第20話:群れの獣医と黄金の手打ちパスタ、そして左肩に刻まれた十二針の誇り
【736日目・午前9時30分:九本の尻尾と、聴診器のぬくもり】
午前九時三十分。
朝の穏やかな陽光が降り注ぐバンカー前の石畳のテラスには、煮沸消毒した真っ白な布を敷いた即席の「診察台」が設えられていた。
その横で、葵は七十キロの線路を背負って運んできた銀色の密閉ステンレスシリンダーを開け、獣医師用の聴診器、動物用体温計、滅菌済みの2ミリリットル注射器九本、保冷ジェルに守られた『犬用7種混合ワクチン(狂犬病・ジステンパー・パルボウイルス等予防)の凍結乾燥アンプル』、そしてフィラリアと内部寄生虫を完全に駆除する『イベルメクチン・ピランテル配合チュアブル錠』を機能的に並べていた。
「動物病院が消滅したこの世界で、使役犬の群れにとって一番恐ろしい敵は、感染者でも銃弾でもないわ」
葵は注射用の滅菌蒸留水を最初のアンプルに注入して粉末を溶かしながら、真剣な瞳で説明した。
「蚊が媒介する『犬糸状虫』や、森のマダニよ。もし心臓に寄生虫が湧いてしまったら、どんなに強く訓練された軍用犬でも数ヶ月で心不全を起こして死んでしまう。でも、この予防薬と混合ワクチンを打っておけば、あなたの大切な九頭の家族はこれから五年間、感染症や寄生虫で命を落とすことは絶対にないわ」
健二は、一切の無駄がない葵の鮮やかで正確な手つきを感嘆の目で見つめていた。
「俺も図書館から持ってきた医学書は片っ端から読んだが、子犬の体重別の微量計算や凍結乾燥ワクチンの希釈までは手が出せなかった。本当に助かるよ、葵。――よし、誰から診てもらうか」
健二が口笛を短く一度吹いた。
すると、テラスの日陰で待機していた九頭の犬たちが一斉に立ち上がり、群れ(パック)の厳格な序列通りに美しい一列を作って並んだ。
先頭は絶対的リーダーの『クロ』。
その後ろに伴侶の『ハナ』、体重五十キロのロットワイラー『ゴウ』、双子のマリノア『ジン』と『リク』、そして最後に生後三ヶ月半になった四匹の若い犬たち(『カゲ』『テツ』『ライデン』、そして銀灰色の『ユキ』)がちょこんと座って続いている。
「群れのルールは、いつだってアルファ(ボス)が最初だ」と健二は言い、クロの背中を軽く叩いた。「クロが痛がらずにお前に身を任せる姿を下の八頭が見れば、誰一人として注射を嫌がったりしない」
クロが優雅な身のこなしで石のベンチの上へと飛び乗った。
葵はすぐに注射針を近づけるような素人じみた真似はしなかった。まず自分の両手のひらで聴診器の冷たい金属チェストピースを人肌まで温め、クロが冷たさに驚かないようにしてから、その左胸の肘のすぐ後ろへとそっと当てた。
十秒間、葵は目を閉じて静かに耳を澄ませた。
――ドクン、ドクン。力強く規則正しい鼓動が伝わってくる。
「安静時の心拍数は毎分四十八回。心雑音もゼロ、肺の音もオリンピック選手みたいに澄み切っているわ」
葵は聴診器を外し、クロの鮮やかなピンク色の歯茎と白い犬歯をチェックして微笑んだ。
「推定体重は四十二キロ、脂肪のほとんどない完璧な筋肉質ね。台風の日にあなたが手当てしたという左肩の傷も、癒着ひとつなく綺麗に治っているわ。本当に王様みたいに大切に育てられてきたのね、クロ」
苦みのある駆虫薬の錠剤を飲ませるには、かつて健二が断崖の上で使ったのと同じ方法が採られた。
イノシシの甘い白ラード(背脂)と乾燥レバーを練り合わせた小さな団子の中に錠剤を埋め込み、葵が手のひらに乗せて差し出すと、クロは「パクッ!」と一瞬で飲み込んで満足そうに鼻を鳴らした。
その直後、健二がクロの顎の下を撫でて乾燥ハツ(心臓)のジャーキーに意識を向けさせている隙に、葵はクロの肩甲骨の間の柔らかい皮膚を二本の指でスッとつまみ上げ、痛点の最も少ない皮下へとコンマ五秒でワクチンを注射した。
クロはピクリとも動かなかった。「もう終わったのか?」というように葵の顔を見上げ、嬉しそうに尻尾を振った。
続くハナも、ジンも、リクも、リーダーであるクロの姿を見ていたため、微動だにせず完璧に処置を受け入れた。
そして一番空気が和らいだのは、三番目に並んでいた体重五十キロの重戦車――ロットワイラーの『ゴウ』の番が来た時だった。
数時間前には特殊部隊の兵士二人の膝を体当たりで同時にへし折ったあの獰猛な番犬が、葵の前に座り、耳の付け根にダニがいないか葵の温かくて柔らかい指先で優しくマッサージされた瞬間――。
ゴウはうっとりと目を細めて「フゴォォ……」と幸せそうなため息を漏らすと、なんと五十キロの巨体をゴロン!と石畳の上に仰向けにひっくり返し、四本の太い足を空に向けてお腹を丸出しにする『完全なヘソ天ポーズ』になって、「もっと撫でてくれ!」と短い尻尾をパタパタと振ったのだ!
「……おいおい、ゴウ」
健二は呆れたように小さく息を吐き、わずかに口元を緩めた。「お前、俺たちの要塞の最終兵器だろうが。後ろで見てる子犬たちの前で、なんちゅう格好を晒してんだ」
「ふふっ、ゴウちゃんは本当はすごく甘えん坊なのよね」
葵は楽しそうに微笑みながら、ゴウの分厚いお腹を撫でてやりつつ聴診器を当てた。その周りでは、小さなユキやライデンたちが「ゴウおじちゃんがひっくり返った!」と言わんばかりに尻尾を振って跳ね回っている。
わずか一時間足らずで、体重十二キロに成長した四匹の子犬たちへのミリ単位の微量接種も含め、九頭すべての健康診断とワクチン・駆虫処置が完全に終了した。一頭たりとも鳴き声を上げる犬はいなかった。
【736日目・午後0時30分:黄金のデュラム小麦と、野生イノシシの手切りラグー】
太陽が島の真上に昇った正午過ぎ、バンカー内のキッチンは、この二年間の終末世界ではあり得ないほど芳醇な香りに包まれていた。
この島で健二は、玄米、ジャガイモ、サツマイモ、イノシシ肉、魚、卵、そしてヤギのチーズを手に入れてきた。だが、黒潮の荒らされたスーパーマーケットにも一切残っておらず、どうしても作ることができなかった料理が一つだけあった。
本物の硬質小麦で作る、『パスタ』だ。
大きな木のテーブルの上で、葵はシードバンクから持ってきた真空パックの一つを開封し、琥珀のように透き通った黄金色の『デュラム小麦(硬質小麦)の種子』を八百グラム、ボウルへと注ぎ出した。
健二が農協から回収していた手動式の石臼製粉機のハンドルを握り、石臼の隙間を最小に調整して、鍛え上げられた腕で一定の速度でゴリゴリと回し始める。
すると排出口から、普通の白い小麦粉とはまったく違う、鮮やかな黄色をした香り高い『デュラム・セモリナ粉(粗挽き硬質小麦粉)』がサラサラと雪のように落ちてきた。
「……すごい香りだ」
健二は指先でその黄色い粉をつまみ、目を細めた。「スーパーの棚で何年も死んでいた粉じゃない。生きている麦の匂いがする」
「母方の祖父が小さな洋食屋をやっていてね、日曜日のたびに手打ちパスタの作り方を叩き込まれたの」
葵はシャツの袖を肘までまくり上げ、木の作業台の上にセモリナ粉で美しい「噴火口」を作ると、健二を振り返った。「健二さん、あなた自慢の卵をお願い!」
健二は今朝採れたばかりの卵の籠から『六個の全卵と、二個分の卵黄』を取り出し、セモリナ粉のくぼみの真ん中へと次々に割り入れた。
殻が割れて中身が落ちた瞬間、葵は思わず「わぁっ……!」と感嘆の声を上げた。
その卵黄は、旧世界の工場生産の卵のような薄い黄色ではなかった。まるで沈みゆく夕陽そのものを閉じ込めたかのような、濃密で艶やかな『赤に近いオレンジ色』をしており、指でつまめるほど高く盛り上がっていたのだ!
「な、なにこれ……!? どうして黄身がこんなに真っ赤で濃厚なの!?」
「『ゼロ・ウェイスト(廃棄ゼロ)』の賜物だよ」
健二は料理人としての誇りを少しだけ滲ませて笑った。
「スープを取った後のイノシシの骨を焼いて砕き、干した島ミカンの皮や魚のアラと一緒にニワトリに食わせてるんだ。栄養をたっぷり吸収したニワトリは、岩みたいに硬い殻とこのオレンジ色の黄身を産んでくれるんだよ」
葵はフォークでその濃厚な卵を溶き、周囲のセモリナ粉を少しずつ混ぜ込みながら手でこね始めた。
だが、水分を極限まで減らして卵だけでつなぐ硬質小麦の生地は驚くほど硬い。昨日の四キロのカヤック漕ぎで手のひらのタコが裂けていた葵が少し顔をしかめたのを見て、健二がすぐに横から手を添えた。
「ここからは俺の筋肉を使え、葵。――どれ、貸してみろ」
健二は葵の隣に並び、分厚い胸板と肩の体重を乗せて、黄金色の生地を十分間力強く折りたたむようにこね上げた。男の手の熱と力でグルテンが完璧に結合し、生地は赤ちゃんの肌のように滑らかで弾力のある黄金の塊へと変わった。
濡れ布巾の下で三十分寝かせたあと、二人は削り出した杉の麺棒で生地を向こうが透けるほど薄く均一に伸ばし、セモリナ粉を振って軽く折りたたむと、研ぎ澄まされた包丁で幅七ミリの美しいリボン状に切り揃えた。
自家製の手打ち生パスタ――『タリアテッレ』の完成だ。
そして隣の薪コンロの上では、健二がその黄金のパスタを迎え撃つための「最高のソース」を仕上げていた。
トマトを使わず、肉の純粋な旨味だけで勝負するイタリアの伝統料理――『野生イノシシの手切りラグー・ビアンコ(白ワイン風・粗挽き肉ソース)』だ。
健二は熟成させたイノシシの肩ロース肉五百グラムと、自家製の『島ミカン燻製パンチェッタ(塩漬け豚バラ肉)』百グラムを、ミンチにするのではなく、あえて包丁で「三ミリ角の極小のサイコロ状」にすべて手切りしていた。こうすることで、噛み締めた時に肉の繊維の間から肉汁が弾けるのだ。
厚手の鋳鉄鍋でパンチェッタの脂をじっくりと溶かし出し、甘い玉ねぎと人参、刻んだ野生のローズマリーとニンニクを炒めて香りを移す。そこへ手切りのイノシシ肉を投入し、強火で表面に香ばしい焼き色(メイラード反応)をつけたあと、鍋底に張り付いた旨味の結晶を『発酵させた島ミカン果汁と玄米酒』で一気にこそげ落とした。
最後に、ゼラチン質がたっぷりと溶け込んだ黄金色の『イノシシの濃厚ボーンブロス(骨髄スープ)』を注ぎ、蓋をして弱火で二時間コトコトと煮込むことで、肉がほろほろに崩れる寸前の極上のラグーが出来上がっていた。
健二は沸騰した大鍋の湯に、磯で採った天然塩をひとつかみ投げ入れ、切りたてのタリアテッレを泳がせた。
生パスタの茹で時間は、わずか『九十秒』。
黄金色の麺が踊るように浮き上がってくると、健二は素早く湯を切り、熱々のラグー・ビアンコの鍋へと直接投入した。
そこへデンプン質を含んだ茹で汁をお玉に半分、自家製の『ヤギの発酵バター』を一欠片、そして『八ヶ月熟成させたハード・シェーブルチーズ(ヤギ乳の熟成チーズ)』を削りたての粉雪のようにたっぷりと振りかけ、鍋を力強くあおって空気を含ませながら一気に乳化させた!
――ジュワァァァッ……!
骨髄のゼラチンと発酵バター、そして熟成チーズがとろりと溶け合い、黄金色のタリアテッレの一本一本に輝くようなソースが隙間なく絡みつく。
「よし、冷めないうちに食おうぜ!」
木のテーブルに並べられた二つの皿から立ち昇る香りに、葵はフォークでタリアテッレをくるりと巻き取り、口へと運んだ。
――その瞬間、葵は言葉を失って瞳を閉じた。
噛み締めた瞬間、セモリナ粉と濃厚な卵黄が織りなす「シコシコ、モチモチ」とした強烈なコシと小麦の甘い香りが鼻腔を突き抜けた。
そして次の瞬間、包丁で手切りされたイノシシ肉から野生の力強い肉汁がジュワッと溢れ出し、ミカンの木の燻製香、ローズマリーの爽やかさ、そして八ヶ月熟成されたヤギのチーズの深いコクと塩気が、口の中で完璧な交響曲を奏でたのだ。
「……健二さん……」
葵は一口飲み込んだあと、潤んだ瞳を開いて健二を見つめた。
「世界が崩壊する前、私は父に連れられて東京の三つ星レストランのイタリアンやフレンチを何度も食べたわ。……でも、誓って言う。こんなにおいしくて、命が震えるようなパスタを食べたのは、生まれて初めてよ……!」
「三つ星レストランの連中は、ピンセットで飾りの花びらを乗せるのに夢中で、一番旨味のある骨や脂をゴミ箱に捨ててたからな」
健二は照れくさそうに笑いながら、自分の皿のパスタを豪快に頬張った。「この島じゃ、骨の髄の一滴まで全部使う。それに何より――この最高の小麦を七十キロ背負って運んできてくれたのは、お前だからな」
【736日目・午後8時00分:ハサミの音と、左肩の十二針】
その日の午後、二人は入り江に停泊している全長二十五メートルの『大型武装揚陸バージ』に上がり、外洋の大波を防ぐための鋼板溶接の下準備をして過ごした。
夜八時。
外の闇の中ではリクとゴウが前半の夜間警戒につき、バンカーの中では薪ストーブの暖かい火がパチパチと爆ぜていた。
テーブルの上で海王丸のドック図面を確認していた健二が、伸びすぎて目にかかる黒い前髪を何度も邪魔そうに手で払っているのを見て、葵は洗面所の引き出しで見つけた『裁ちバサミ』と『櫛』を手に取って歩み寄った。
「健二さん、もう何ヶ月も髪を切っていないでしょう?」
葵が微笑んでハサミを見せると、健二は自分の襟足を触って少し気まずそうに苦笑した。
「冬の前からだから、半年以上になるかな。髭は鏡を見ながらサバイバルナイフで剃れるんだが、後ろ髪だけは自分で切るとどうしても虎刈りになるから放置してたんだ」
「この丸椅子に座って、Tシャツを脱いで。切った細かい髪がシャツの中に入るとチクチクするから」
葵は清潔な白いタオルを広げて言った。「アークの救護所にいた頃、バラックの子供たち全員の髪を私が切ってあげていたのよ。いいからじっとしてて」
健二は一瞬だけ躊躇い、葵の手にある銀色のハサミを見つめた。
この二年間、他人に背後を見せて刃物を持たせるなど、健二にとっては自殺行為に等しい禁忌だった。だが、目の前の女は昨夜、自分の犬たちを守るために頬を銃弾で裂かれながらも戦い抜き、足元のクロもハナも彼女に完全に心を許している。
健二は静かに息を吐き、黒いTシャツを頭から引き抜いて脱ぐと、薪ストーブの前の丸椅子に腰を下ろした。
葵はタオルを肩にかけようと健二の真後ろに回り込み――そして、薪ストーブの赤い炎に照らし出された健二の『裸の背中』を見て、思わず息を呑んで手を止めた。
そこには、二年前に深夜のコンビニで時給九百円で働き、狭い六畳間で三千四百時間もゲーム画面ばかり見ていたという青白くひ弱な青年の面影など、1ミリたりとも残ってはいなかった。
何千時間も斧を振るい、オールを漕ぎ、玄武岩を積み上げ、死線を潜り抜けてきた彼の広背筋と三角筋は、まるで鍛造された鋼鉄の鎧のように分厚く隆起し、浅黒く引き締まっていた。
そして、葵の視線を釘付けにしたのは、彼の『左肩の上』だった。
鎖骨のすぐ後ろから肩にかけて、長さ七センチにわたる太く真っ直ぐな傷跡が走り、その傷跡の両脇には――『十二対の小さな白い点々の痕』が、まるで勲章のようにくっきりと並んでいたのだ。
四百六日目の夜明け前、暗い医療倉庫の中で、彼が麻酔スプレーだけで自らの裂けた肉に片手で撃ち込んだ『十二発の医療用スキンステープラー(ステンレス縫合針)』の跡だった。
気づいた時には、葵の左手がひとりでに伸び、その十二針の傷跡の上へ、壊れものに触れるかのようにそっと触れていた。
素肌に直接触れた葵の温かくて柔らかい指先に、健二の分厚い背中の筋肉がピクリとわずかに震えた。だが、彼は逃げなかった。
「……あの日、あなたが装甲トラックで出て行った三十分後に、私が壊れた足首を引きずってあの医療倉庫へ戻った時」
葵は健二の背中のすぐ後ろで、その傷跡を愛おしそうに指先でなぞりながら、震える小さな声で囁いた。
「床の上に、このスキンステープラーの空パックと、あなたの血がべっとりついた取扱説明書が落ちていたの。……あの時、私はビスケットも奪われて、足も折れて、暗い倉庫で一人ぼっちで泣き出しそうだった。でも、あなたが説明書を読みながら、片手で自分の肩に十二発も鉄の針を打ち込んで、そのままクロと一緒に一万体の群れの中へ戦いに向かったんだって知った時……自分の弱さが恥ずかしくなって、涙が止まったの」
葵は両手のひらを、健二の広くて温かい肩の上にそっと重ねた。
「私が十ヶ月間、七十キロの線路を歩き抜けたのは、あの血のついた説明書のおかげよ。挫けそうになるたび、私はあなたのこの左肩の傷を思い出していたの」
バンカーの中に、薪のはぜる音だけが静かに響いた。
健二は数秒間、何も言わずに自分の肩に置かれた葵の手の温もりを噛み締めていた。
世界が崩壊したあの日から、誰にも裏切られないようにと心の周りに張り巡らせていた厚さ八センチの鋼鉄の氷が、彼女の小さな手のひらの熱によって、跡形もなく溶けていくのが分かった。
健二は自分の右手をゆっくりと持ち上げ、左肩の上にある葵の細い指先を、タコだらけの大きな手で上から優しく包み込んだ。
「……あの朝、俺は格好つけて針を打ったわけじゃなかったんだよ、葵」
健二は前を向いたまま、今まで誰にも見せたことのないほど穏やかで静かな声で言った。
「ただ家を焼かれた怒りだけで動いてた。……だが、もしあの倉庫に血のついた説明書を落としていったおかげで、お前が生き延びて、こうして俺の島まで辿り着いてくれたんだとしたら……権藤の野郎に左肩を撃たれたのは、俺の人生で一番の幸運だったな」
その静かで飾らない言葉を聞いた瞬間、葵の胸の奥に深い温もりが広がり、瞳が熱いもので潤んだ。
「……ええ。私も、あの倉庫であなたに出会えて本当によかったわ、健二さん」
葵はこぼれそうになった涙をそっと指先で拭い、静かな笑顔を浮かべて、再び櫛とハサミを動かし始めた。
――チョキ、チョキ、チョキ……。
暖かなストーブの前で、規則正しいハサミの音が心地よく響く。
足元のラグの上では、クロとハナ、そして小さなユキが安心しきった寝息を立てていた。
健二はゆっくりと両目を閉じ、自分の背後を完全に一人の女性に預けながら、生まれて初めて味わう「絶対的な安らぎ」の中に身を委ねていた。
【737日目〜743日目:鋼鉄の『方舟』の建造】
翌日から七日間、その深い信頼と絆は、凄まじいまでの「開拓と作業のスピード」へと変わった。
互いの考えが言葉なしで通じ合う二人の人間が力を合わせた時、作業効率は単純な二倍ではなく、五倍にも十倍にも跳ね上がったのだ。
入り江の奥に係留された全長二十五メートルの『大型武装揚陸バージ』は、健二と葵の手によって、外洋の荒波を突破するための完全なる『装甲方舟』へと魔改造された。
健二は発電機とアーク溶接機をフル稼働させ、倉庫に予備として保管してあった二十枚の『厚さ十五ミリの防弾鋼板』をクレーンで吊り上げ、バージの両舷の船縁に沿ってぐるりと溶接した。
これにより船縁の防壁は高さ二・五メートルまで嵩上げされ、船首には高さ四メートルの太平洋のうねりを左右に受け流す「V字型の鋼鉄波除け(ウェーブ・ブレイカー)」が増設された。
健二が青い溶接の火花を散らす横で、葵は農学と動物行動学の知識を活かし、船体中央から後部にかけて「外洋の揺れでも動物たちが絶対に怪我をしない居住区画」を組み上げた。
・二重の防水幌で潮風を遮断した船尾には、乾燥した麦わらを厚く敷き詰め、揺れてもこぼれない固定式の水飲み場を備えた『四頭の乳用ヤギと二十羽のニワトリの専用畜舎』と、毛布を敷き詰めた『九頭の犬たちの装甲キャビン』を設置。
・中央甲板には、五トン用のラッシングベルト(荷締め帯)を網の目のように張り巡らせ、『四十本の軽油ドラム缶』『逆浸透膜・海水淡水化プラント』『大容量リチウムイオン蓄電池群』、そしてバンカーの屋根から取り外した『二十枚の産業用ソーラーパネル』を1ミリも動かないよう完全に固定した(※なお、本土から双眼鏡で覗かれた際に無人になったと気づかれないよう、バンカーの屋根には壊れたダミーのパネルを二枚だけ残す周到さだった)。
・さらに船底の断熱倉庫には、航海中の湿気と温度変化を防ぐため、ふるいにかけた清潔な木灰と粗塩を敷き詰めた木箱の中に、『十二ヶ月熟成させた十二本のイノシシ生ハム(プロシュート)』『四十個の熟成シェーブルチーズ』『ラードで密封されたコンフィの陶器壺』『玄米の麻袋』、そして小麦とコーヒーの種子シリンダーを、傷ひとつつけずにすべて収納した。
そして七百四十三日目の夕方。
二人はスコップを手に段々畑へと登り、健二が島に来た最初の月に植えた『四本の島ミカンの木』を、根元の火山灰土ごと大きく掘り起こした。
葵が接ぎ木を済ませた『フジリンゴとレモンの苗木』、そして段々畑の黒く肥沃な腐葉土を詰めた二十袋の土嚢とともに、四本のミカンの木がクレーンで方舟のデッキへと積み込まれると、二年間この島で積み上げてきたすべての命と財産が船の上に揃った。
夕陽を浴びて入り江に浮かぶ二十五メートルの鋼鉄船は、もはや単なる運搬船ではなかった。新しい世界へ命の種を運ぶ、不沈の『方舟』だった。
一方、丘の上のバンカーと溶岩洞窟の熟成庫は、今や完全に空っぽの「抜け殻」となっていた。
健二は土のついた作業手袋を外し、静まり返った丘の上のバンカーを見上げると、隣でクロと小さなユキの頭を撫でている葵を振り返った。
「俺たちの『引っ越し荷物の積み込み』は、これで100パーセント完了だ、葵」
健二の瞳に、冷たく鋭い狩人の光が宿った。
「明日の朝からは、フェーズ2に入る。あの空っぽになったバンカーと熟成庫の中に、篠原が持ってきたC4爆薬と、千リットルの廃油とイノシシの脂、そして三キロの激辛唐辛子を隙間なく詰め込むぞ。――お前の父親と百二十人のハイエナどもが一生忘れられない、最高の『歓迎会』の準備だ」
(第21話へ続く)
第20話をお読みいただき、ありがとうございます!
50キロの獰猛なロットワイラー『ゴウ』のまさかのヘソ天ポーズと、廃棄ゼロの赤い卵黄で作る手打ちタリアテッレ&手切りイノシシ肉のラグー・ビアンコ!そして健二の左肩に残る「12針の傷跡」を巡る二人の絆、いかがでしたでしょうか?
次回【第21話】からは、いよいよ反撃と脱出のフェーズ2へ突入します!
空っぽにしたバンカーと熟成庫に仕掛ける「イノシシの廃脂と3キロの激辛唐辛子を使った摂氏900度の焦土トラップ」、そして25メートルの方舟を外洋まで曳航するため、40体のゾンビと海賊がうろつく夜の造船所へ乗り込み、3200馬力の鋼鉄の怪物『海王丸』を奪取する極限の潜入作戦が始まります!
ぜひ次回もお楽しみください!
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■ 新作パニック短編公開のお知らせ
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ある漫画からインスピレーションを受け、日本の民俗学や都市伝説・怪異伝承について独自にリサーチを重ねて執筆した【新作パニック短編】を公開しました!
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人間の悪意と古の怪異が激突し、悪党たちが徹底的に処刑されるスリル満点のパニック&ざまぁ短編(約1万字・一気読み完結)です!
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・【本格イタリアン&逆転ドラマ短編】
高級レストランで「残飯シェフ」と見下されていた主人公が、エプロンを投げつけて独立!カウンター10席の小さな食堂から、ナポリ人ピッツァ職人の相棒と共に「廃棄ゼロの極上タリアテッレと薪窯ピッツァ」で奇跡を起こす、胸が熱くなる一気読み完結作です!
『厨房にゴミはない 〜高級店を辞めた『残飯シェフ』と、カウンター十席の奇跡〜』
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