↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
カエサルの左腕 ~ 外傷外科医だった俺は、古代ローマで軍医参謀になった  作者: 東雲 諒杏
第四章 六百歩先の陣地

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
83/83

第80話 左腕と呼ばれた日


カエサルの天幕へ入ると、数人の軍団指揮官がいた。

机の上には、監察官の報告書。

すでに写しが届いている。

「読んだか」

カエサルが尋ねた。

「草案の一部を」

「感想は」

「正しい指摘があります」

軍団指揮官の一人が不快そうに鼻を鳴らした。

「ローマから来た役人に同意するのか」

「権限集中と利益相反は事実です」

「自分を告発する?」

ラビエヌスが尋ねる。

「改善しなければ、制度が続きません」

「制度より先に、お前の首が続かんぞ」

冗談ではない。

元老院が、カエサルの私的統治組織と判断すれば。

俺は共犯者。

あるいは中心人物になる。

「軍医規程を公開したいと考えています」

天幕が静まった。

「誰に」

カエサルが尋ねる。

「元老院。他属州の指揮官。ローマ軍全体へ」

「敵にも渡る」

「ローマ軍の指揮官です」

「政敵だ」

「同じ共和国の軍団です」

カエサルの目が冷たくなる。

「本気で言っているのか」

「はい」

「私の軍団が、血を流して作った方法だ」

「だからローマへ残すべきです」

「私の敵が使う」

未来。

内戦。

同じローマ人同士が、同じ医療制度を使う。

敵兵を救う。

それは良いことかもしれない。

同時に敵軍の戦力回復にもなる。

「医療制度は、軍事的優位です」

俺は認めた。

「だから渡す?」

「カエサル様だけへ依存させないためです」

空気が凍った。

「私が死ぬと思っているのか」

「人は死にます」

数日前、父へ言った言葉だった。

今度は本人へ。

ラビエヌスが俺を見る。

止める気はないらしい。

「いつかは」

俺は続けた。

「私も。ラビエヌス殿も。総督閣下も」

「その後まで、自分の名を残したいか」

「名ではありません」

「では何だ」

「患者を救う方法です」

カエサルは椅子へ深く座った。

「お前の病院も、生存局も、軍医規程も、私の命令で作った」

「はい」

「私の金と戦利品を使った」

「はい」

「私の軍団を強くした」

「はい」

「なら私のものだ」

所有。

制度の所有者。

監察官が突いた問題。

「法的には、総督閣下の指揮権下です」

「法ではなく聞いている」

「私には、誰か一人のものとは思えません」

「作った者のものでもない?」

「はい」

以前は、自分の制度を勝手に変えられることへ抵抗した。

現場に合わせて変えると言われ、それを認めた。

「使う者と、救われる者のものです」

カエサルは黙った。

長い沈黙。

「ラビエヌス」

「はい」

「どう思う」

「軍事的には公開へ反対です」

迷いのない答え。

「敵対する指揮官が、兵の損耗を減らす可能性があります」

「ルキウスを処分するべきか」

ラビエヌスは俺を見る。

「いいえ」

「なぜ」

「彼は制度を盗もうとしているのではありません」

「私から奪おうとしている」

「ローマへ渡そうとしている」

「同じだ」

「総督閣下がローマではないなら」

危険な言葉。

天幕の全員が息を止めた。

カエサルとラビエヌス。

二人の間に、目に見えない線が走った。

未来の離反。

その種はすでにある。

十三年。

俺は頭の中で数えた。

「私はローマのために戦っている」

カエサルが言った。

「なら、ローマへ残せばよい」

ラビエヌスが答えた。

俺より強い言葉だった。

◇

カエサルは怒鳴らなかった。

静かに報告書をめくる。

「すべて公開する必要はない」

彼は言った。

「軍事配置、補給能力、部隊別損耗は除く」

「医療規程と衛生基準だけ」

「傷痍兵制度もだ」

「生存局は?」

「まだ早い」

民政制度は、ガリア支配の中核。

公開すれば政治的議論が起きる。

「病院運営は」

「基本構造だけ。契約価格と業者名は除く」

父の利益相反を隠すことにならないか。

「監察官へは詳細を提出します」

俺は言った。

「公表と監査は分けます」

「好きにしろ」

許可が出た。

完全ではない。

それでも、軍医規程はカエサル個人の外へ出る。

◇

次に、権限集中の問題。

「軍医幕僚団を正式に複数制とします」

俺は案を出した。

医療。

衛生。

記録。

物資。

傷痍兵。

病院。

各責任者。

俺が不在でも決定できる。

「お前は何をする」

カエサルが尋ねた。

「全体調整と、総督幕僚団への報告」

「結局、上にいる」

「最終権限を分けます」

「意見が割れれば」

「緊急時は担当責任者。政策変更は合議。軍事上の最終決定は総督閣下」

「私へ戻るではないか」

「総督ですから」

カエサルが笑った。

緊張が少し緩む。

「利益相反は」

「父の商会との契約審査から、私は外れます」

「誰が決める」

「病院責任者、補給担当、町側代表、軍団書記」

「父親が不利な契約を受けると思うか」

「受けなければ、他社を使います」

「親子関係は」

「悪化するかもしれません」

「高い制度だな」

金だけではない費用。

家族。

信頼。

政治。

◇

会議の最後。

カエサルは一枚の命令書を出した。

「これは何です」

「お前の正式な職務だ」

法定官職ではない。

だがカエサル軍内での命令書。

ルキウス・アエリウスを、軍団医療・衛生・後送・傷痍兵・病院・関連補給の統括幕僚とする。

各軍団の医療責任者は、定期的に報告する。

ルキウス不在時は、軍医幕僚団が権限を分担する。

「権限集中を問題にした直後ですが」

俺が言うと、カエサルは答えた。

「だから分担も書いた」

「監察官は納得しますか」

「納得させるのは、お前の仕事だ」

「総督閣下の命令では?」

「説明するのは、作った者がよい」

また仕事が増える。

「肩書は」

命令書には、長い正式表現。

兵士が使うとは思えない。

「軍団医務統括幕僚」

俺が読む。

「長いですね」

「お前が長くした」

「総督閣下の命令書です」

「書記が書いた」

責任の押しつけ合い。

ラビエヌスが言った。

「兵士は、別の名で呼んでいる」

「何です」

知っているような気がした。

だが聞きたくなかった。

「カエサルの左腕」

天幕内の者たちがこちらを見る。

「右腕ではないのですか」

俺は言った。

「右は剣を持つ」

ラビエヌスが答える。

「左は盾を持つ」

ローマ兵にとって、右手は剣。

左手は盾。

「兵士を守り、軍団を支える。だから左腕だ」

「誰が最初に」

「分からん」

軍団内の呼び名。

命令で作られたものではない。

カエサルが俺を見る。

「不満か」

「重すぎます」

「肩書ではない」

「だから重いのです」

カエサルの左腕。

英雄の一部。

彼が動けば動く。

彼を守る。

同時に、彼が誤れば共に血を流す。

「左腕は、頭に逆らえません」

俺が言うと、カエサルは笑った。

「お前は、よく逆らう」

「切り落としますか」

「まだ使える」

冗談。

だが、その言葉の奥に警告もある。

◇

命令書の公布後。

病院の前に兵士たちが集まった。

衛生兵。

傷痍兵教官。

医師。

書記。

工兵。

倉庫担当。

各軍団の代表。

「左腕殿!」

誰かが叫んだ。

笑いが起きる。

「その呼び方はやめてください」

「カエサルの左腕!」

今度は複数。

止められない。

クィントゥスが前へ出た。

「静かにしろ!」

兵士たちが黙る。

「左腕殿が話す」

「あなたまで」

「早くしろ」

俺は新しい病院を見る。

石と木の建物。

寝台。

水場。

隔離棟。

衛生兵。

片脚の教官。

若い医師。

記録を持つ書記。

どれも、最初は存在しなかった。

クィントゥスの脚から木片を取り出したこと。

手を洗えと言ったこと。

下痢患者を数えたこと。

小さな行動が積み重なった。

「この病院は、私のものではありません」

俺は言った。

兵士たちが静かに聞く。

「カエサル様だけのものでもありません」

少し危険な言葉。

だが続ける。

「ここで働く者。治療を受ける者。次の患者を運ぶ者。その全員のものです」

「ローマのものでは?」

一人が尋ねた。

「ローマのものです」

今度は迷わない。

「だから、私がいなくても動かしてください」

兵士たちの表情は、完全には理解していない。

俺が死ぬ話をしているように聞こえたかもしれない。

「規程が間違っていれば変える」

「医師が間違えれば指摘する」

「記録が嘘なら書き直す」

「患者が定義に合わなければ、患者ではなく定義を疑う」

用語表の最後へ、自分で書いた一文である。

「そして、自分一人にしかできない仕事を作らない」

それは自分への命令でもある。

「左腕殿がいなくなれば、右腕になりますか」

兵士が叫んだ。

笑い。

「なりません」

「では頭か」

「もっと嫌です」

笑いが広がる。

重い空気が少し軽くなった。

◇

その夜。

病院の屋上から、ウェソンティオの町を見た。

灯火。

川。

城壁。

遠くの軍団宿営地。

カエサルは、次の戦争を考えている。

俺は軍医から始まった。

軍医幕僚。

生存局。

病院。

傷痍兵制度。

衛生兵。

そして、カエサルの左腕。

だが肩書が増えるほど、自分が英雄へ近づいているような危険を感じる。

英雄の隣に立てば、英雄の光を浴びる。

同時に、影も大きくなる。

「英雄は歴史を作る」

俺はつぶやいた。

続きは、まだ口にしなかった。

◇

翌朝。

北方から使者が来た。

ベルガエ諸族が、大規模な連合を作っている。

兵力は三十万。

あるいはそれ以上。

報告者はそう主張した。

また、大きすぎる数字。

また、一つに見える複数の部族。

俺は新しい木板を削らせ、表題を刻んだ。

ベルガエ。

刻んでから、手が止まった。

二年前、同じ形で「ヘルウェティイ」と刻んだ。

あの時、俺は数字が人を救うと信じていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。