の山を作っている。
「セレナ、先月の売上はいくらだ」
「待って。今数えてるから」
セレナが帳簿をめくっている。指で数字を追い、別の紙に書き写し、足し算をする。
十分経った。
「金貨1080。過去最高よ」
「顧客別の内訳は」
「……少し待って」
さらに二十分。
「東方辺境伯が510。衛兵隊が160。貴族四家が合わせて320。冒険者と傭兵団が90」
「品目別は」
セレナの手が止まった。
「レイン。それは今日中には無理よ。取引が120件以上あるの。一件ずつ品目を確認して集計するには丸一日かかるわ」
分かっている。分かっているが、必要なのだ。
品目別の売上が分からなければ、どの薬草に注力すべきか判断できない。
顧客別の利益率が分からなければ、どの取引先を優先すべきか決められない。
月ごとの推移が分からなければ、次の仕入れ量を読み違える。
「エドに手伝わせる」
「エドは配達で出ずっぱりよ。人が足りないの」
正しい。三人で回せる規模を超えている。
◇
その日の午後。衛兵隊のヴォルフから呼び出しがあった。
「レイン殿。三ヶ月の試用期間が終わります」
そうだった。入札のときに決まった折半契約。三ヶ月後に前線の評価を見て本契約を決める、という話だ。
「評価はいかがでしたか」
「前線からの報告は良好です。品質証明書つきの納品は、医療班から高い評価を受けています」
ヴォルフが書類を出した。
「全量契約に切り替えたい。ドルク商会との折半を終了し、アルク商会に一本化します」
取れた。衛兵隊の全量。
だが、ヴォルフは続けた。
「ただし、条件があります。全量を任せる以上、実績の報告を求めます。月ごとの納品実績、品目別の数量、品質評価の分布。報告書を毎月提出してください」
「……報告書、ですか」
「大口契約には監査が入ります。帳簿だけでなく、集計された数字が必要です」
集計。
今のセレナが丸一日かけてやっている作業を、毎月やれと言っている。
しかも衛兵隊だけではない。東方辺境伯のノルトも、今後同じ要求をしてくるだろう。軍は数字で管理する組織だ。
「承知しました。来月から提出いたします」
「よろしくお願いします」
ヴォルフと握手して、事務所に戻った。
◇
「全量取れたのは嬉しいけど」
セレナが腕を組んだ。
「毎月の報告書、私が作るの?」
「すまない」
「謝らなくていいわ。仕事だもの。でも、現実を見てほしいの」
セレナが指を折った。
「取引先は9つ。仕入先は4つ。品目は五種類。月の取引件数は120以上。これを顧客別、品目別、月別に集計するだけで三日はかかる。その間、私は営業に出られない」
「人を雇うか」
「雇っても、集計の仕方を教えるのに時間がかかるわ。それに、数字を扱える人間は簡単には見つからない」
俺はデータベースに意識を向けた。
120件の取引レコード。一件一件は正確に記録されている。主キーも振ってある。関係も定義してある。
だが、「赤傷草の先月の総売上は」と聞かれたとき、データベースは答えてくれない。
120件を一件ずつ見て、赤傷草だけを抜き出して、金額を足す。それしかできない。
人間がやるのと同じだ。
(レコードを一件ずつ扱うことしかできない。まとめて処理する方法がない)
顧客別にまとめる。品目別にまとめる。月別にまとめる。
「グループ化」して、合計や平均を出す。
その機能が、今の俺のデータベースにはない。
「レイン。また考え事?」
「ああ。いい方法がないか考えている」
「方法じゃなくて人を雇いなさい。経理ができる人間を一人入れるだけで違うわ」
セレナの提案は現実的だ。だが、俺が求めているのは人手ではない。
仕組みだ。
百件だろうが千件だろうが、一瞬で集計できる仕組み。
エドが配達から戻ってきた。汗だくだ。
「レイン様、今日の分はなんとか回りきりました。……正直、足がもう限界です。明日の伝票、確認お願いします」
机に伝票の束が積まれた。紙とインクの匂いが鼻を突く。持ち上げると、ずしりと重い。
俺はその束を見て、ため息をついた。
一枚一枚は読める。だが束になると、何が何だか分からない。
木を見ることはできる。だが、森が見えない。
必要なのは、木を森として眺める力だ。
レコードをグループにまとめ、集計し、全体の姿を見せる機能。
あの予兆は、まだ来ない。
だが、壁が何であるかは分かっている。
「セレナ、報告書は俺が作る。二日くれ」
「二日で120件の集計ができるの?」
「やる」
「……分かったわ。でも無理しないでね」
無理をする。120件を一つ一つ集計する。
効率が悪いのは分かっている。だが、やることで見えるものがあるはずだ。
主キーの時もそうだった。一束一束を手で仕分けたから、機能が解放された。
今度も、同じだ。
データの洪水に自ら飛び込む。溺れかけて初めて、泳ぎ方を覚える。
たぶん。




