第10話 面白い男だ
一人の患者を救った若者。
一つの部隊から病を減らした若者。
その存在はついにカエサル軍全体へ知られることになります。
ただし改革には必ず反発があります。
新しい制度は、新しい敵も生み出します。
歴史の表舞台へ足を踏み入れた主人公を待つものは、称賛だけではありません。
どうぞお楽しみください。
「手を洗えば戦争に勝てるそうだ」
背中で声がした。
振り返らなかった。
振り返っても、誰が言ったかは分からない。総督の天幕の前には、六個軍団の上級指揮官、百人隊長、軍医、補給担当者が集められている。百人以上いる。
その全員が、正式な命令を聞くために立っていた。
命令の内容は、俺が書いた手順である。
「静かに」
ラビエヌスの声で、ざわめきが止んだ。
カエサルが正式に命令を発した。
全軍団への衛生手順の導入。
各軍団から二名の衛生担当者選出。
三日間の教育。
水場、便所、炊事、患者記録の統一。
導入部隊の疾病報告義務。
読み上げが終わっても、拍手は起きなかった。
当然である。
彼らにとって、これは仕事の増加でしかない。
しかも、命令の源は二十四歳の商人の息子だ。
「質問がある」
一人の軍団指揮官が手を挙げた。
「衛生担当者は、戦闘時にはどうする」
「原則として非戦闘任務です」
俺が答えた。
「兵が減る」
「病人はもっと減ります」
「実証されていない」
「三個コホルスで七日間の結果があります」
「たった七日か」
正しい指摘だった。
七日は短い。
「継続して記録します。効果がなければ、命令を撤回してください」
天幕の前がざわついた。
自分の作った制度を、自分で撤回条件付きにする者は珍しいのだろう。
だが、これは前の人生で何度も使った手だった。永続を前提に提案すると反対される。試行を前提にすると通る。そして通ってしまえば、たいてい撤回されない。
「反対する者は」
カエサルが言った。
何人かが手を挙げかけ、下ろした。
総督が既に決めた命令に、公然と反対する者はいない。
だが、俺は表情を見ていた。
納得していない者。
面倒だと思っている者。
政治的に利用しようとしている者。
ローマ軍は一枚岩ではない。
出身。
派閥。
軍歴。
家柄。
命令が出ても、実行の温度は部隊ごとに違う。それを制御する方法を、俺はまだ持っていない。
◇
散会後、俺は総督の天幕へ残された。
中には、カエサルとラビエヌスだけがいた。
「お前は医師なのか」
カエサルが尋ねた。
唐突な質問だった。
「そのつもりです」
「ローマでは、医師は主にギリシャ人や解放奴隷の仕事だ」
「知っています」
「騎士階級の息子がやることではない」
「そうかもしれません」
「なぜやる」
「他にできることがないからです」
正直な答えだった。
俺には剣の腕がない。
政治的な人脈もない。
演説の才能もない。
あるのは、医学、経営、統計の知識だけである。
「医師としての教育は、どこで受けた」
来た、と思った。
答えを用意していない。
「独学です」
「独学であの手術ができるのか」
「書物と、人から」
「どの書物だ」
「……この時代の資格は持っていません」
「この時代?」
しまった。
言葉を選び損ねた。
「地方によって医師の認め方が違う、という意味です」
カエサルは俺を見た。
嘘を見抜かれた気がした。
だが追及しなかった。
追及しないことが、この男の場合、忘れることを意味しない。
「お前は何者だ」
予想していた質問だった。
答えは用意していない。
高瀬真一。
ルキウス・アエリウス。
医師。
商人の息子。
未来を知る転生者。
どれも真実であり、どれも完全な答えではない。
「ルキウス・アエリウスです」
「それは名前だ」
「人を救いたい者です」
「なぜ」
「救えなかった人がいるからです」
日本で亡くなった患者。
忙しいことを理由に向き合わなかった家族。
夢半ばで消えたルキウス。
そして、十四年後に俺の腕の中で死ぬ、目の前のこの男。
「誰だ」
「まだ、うまく説明できません」
カエサルは追及しなかった。
机上の地図へ目を向ける。
「ヘルウェティイ族が動く」
空気が変わった。
レマン湖の北東。
アルプスの内側に暮らす大部族。
彼らは土地を焼き払い、大規模な民族移動を始める。
『ガリア戦記』の、最初の一行が始まろうとしていた。
「数十万とも言われる民が、故郷を捨てて西へ向かおうとしている」
カエサルは地図上の道を指でなぞった。
「ローマ属州を通過させれば、同盟部族と属州民が脅かされる」
俺は地図を見た。
数十万人。
カエサルの記録にある人数は、後世では誇張の可能性も指摘される。
だが、戦士だけではない。
女性。
子供。
老人。
家畜。
荷車。
民族全体が移動する。
戦争というより、巨大な人口移動である。
「通行を拒否するのですか」
「当然だ」
「交渉の余地は」
カエサルの目が俺へ向いた。
ラビエヌスも表情を変えた。
幕僚へ入った初日に、総督の方針へ疑問を呈したのだ。
「お前は彼らを通すべきだと思うのか」
「まだ情報がありません」
「なら、なぜ聞いた」
「病人と同じです」
「どういう意味だ」
「理由を知らずに処置を決めれば、間違える可能性があります」
カエサルはしばらく黙っていた。
「彼らが移動する理由を調べたいと?」
「はい。兵力だけでなく、食料、荷車、家畜、家族の数も必要です」
「何のために」
「どの道を進めるか、どこで食料が尽きるかを推測できます」
カエサルが身を乗り出した。
「食料が尽きる場所?」
「移住民が多ければ、一日に必要な穀物も多くなります。移動速度と積載量が分かれば、補給なしで何日進めるか推定できます」
ラビエヌスが地図を見た。
「進路を予測できるというのか」
「可能性の高い道を絞れます」
「敵の数も分かるか」
「戦士と住民を分けて数えられれば」
カエサルは椅子から立ち上がった。
地図上の複数の街道を見比べる。
「彼らがローマ属州を通ると言っても、選べる道は少ない」
「狭い道ほど、荷車の列が長くなります」
「渡河には時間がかかる」
ラビエヌスが続けた。
「家畜が多ければ、草地を避けられない」
俺が言う。
三人の視線が、地図上の一点へ集まった。
カエサルは数呼吸の間、何も言わなかった。
そして、ゆっくりと笑った。
それは兵士を安心させる笑顔ではなかった。
新しい武器を見つけた将軍の笑みだった。
「面白い男だ」
カエサルは言った。
「病人を数えていたと思えば、次は民族を数えるのか」
「数えられるものは、できる限り数えます」
「数えられないものは?」
その質問に、俺はすぐ答えられなかった。
恐怖。
名誉。
怒り。
忠誠。
家族を失った悲しみ。
人間のすべてを、数字にできるわけではない。
「観察します」
俺は答えた。
「分からなければ、人に聞きます」
「よい答えだ」
カエサルは地図を巻いた。
「ルキウス・アエリウス。お前の最初の仕事を与える」
「何でしょう」
「ヘルウェティイ族が、何人で、何を持ち、どこへ進むのかを調べろ」
「偵察をするのですか」
「商人を使え。お前の父親は、ガリア中に取引相手がいるのだろう」
父の商業網。
荷車。
穀物取引。
宿屋。
市場。
軍事偵察とは異なる情報網である。
俺のMBAとデータ分析の知識を、戦争へ使う時が来た。
「期限は?」
「十二日だ」
「短すぎます」
「ヘルウェティイの使節には、十二日後に回答すると伝えた」
史実の記憶がよみがえった。
カエサルは交渉を引き延ばし、その間に軍を集め、ローヌ川沿いへ防御施設を築く。
すでに歴史は動き始めている。
「間に合わせろ」
カエサルは言った。
「できなければ?」
「お前が数字を集めている間に、彼らは国境を越える」
それは冗談ではなかった。
◇
天幕を出る。
外には、数千人の兵士がいた。
武器を磨く者。
穀物を運ぶ者。
馬へ水を与える者。
俺の命令で手を洗う者。
病から回復し、訓練へ戻った者。
十日前まで、俺は熱病で死にかけていた青年だった。
五日前までは、医師ですらなかった。
今。
俺はカエサルの幕僚となった。
知識があれば、人を救える。
数字があれば、組織を変えられる。
未来を知っていれば、歴史さえ変えられるかもしれない。
そう信じ始めていた。
それが希望であると同時に、最初の傲慢であったことを、この時の俺は知らなかった。
残り、十二日。
第10話をお読みいただき、ありがとうございました。
第1章の大きな山場となる回でした。
主人公はついにカエサルの幕僚団へ加わることになります。
しかし、それは成功の終着点ではありません。
むしろ始まりです。
一人の患者を救うこと。
一つの部隊を変えること。
軍団全体を変えること。
国家を動かすこと。
そこにはまったく異なる難しさがあります。
そして主人公は、自分の知識が歴史を変えられるかもしれないという強い手応えを感じ始めています。
それは希望であると同時に、危うさでもあります。
第2章からはいよいよガリア戦争が本格的に動き始めます。
引き続きお付き合いいただければ幸いです。
【ローマ豆知識⑧ ガリア戦争の始まり】
本作の舞台である紀元前58年は、カエサルによるガリア戦争が始まる年です。
この戦争は約8年間続き、現在のフランス、ベルギー、スイスの一部など広大な地域がローマ勢力下へ組み込まれていきます。
カエサル自身が記した『ガリア戦記』は世界史上もっとも有名な戦争記録の一つです。
本作では、その歴史の流れを背景に、医療と組織改革の視点から古代ローマを描いていきます。




