第39話 逃げる軍、追う軍
ヘルウェティイ族の残存集団は西へ逃げ続けます。
ローマ軍はそれを追います。
しかしローマ軍もまた、負傷者と捕虜を抱え、速度を落としていました。
患者を荷車に乗せれば軍は遅れる。
歩かせれば傷が悪化する。
追いつけなければ戦争が長引く。
急げば患者が壊れる。
逃げる軍と、追う軍。
その間で主人公は、医療と軍事の両方を見なければなりません。
どうぞお楽しみください。
ヘルウェティイ族の残存集団は、西へ逃げ続けた。
ローマ軍との距離は、一日。
負傷者と捕虜を抱えたこちらも、以前ほど速く進めない。
「医療用荷車が列を伸ばしています」
ラビエヌスが言った。
「減らせないか」
「患者を置いていけば減らせます」
俺が答えると、彼は不快そうに眉を寄せた。
「皮肉か」
「事実です」
「歩ける者を歩かせろ」
「すでに歩かせています」
「黄の患者は」
「一部は歩けますが、傷が悪化します」
「追いつけなければ、さらに戦争が続く」
軍の速度。
患者の回復。
どちらを優先する。
「軽症者の荷車利用を停止します」
「どこまでが軽症だ」
「白分類。黄の中でも、下肢負傷がない者は交代で歩かせます」
「感染が増える」
「可能性はあります」
「それでもやる?」
「本隊から遅れれば、全員が危険です」
以前の俺なら抵抗したかもしれない。
患者を最優先する。
だが、患者だけを守れば、次の患者を守れなくなる。
◇
行軍中、右腕を負傷した兵士が横を歩いていた。
ガイウスという名の三十男である。
肘の下を深く切られ、指が動かない。
「腕は残りますか」
「残します」
「使えますか」
「訓練次第です」
「使えなければ、軍団を出される」
「職務転換を提案します」
「戦えない兵士を、誰が雇う」
「私が制度を提案します」
ガイウスは笑った。
「外科医殿は、何でも制度にする」
「個人の善意だけでは続きません」
「制度ができるまで、俺は何を食う」
答えられない。
制度は未来を救う。
目の前の人間には、今の食料が必要だ。
「まず、腕を残します」
「順番が逆ではないか」
「そうかもしれません」
歩きながら傷を確認する。
発赤はあるが、膿はない。
「今日は歩いてよいです。ただし荷物は持たない」
「他の兵士に恨まれる」
「医療上の命令です」
権限を使う。
完全な公平ではない。
必要な配慮である。
◇
午後。
前方の偵察隊が戻ってきた。
「敵が止まっています」
「どこだ」
ラビエヌスが地図を広げる。
「リンゴネス族の領域近くです」
「なぜ止まった」
「使者を出したようです」
周辺部族へ支援を求めている。
食料。
通行。
同盟。
このまま追われれば壊滅する。
ヘルウェティイ族も、戦争を終わらせる方法を探している。
「使者を捕らえました」
偵察兵が言った。
捕らえられた男は、書簡を持っていた。
リンゴネス族へ、食料と支援を求める内容。
「食料を与えれば、ローマの敵とみなす」
カエサルはリンゴネス族へ警告を送った。
「降伏を求める使者も送れ」
「条件は?」
ラビエヌスが尋ねる。
「武器を渡す。人質を出す。逃亡奴隷を返す」
「故郷へ戻すことは伝えますか」
俺が聞いた。
「まだ伝えない」
「なぜです」
「先に条件を受け入れさせる」
「帰還が分かれば、降伏しやすくなります」
「交渉材料は、先にすべて見せない」
商取引と同じだった。
父も同じことをする。
だが相手は飢えた集団である。
「条件が厳しいと考え、最後の戦いを選ぶかもしれません」
「その可能性はある」
「なら――」
「ルキウス」
カエサルが遮る。
「降伏は、相手が希望を持った時だけ起きるのではない」
「絶望した時にも?」
「他の選択肢がなくなった時だ」
冷たい言葉だった。
しかし、戦争を終わらせる現実でもある。
「ただし」
カエサルは続けた。
「完全に絶望させれば、死ぬまで戦う」
希望を残す。
だが、条件を選べるほどの希望は与えない。
「故郷へ戻れる可能性がある、とだけ伝えろ」
使者へ命令する。
俺はその交渉設計に戦慄した。
カエサルは剣だけで敵を倒すのではない。
情報の量。
伝える順番。
選択肢。
希望と恐怖。
すべてを使う。
俺が数えたものは、この男の手の中で、そういう道具になる。
「ルキウス」
「はい」
「敵が降伏した場合の食料表は」
「準備しています」
「明朝までに完成させろ」
「人数が確定していません」
「幅で出せ」
俺が何度も使った方法である。
最少。
標準。
最大。
「承知しました」
◇
その夜。
逃げる軍と、追う軍の間を、二組の使者が行き来した。
戦争を続けるか。
終わらせるか。
剣は鞘へ入っていない。
二組目の使者が戻ってきた時、その手には何も持っていなかった。
第39話をお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、追撃中のローマ軍と、負傷者搬送の問題を描きました。
戦闘が終われば医療が落ち着くわけではありません。
むしろ、負傷者を抱えたまま行軍する方が難しい場合もあります。
荷車に乗せる患者。
歩かせる患者。
休ませる患者。
戦列へ戻せる患者。
戻せない患者。
主人公は、患者一人ひとりの回復と、軍団全体の速度を同時に考えなければなりません。
また、負傷兵ガイウスとの会話も重要でした。
軍にとっては「戦列復帰できるか」が問題です。
しかし患者本人にとっては、「故郷へ帰った後に働けるか」「腕が動くか」「食べていけるか」が問題です。
医療は命を救うだけでは終わらない。
その後の生活までつながっています。
後半では、降伏交渉の準備が始まりました。
カエサルは、相手に希望を残しながら、選択肢を狭めていきます。
戦争を終わらせるためには、剣だけでなく、情報と食料と交渉が必要になります。
次回、第40話。
ヘルウェティイ族はついに降伏条件を聞くため、使者を送ってきます。
【ローマ豆知識㊲ 追撃戦の難しさ】
逃げる敵を追うことは、一見すると簡単に思えるかもしれません。
しかし実際には、追う側にも多くの負担があります。
負傷者を運ばなければならない。
補給を維持しなければならない。
隊列が伸びれば、奇襲を受けやすくなる。
急ぎすぎれば兵士が疲れ、遅すぎれば敵に逃げられる。
特に古代の軍隊では、現代の車両輸送や通信手段がありません。
そのため追撃戦は、戦闘力だけでなく、行軍速度、荷車、食料、負傷者搬送を含む総合的な運用能力が問われました。




