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カエサルの左腕 ~ 外傷外科医だった俺は、古代ローマで軍医参謀になった  作者: 東雲 諒杏
第三章 ソーヌ川の夜明け

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第41話 帰るまでが戦争だ

一晩かけて、ティロと二人で名簿を数え直した。

三十六万八千。

家ごとの人数を足していくと、確かにその数になる。

だが、足し方に問題があった。

「この村の欄、出発前に死んだ者が入っています」

ティロが指した。

「なぜ分かります」

「同じ名が、二年前の欄にもある。横に印が付いている」

「死者の印ですか」

「おそらく」

一つの村で三人。

四百の村があれば、千人以上になる。

さらに別の問題が見えた。

家ごとの人数を申告したのは、村の長である。

移住の際、必要な穀物と荷車は人数に応じて割り当てられた。

多く申告すれば、多く受け取れる。

「水増しの動機があります」

「では、三十六万八千は嘘ですか」

「分かりません」

俺は木板を閉じた。

嘘だとも、本当だとも言えない。

俺の推計は十九万から二十三万。

彼らの名簿は三十六万八千。

どちらかが誤っている。あるいは両方が。

「カエサル様へは、どう報告します」

「両方を並べます」

「片方を選ばないのですか」

「選べません」

ティロは不満そうだった。

俺も不満だった。

だが、選んだふりをして片方を消せば、消えた方の数字は永久に戻らない。

「一つだけ確かなことがあります」

「何です」

「今日、外に並んでいる人数は、名簿にも私の推計にも一致しません」

数えるべきは、目の前にいる人間である。

◇

降伏したヘルウェティイ族の野営地では、食料を求める列が昨日より長くなっていた。

剣を捨てた者。

子供を抱く者。

傷を負った者。

家族を探す者。

夏の朝の光が、丘の斜面を埋める人の背中を一様に照らしている。上から見ると、それは列というより、ゆっくり動く地面のように見えた。

誰もが疲れ切っている。

だが、戦闘が終わった安堵よりも、これからどうなるのかという不安の方が強く見えた。

「一人一回だ!」

配給担当の兵士が怒鳴った。

「印のない者には渡せない!」

「昨日もらっていない!」

「子供が二人いる!」

「夫が負傷している!」

声が重なる。

昨日作った配給制度は、すでに限界へ達していた。

家族単位で穀物を渡す。

成人。

子供。

重症者。

三つに分ける。

理屈は単純だった。

だが現実の家族は、単純ではない。

親を失った子供。

夫と離れた妻。

別の村の負傷者を引き取った家族。

名簿に記載されていない同行者。

戦闘で名札や木片を失った者。

同じ家族が別々の列へ並ぶ。

不正もある。

だが、不正に見えて実際には事情がある者もいる。列の前で嘘をついている人間と、説明できないだけの人間を、俺は見分けられない。

「このままでは、配給だけで一日が終わります」

ティロが言った。

目の下に濃い隈がある。

俺も同じような顔をしているのだろう。この十日、まともに横になった記憶がない。

「家族単位をやめます」

「個人ごとにするのですか」

「もっと時間がかかります」

「では?」

俺は列を観察した。

人々は、元の村や親族ごとに固まっている。

離れて並んでいるように見えても、荷物と子供は同じ場所に置かれている。指示されたわけではない。三十万人が焼け出されて三か月歩いても、その単位だけは壊れていない。

ヘルウェティイ族の組織は、ローマ軍のような百人隊ではない。

家族。

氏族。

村。

その単位で動いている。

「村ごとの責任者へまとめて渡します」

ティロが眉をひそめた。

「責任者が横領したら?」

「起きるでしょう」

「では駄目では」

「今の制度でも重複受給と取りこぼしが起きています」

完璧な制度はない。

重要なのは、どの誤りを減らし、どの誤りを受け入れるかだ。前の人生でも同じだった。誤りを全部潰そうとした部署は、たいてい何も回らなくなった。

「村ごとに人口を申告させます」

俺は言った。

「成人、子供、負傷者の数を出させる。ローマ側の記録と照合し、一定量を村の代表へ渡す」

「個人への配給は?」

「例外だけです。孤児、家族を失った者、代表者と対立している者」

「村の代表を、信用するのですか」

「信用するのではありません。責任を持たせます」

村単位で受け取り量と配布結果を記録する。

翌日、極端に不足する家族が出れば、代表者へ理由を確認する。

複数の家族から同じ訴えがあれば、横領を疑う。

「ローマ兵がすべて配るのではなく、彼ら自身に配らせるのですね」

「そうです」

「支配を手放すことになりませんか」

その言葉に、手が止まった。

食料を握る者は、人を支配できる。

一人ずつローマ兵から食料を受け取らせれば、ヘルウェティイ族はローマへ直接依存する。

村の代表へ渡せば、共同体の自律性を残せる。

意識してやったわけではなかった。だが、ティロに言われて初めて、自分が何を選んだのかが分かった。制度というのは、作った本人が意図しなかった意味を、後から持ち始める。

「支配することが目的ではありません」

俺は答えた。

「カエサル様も同じでしょうか」

ティロの問いに、すぐには答えられなかった。

「確認します」

◇

カエサルは、帰還計画の地図を見ていた。

天幕の中は、外より数度低い。地図の四隅を、蝋板と短剣と、飲みかけの杯が押さえていた。

「村単位の配給に変えたい?」

「はい」

「なぜだ」

「ローマ兵だけでは十万人以上を管理できません」

「人を増やせ」

「軍団をいつまで配給へ使うのですか」

カエサルの目が細くなる。

「続けろ」

「帰還には数週間かかります。故郷へ戻った後も、村の再建と食料供給が必要です」

「それをローマ軍が行う」

「軍団は次の戦いへ向かうのでしょう」

天幕内が静かになった。

カエサルは、すでに次を考えている。

ガリアにはヘルウェティイ族だけではない。

ゲルマン人のアリオウィストゥス。

ベルガエ諸族。

ローマへ敵意を持つ部族。

戦争は続く。この男にとって、勝った戦いは終わった戦いではなく、済んだ手続きに過ぎない。

「だから、彼ら自身の組織を使います」

俺は地図上に、村ごとの印を置いた。小石を三十ほど並べる。それだけで、地図が急に人の住む土地に見えた。

「村の代表者を帰還責任者とする。人数、食料、患者、荷車を管理させる」

「反乱の単位にもなる」

ラビエヌスが言った。

「村ごとにまとまれば、指導者が兵を集めやすい」

「家族を分散させれば、移動と配給が混乱します」

「統治しやすさと、反乱のしにくさは別だ」

ラビエヌスの指摘は正しい。

共同体を残せば、生活再建は早い。

同時に政治的な結束も残る。

「代表者の家族を人質にするか」

一人の将校が提案した。

俺は反射的に顔を上げた。

言った本人に悪意はない。この時代では普通の方法である。責任者の裏切りを防ぐ。ローマ人にとって人質は、暴力ではなく契約の一形式だった。

「すでに有力家から人質を取っています」

俺は言った。

「村の代表者全員から取る必要はありません」

「保証は?」

ラビエヌスが尋ねる。

「食料です」

「食料を人質にする?」

「帰還経路上の配給を、報告と秩序維持の条件にします」

約束を守れば次の食料を受け取れる。

略奪や逃亡があれば、配給を止める。

口にしてから、自分の提案の冷たさに気づいた。

飢えを統制手段にする。人質を取るなと言った直後に、俺は人質を穀物へ置き換えただけの案を出している。

「合理的だ」

カエサルは言った。

「ですが、連帯責任になります」

「一つの村の者が略奪すれば、その村全体が責任を負う」

「子供までです」

「なら村の中で止めさせろ」

ローマがすべて監視するより、共同体内部の監視を使う。

効率的である。

同時に、強い圧力となる。村の中で、誰かが誰かを見張る。その関係は、戦争が終わっても消えない。

「食料停止ではなく、追加配給の停止にします」

俺は修正した。

「最低限の配給は続ける。秩序を守った村には、再建用穀物や道具を追加する」

罰より報酬。

生存を脅かさず、行動を促す。

「違いは何だ」

ラビエヌスが尋ねる。

「最低限を奪えば、子供も死にます。追加支援を条件にすれば、選択の余地が残ります」

「名目が違うだけではないか」

「結果が違います」

カエサルは少し考えた。

「採用する」

「ありがとうございます」

「ただし、逃亡や武装蜂起は別だ」

「承知しました」

「帰還責任者は、ローマ側の担当者と毎日人数を確認する」

「書記が足りません」

「負傷して戦列へ戻れない兵士を使え」

以前、俺が提案した職務転換である。

早くも実施する機会が来た。提案が採用される速度だけは、この軍団は現代の病院より速い。

「文字を読める者は多くありません」

「教えろ」

カエサルは簡単に言った。

「何日で」

「数字と印だけなら、数日で」

「ならやれ」

また仕事が増えた。

「ルキウス」

カエサルが地図を巻きながら言った。

「お前は戦争が終わるまで面倒を見ると言ったな」

「はい」

「どこまでを終わりとする」

俺は答えた。

「彼らが故郷へ帰るまでです」

「家がなければ?」

「建て直すまで」

「畑がなければ?」

「次の収穫まで」

「そこまで待てば、一年かかる」

「はい」

カエサルは笑った。

「帰るまでが戦争か」

「少なくとも、患者が家へ戻るまでが治療です」

「なら、早く帰せ」

◇

その日の午後。

村単位の配給が始まった。

最初は混乱した。

代表者が見つからない村。

複数の者が代表を名乗る村。

村そのものが戦闘で分裂した集団。

それでも、一人ずつ配るより列は短くなった。

夕方には、最後尾の人間が日没前に穀物を受け取れるようになっていた。それだけのことが、ここでは進歩だった。

ある村の代表者が、受け取った穀物を家族ごとに分けている。

老人へ少し多く。

歩ける戦士へ少なく。

乳児のいる母親へ粥用の粉を渡す。

ローマ側の一律配給より、事情を理解していた。

「任せた方が正確ですね」

ティロが言った。

「すべてではありません」

別の村では、代表者が自分の親族へ多く配り、他の家族から抗議が起きている。

制度は、権力を移す。

ローマ兵から村の有力者へ。

誰に任せても、公平が自動的に生まれるわけではない。

「監査が必要です」

「かんさ?」

「後から確認することです」

「また木板が増えますね」

「増えます」

◇

日が落ちる頃、俺は負傷者の天幕を回った。

その一番奥で、見慣れない光景を見た。

ヘルウェティイ族の負傷者の脇に、若い女が膝をついている。

ローマ軍の衛生兵ではない。ヘルウェティイの女でもない。着ているものが違った。格子縞の外套を右肩で留め、腕には青銅の輪。髪を編んで背へ流している。

その女が、傷口へ何かを塗っていた。

俺は近づいた。

匂いで分かった。

蜂蜜である。

それも、俺たちが使っているものより粘度が高い。琥珀色というより、黒に近い。

「何を使っている」

俺が声をかけると、女は顔を上げた。

二十そこそこだろう。日に焼けた顔に、まっすぐな目がついている。

「あなたたちの薬より効くもの」

ラテン語だった。訛りはあるが、正確だった。

「蜂蜜か」

「知っているの」

「傷が膿みにくくなる」

女の手が、一瞬止まった。

「ローマの医者は、油を塗る」

「油は熱を閉じ込めます。蜂蜜は水を吸う」

「なぜ吸うと良いの」

答えに詰まった。

浸透圧、と言っても通じない。細菌が水分を失って増えられなくなる、と説明しても同じである。

「……分かりません」

俺は言った。

「効くことは知っています。理由は、まだ説明できません」

女は俺を見た。

その目に、初めて別の色が混じった。警戒でも敵意でもない。もっと厄介なもの。興味だ。

「正直な征服者」

「征服者ではありません」

「その赤い外套の男たちと、同じ場所から来た」

「はい」

「なら同じよ」

女は視線を戻し、包帯を巻き始めた。巻き方が速い。何百回も巻いた手だった。

「名前を聞いても」

「聞いてどうするの」

「記録します」

「私を数えるの」

「治療した人間を数えます」

女はしばらく黙って手を動かし、それから言った。

「アリア」

「どの村の」

「アエドゥイ」

思わず聞き返した。

「ローマの同盟部族の者が、なぜヘルウェティイの負傷者を診ている」

アリアは、初めてこちらを正面から見た。

「傷は、部族を選ばないから」

その一言は、俺が三年かけて誰かに言いたかった言葉だった。

それを、この土地の若い女に、先に言われた。


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