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第1話:2年目の冷徹な計算と、イノシシの極上保存食と、『カテゴリーS+』の黒い相棒

本作を開いてくださり、ありがとうございます!

パニック〔SF〕三冠(日間・週間・月間第1位)を達成した『カテゴリーD(廃棄物)と切り捨てられたコンビニ店員のリアル・ゾンビサバイバル』の続編(2年目編・全5話完結予定)です!


冒頭に1年目のあらすじを組み込んでおりますので、前作を未読の方でもこの第1話から単体で問題なくお読みいただけます!

さらに進化した「ゼロ・ウェイスト(廃棄ゼロ)のイノシシ解体・保存食作り」「物理トラップによる無人島の要塞化」、そして「最高の相棒(軍用犬クロ)」との出会いをぜひお楽しみください!


【366日目〜380日目・2年目の始まりと要塞化計画】




 世界が『急性狂暴化症候群(ゾンビパンデミック)』によって崩壊してから、ちょうど三百六十五日が過ぎていた。




 一年前、三千四百時間のサバイバルゲーム経験を誇っていた二十四歳のコンビニ夜勤店員だった俺は、現実の残酷な物理法則と化膿の激痛に打ちのめされて愚かな「ゲーム脳」を捨て去り、七十キロの地獄を這うようにして歩き抜き、政府の安全地帯である軍港へとたどり着いた。


 だがそこで、防弾ガラスの向こうで温かいコーヒーをすすっていた主席監察官・谷口(たにぐち)が俺に下した判定は――『カテゴリーD(社会的価値ゼロの廃棄物)』だった。


 奴らは船が半分も空いているのに「コンビニ店員一人に浪費する米はない」と俺を見捨て、野良犬を追い払うように『非常用乾パン二枚』だけを投げ与えて銃口を向けたのだ。




 俺は絶望の淵から立ち上がり、放棄された港町の薬局、ワークウェア店、書店、ホームセンター、そして農協から「種と農具と実用書」を徹底的に回収し、小型漁船で本土から四キロ沖に浮かぶ名もなき火山岩の無人島へと渡った。


 手のひらの血豆を潰して段々畑を耕し、雨水濾過装置と井戸を整え、魚を獲って塩漬けの干物を作り、誰にも頼らず自分一人の頭と両手で、飢えも恐怖もない「本物の楽園」を築き上げたのだ。




 そして昨日――三百六十五日目の夕方だった。


 肉体労働者をすべて切り捨てて「カテゴリーAの上級国民」だけで閉じこもった結果、畑を耕す者も給水ポンプを直す者もおらずに自滅・崩壊した政府コロニーから、骨と皮に痩せこけた谷口たち三人の役人が救命ボートで俺の島へと漂着した。


 この期に及んで「収穫物を徴発する!」と喚き、直後に額を地面に擦りつけて食料を乞うた谷口に対し、俺は一年前のあいつと寸分違わぬ声で『カテゴリーA(完全に無用な非熟練労働者)』と判定を下した。そして一年間保管していた「乾パンの空袋」と「泥つきの生のジャガイモ一個」を投げ与え、38口径リボルバーの銃口を突きつけて外海の潮流へと追い返してやったのだ。




     ◇




 三百六十六日目の夜。


 自分の手で組み上げたテラスの木のベンチから立ち上がり、石造りの農家の中へ戻って獣脂のロウソクに火を灯した瞬間、俺の顔から昨日の笑みは完全に消え去っていた。


 その代わりに宿っていたのは、この十二ヶ月間、俺の命を守り続けてきた氷のように冷徹な計算だった。




 なぜ昨日、俺は浜辺で引き金を引いて谷口たちを射殺しなかったのか?


 理由は純粋に実務的なものだ。俺の手元にある38口径の銃弾は、交番の保管庫から回収した分を含めても残り『五十五発』しかない。弾薬工場が永遠に消滅したこの世界では、真鍮の銃弾一発は金塊一キロよりも価値がある。すでに脱水症状で死にかけている丸腰の骸骨三人を処刑するために貴重な三発を消費するのは愚かだったし、何より、真夏の七月の入り江に三つの死体を放置すれば、腐敗してハエが湧き、俺が真鯛の刺し網を仕掛けている大切な漁場を汚染してしまうからだ。




 だが、俺は自分に都合のいい嘘をつくつもりはなかった。


 コンビニの店長室に閉じこもり、嫌な現実が勝手に消えてくれるのを祈っていた二十四歳のガキは、もうどこにもいない。




 俺は木のテーブルの上に、一年前に黒潮の港から持ってきた沿岸の海図を広げ、ロウソクの明かりの下で午後の潮流のラインを爪でなぞった。


 スクリューを失ったあの救命ボートが暗礁に乗り上げて転覆するか、あるいは外海へ流されて谷口たちが四十八時間以内に脱水死する確率は「四十パーセント」。


 だが、夜間の引き潮の反転流に乗って、北西八キロにある砂州の半島へ打ち上げられる確率が「六十パーセント」あった。




 もし、谷口のような『カテゴリーAの寄生虫』が生きたまま本土の砂浜にたどり着き、そこで武装した他の生存者グループ――国防警備隊の脱走兵や、崩壊したコロニーの私設警備隊の残党、あるいは略奪団――と遭遇したら、あいつは自分の命と温かい飯を買うために何を売るだろうか?




 奴は鍬(くわ)も振れなければ、魚も獲れず、銃も撃てない。


 奴が持っている唯一の「通貨」は、ゾンビが一体もおらず、湧き水とトマトとジャガイモの段々畑があり、生け簀に魚が泳ぎ、そして『たった一人の男』しか守っていない豊かな無人島の正確な座標だ。




「……来るな」


 俺は揺れるロウソクの炎に向かって静かに呟いた。「あのクソ役人が陸に上がっていれば、必ず船と銃を持った連中を連れて戻ってくる」




 俺はこの一年で、新しい世界の絶対的な真理を学んでいた。


 『人間は一人なら生き残れるが、群れれば必ず奪い合って死ぬ』。


 他の人間が求めているのは対等な協力ではない。自分の代わりに頭を下げて泥を掘り、命令に従って食料を差し出す「カテゴリーDの奴隷」だ。


 この島の平穏を守り抜きたければ、俺は今日から農夫の思考を捨て、この島全体を「攻城戦の要塞」へと作り変えなければならない。




 三百六十七日目の夜明けから、俺の作業量は二倍になった。




 まず手をつけたのは『備蓄の分散(リスクヘッジ)』だ。


 すべての食料と種と医薬品を段々畑の上の農家に一極集中させておけば、万が一敵に屋根を焼かれたり占拠されたりした瞬間にすべてを失う。


 俺は四日間かけて、玄米の麻袋の半分、真空パックの種子の缶、抗生物質と消毒薬の箱、そして濾過した真水二十リットルを、島の東側の断崖の中腹に口を開けている狭い天然の溶岩洞窟へと運び込み、入り口を石積みと野生のツタで完全に偽装した。




 次に着手したのは、この島で唯一の弱点――『南の入り江から続く一本道』の改造だった。


 俺の島は周囲一キロ足らずの火山岩の塊で、北・東・西の三方は高さ三十メートルの切り立った黒い玄武岩の絶壁に守られている。波が打ちつけるあの垂直の岩壁は、プロの登山家でも登ることはできない。


 唯一の上陸地点は南側の狭い玉砂利の浜辺だけであり、そこから家がある上の段々畑へ上がるには、両側を岩壁と土手に挟まれた幅二メートル足らずの急なつづら折りの坂道を百五十メートル登るしかなかった。




 俺には地雷も機関銃もない。だが、書店から持ってきた『農村建築と林業土木の技術書』と、農協から回収した鋼鉄製の滑車、船舶用ロープ、そして無限の玄武岩があった。




 俺は十日間、八月の太陽の下でツルハシと六角カナテコを振るい、坂道の中腹を見下ろす高さ六メートルの崖の上に、丸太を組んだ傾斜発射台を作り上げた。


 豚の脂とエンジンオイルを塗って滑りを良くした杉丸太の台の上に、俺は合計『二トンを超える巨大な玄武岩の塊と丸太』を積み上げた。それを支えているのは、一本の鉄のストッパーピンだけだ。そのピンに結んだ極細のステンレスワイヤーを苔と草の下に這わせ、最上段の石垣の裏にある俺の狙撃陣地まで引き込んだ。


 俺が石垣の陰からワイヤーを力いっぱい引き抜けば、二トンの岩石と丸太が狭い一本道のど真ん中へ雪崩れ落ち、一列になって登ってくる人間を骨ごとすり潰す計算だ。




 さらに、落石に驚いた敵が飛び込みそうな坂道の両脇の茂みには、深さ六十センチの『落とし穴(ピット・トラップ)』を八つ掘った。


 底にはただの木の杭ではなく、農家の納屋で見つけた錆びた古鎌の刃と、長さ十五センチの太い建築用五寸釘を打ち抜いた樫の板を敷き詰め、その上に破傷風と化膿を引き起こす泥と汚物を塗ってから、細い竹の格子と枯れ葉で完璧にカモフラージュした。




 最後に、俺は坂道の距離を歩測し、壁面の岩に白い消石灰で三つの小さな目印をつけた。


 『三十メートル』『二十メートル』『十メートル』。


 銃身の短い警察の38口径リボルバーでは、二十五メートル以上離れた標的に当てるのは至難の業で、貴重な弾の無駄遣いになる。だが、石垣の上に両手首を固定して十〜十五メートルの距離まで引きつければ、確実に一発で人間の頭蓋骨か胸板を撃ち抜ける。






【381日目〜392日目・野生イノシシの罠と『廃棄ゼロ』の極上保存食】




 要塞化工事を終えた八月中旬、予備の丸太を切り出すために島の北側に広がる鬱蒼とした松と樫(かし)の雑木林へ入った俺は、これからの食生活を劇的に変える「痕跡」を発見した。




 岩の間から湧き水が滴り落ちる小さな泥場の周りに、深く鋭い「二つの蹄(ひづめ)の足跡」が無数に刻まれ、松の木の根元の樹皮が太い牙で荒々しく削り取られていたのだ。


 イノシシ(野生化した猪豚)だった。


 おそらく何十年か前、この島で暮らしていた老夫婦かその先代が飼育していた豚が、台風で小屋が壊れた際に北の森へと逃げ出し、野生化してドングリや葛(くず)の根を食べて密かに繁殖していたのだろう。




 これまで俺のタンパク源は、海で獲れる魚とタコ、そして大豆だけだった。


 だが、魚は高タンパクでも脂肪分が少ない。やがてやってくる一月と二月の凍てつく厳冬期を戦い抜くためには、高カロリーを燃やし、長期保存を可能にする『動物の濃厚な脂(動物性脂肪)』がどうしても必要だったのだ。




 体重六、七十キロの野生のイノシシに、38口径のリボルバーで挑むのは自殺行為だ。


 イノシシの頭蓋骨の正面は分厚い鉄板のように硬く傾斜しており、拳銃の鉛弾など角度が悪ければ頭蓋骨の表面で弾かれる。手負いにして突進されれば、カミソリのような牙で太ももの大腿動脈を裂かれて五分で失血死するだろう。




 俺は銃ではなく、知識と物理を使った。


 獣たちが毎晩水を飲みに通る藪の中の「獣道(けものみち)」を見極め、港から持ってきた直径四ミリの焼き入れ鋼ワイヤーを使って『くくり罠』を仕掛けた。根元の太い杉の幹にワイヤーの一端を固定し、若いしなやかな木の幹を極限まで曲げてバネにし、イノシシが輪の中に前足を踏み入れた瞬間にワイヤーが締まって前足ごと宙へ吊り上げる仕組みだ。こうすれば、獲物が地面を踏ん張ってワイヤーを噛み切ることはできない。




 二日後の夜明け。


 先端の尖った一・五メートルの鋼鉄製六角カナテコを手に北の森へ登った俺の耳に、二百メートル先から激しい鼻息と枝の折れる音が届いた。




 剛毛に覆われた、体重六十五キロはある立派な雄のイノシシが、左の前足を鋼のワイヤーに括られて暴れていた。


 俺は決して正面からは近づかなかった。獲物が暴れ疲れて動きが鈍るのを木陰でじっと待ち、杉の幹の背後から音もなく回り込むと、一年間の鍬とオールで鍛え上げた両肩の筋肉の力をすべて乗せ、イノシシの耳のすぐ後ろ――延髄と頭蓋骨の継ぎ目へ、円錐状の鋼鉄の穂先を垂直に突き刺した。




 ゴスッ!


 イノシシは苦しむ暇すらなく、一瞬で絶命した。




 俺は獲物の四肢を太い竹の棒に縛り付け、肩に担いで段々畑の農家へと運び下ろした。


 そこから、本当のサバイバル料理が始まった。


 かつてコンビニで働いていた頃の俺は、毎日何十パックもの賞味期限切れの弁当や豚肉を、何の感情もなく黒いゴミ袋へ放り込んで捨てていた。だがこの島において、命を奪った獲物の肉や骨や血を1グラムでも捨てることは、自分自身の命に対する裏切りだった。




 まず、軒下の太い梁にイノシシの後脚を逆さまに吊るし、頸動脈を切り開いて、下に置いた清潔なプラスチックたらいへ『すべての血』を一滴残らず受け止めた。


 血が固まらないよう、すぐに天然の粗塩を一掴みと玄米酢を加えて泡立て器で素早くかき混ぜる。この新鮮な血液に、細かく刻んだ脂身とタマネギ、庭のローズマリーを混ぜて腸に詰めて茹で上げれば、鉄分とタンパク質と塩分の塊である極上の『ブラッドソーセージ(ブーダン・ノワール)』になるのだ!




 次に、大鍋で沸かした熱湯を毛皮の上から何度も浴びせかけ、ナイフの背を使って硬い剛毛を綺麗にこそげ落とし、コラーゲンたっぷりの分厚い皮(ゼラチン質)をそのまま残した。


 腹を開く時は、胃や腸を傷つけて中身が肉に触れないよう、指二本を刃の裏に添えて慎重に切り開いた。




 取り出した『心臓(ハツ)、肝臓(レバー)、腎臓(マメ)、そして舌(タン)』は、解体作業で消費したカロリーを補うため、その日の昼に熱い鋳鉄のフライパンでニンニクと一緒にジュウジュウと焼き上げ、粗塩を振って胃袋へ収めた。噛み締めるたびに野性味あふれる濃厚な鉄分と旨味が溢れ出し、全身の細胞が歓喜に震えるほどの美味さだった。




 胃袋と何メートルもの小腸は、入り江の岩場へ持っていき、裏返して海水で二時間かけて徹底的に揉み洗いしたあと、真水と粗塩とローズマリーの葉に漬け込んで臭みを完全に抜いた。これで最高の天然ソーセージのケーシング(皮)が手に入った。




 そして、赤身の肉以上に俺が宝物として扱ったのが、背中と内臓の周りから剥がし取った『十二キロの真っ白な脂身(背脂と腹脂)』だった。


 俺はその脂身をサイコロ状に細かく刻み、少量の水を入れた大鍋で焦がさないよう弱火で五時間かけてじっくりと煮出した。水分が蒸発し、黄金色のカリカリの油かす(チッチョリ)が浮き上がってきたところで清潔な布で濾(こ)すと、透き通った黄金色の液体――冷めると雪のように真っ白になる『純粋なラード(豚脂)が九リットル』も採れたのだ!




 電気のない無人島において、この九リットルのラードは黄金以上の価値を持つ。


 俺はそのうちの三リットルを使い、塩とニンニクとハーブをすり込んだイノシシの肩肉やスネ肉を、摂氏八十〜九十度の低温のラードの中で三時間じっくりと煮込むフランス伝統の保存調理法『コンフィ(Confit)』にした。


 肉を陶器の壺に入れ、その上から溶かしたラードをたっぷりと注いで満たす。ラードが冷えて白く固まると、肉を空気と雑菌から完全に遮断する天然の真空パックとなり、冷蔵庫がなくても半年以上、しっとりとした極上の肉をそのまま保存できるのだ!




 さらに、後ろ脚のモモ肉と分厚いバラ肉には、体重の五パーセントの粗塩と野生の黒胡椒、ローズマリーをこれでもかとすり込み、平らな石の重しを乗せて一週間かけて余分な水分(ドリップ)を完全に抜き去った。


 その後、裏山の斜面に石と粘土で築いた『冷燻(れいくん)用の燻製室』に吊るし、二メートル離れた火床から地中の竹筒を通して「湿らせた樫のおが屑とミカンの剪定枝の冷たい煙」を三日間送り続け、絶対に腐らない『熟成パンチェッタとスモークベーコン』へと仕上げた。




 最後に残った太い大腿骨や背骨すら捨てなかった。


 斧の峰で骨を真っ二つに叩き割り、大鍋で十二時間煮込んで骨髄のエキスとゼラチン質をすべて抽出すると、それを平らな岩の上で天日干しにして、お湯を注ぐだけで高カロリーのスープになる『携帯用・固形ボーンブロス(骨髄ブイヨン)』を作った。


 そして、鍋の底に残った不純物混じりの黒い廃脂(獣脂)は、松の幹に傷をつけて集めたベタベタする『松脂(まつやに)』、そして畑の隅で育てて乾燥・粉末にした『野生の激辛赤唐辛子(カプサイシン)』と混ぜ合わせ、四つの大きな素焼きの壺に詰めて、あの坂道の中腹の崖の上へと設置した。


 もし敵が攻めてきたら、この壺に火をつけて狭い坂道へ投げ落とす。沸騰した獣脂と松脂の炎が皮膚に張り付き、気化した高濃度のカプサイシンが敵の肺と眼球を焼き尽くす『天然のナパーム兼・催涙ガス弾』だ。






【393日目〜405日目・台風の漂着者と、『カテゴリーS+』の黒い相棒】




 八月の終わり、猛烈な大型台風が二昼夜にわたって島と本土の間の海峡を荒れ狂った。


 俺は窓に木の板を打ち付けた石造りの家の中で、梁から吊るされたスモークベーコンの香ばしい匂いに包まれながら、静かに嵐が過ぎ去るのを待った。




 三日目の夜明け。


 風が止み、澄み切った青空の下でまだ白い大波がうねりを上げていた朝、俺は一・五メートルの鋼鉄のカナテコを手に、横穴に引き上げてある和船の様子を確かめるため、入り江へと続く坂道を下りていった。




 その時だった。


 潮騒の音に混じって、カモメの鳴き声でもなければ、感染者の濁った呻き声でもない「別の音」が聞こえた。


 ハッ、ハッ、という低く掠れた荒い呼吸音と、金属製のカラビナが黒い岩肌にぶつかるカチャカチャという乾いた音だ。




 俺は即座に足を止め、腰を落として右手をホルスターの38口径のグリップに添えた。


 濡れた大岩の陰を音もなく進み、入り江の東端の岩場へと視線を向けた。




 二つの尖った玄武岩の間に、台風の高波でどこかの埠頭からちぎれて流されてきたらしい、国防警備隊の黒い軍用ゴムボート(複合艇)の残骸が半分裂けて引っかかっていた。


 そしてそのすぐ横、波しぶきがかからない平らな岩棚の上に、一頭の「犬」が横たわっていた。




 ただの飼い犬ではなかった。


 体長一メートルを超え、体重は三十五キロ以上ある、漆黒と濃い灰色の毛並みを持つ『軍用・作業系ジャーマン・シェパード』だった。分厚い胸板には、色褪せた文字で『国防警備隊・警備犬』と記されたオリーブグリーンのケブラー製タクティカルベスト(戦術胴衣)がまだ装着されている。


 そのベストの背中についた鋼鉄製の安全カラビナが、転覆したゴムボートのナイロンロープの塊に複雑に絡みつき、岩場の上でわずか五十センチしか動けない状態に拘束されていたのだ。




 風上から俺の匂いが届いた瞬間、黒いシェパードが弾かれたように頭を上げた。


 吠えなかった。軍用犬は敵に部隊の位置を悟られないよう、幼犬の頃から「決して無駄吠えをしない」よう徹底的に訓練されているからだ。


 その代わり、シェパードは真っ白で鋭い牙を剥き出しにし、胸郭の奥から地響きのような低い唸り声を響かせながら、脱水と飢えで小刻みに震える後ろ足を必死に踏ん張って立ち上がろうとした。




 俺は五メートルの距離を保ったまま、その犬の目を注意深く観察した。


 瞳孔は黒く澄んでおり、朝の太陽の光に反応してしっかりと収縮している。鼻先は乾いているが、感染特有の黒い泡や出血はどこにもない。


 体にも噛み傷は一つもなかった。唯一見えた怪我は、嵐の中でロープを引きちぎろうともがき続けたせいで、戦術ベストの金属バックルが左肩の皮膚に深く食い込み、擦り剥けて赤く化膿し始めている傷口だけだった。




 事情はすぐに飲み込めた。


 谷口が言っていた通り、本島の政府コロニーで最後の米袋を巡る銃撃戦が起きて崩壊した際、兵士たちは自分たちの命惜しさに逃げ出すか殺し合いを始め、桟橋のボートに繋がれていたこの警備犬を置き去りにして見捨てたのだ。




 もし俺がまだゲーム脳の素人だったら、「よしよし、今助けてやるぞ」などと素手を伸ばして近づき、人間を制圧するために訓練されたこの軍用犬の顎――噛む力二百キロを超える牙――によって、ナイフを抜く暇もなく喉笛を食い千切られていただろう。


 誇り高い軍用犬を手懐けるのに必要なのは、甘い言葉や撫で回しではない。『距離と、敬意と、そして食料』だ。




 俺は慌てることなく一度上の家へと戻った。


 低いプラスチックの洗面器に冷たい井戸水を汲み、薬局から持ってきた経口補水塩の粉末をほんの少しだけ溶かした。そしてもう一つの器には、犬にとって猛毒となるタマネギや塩分を一切使わずに煮出した『イノシシの骨髄スープ』と、柔らかく茹でた赤身肉と脂身の塊を四つ入れた。




 岩場へ戻った俺は、先端にフックをつけた長さ三メートルの竹竿を使って、二つの器をシェパードの鼻先四十センチのところまで静かに滑り込ませた。


 それから六メートル離れた岩の上に腰を下ろし、カナテコを地面に置いて、敵意がないことを示すために犬の目を直視せず、ただ静かに水平線を眺めた。




 十分間、シェパードは警戒を解かず、ピクピクと鼻を動かして温かい骨髄スープの匂いを嗅いでいた。


 だがやがて、極限の渇きと飢えが警戒心を上回った。シェパードは器に顔を突っ込むと、むさぼるように水を一滴残らず飲み干し、わずか三十秒でイノシシの肉とスープを平らげた。




 その日は、ロープを解こうとはしなかった。


 昼、夕方、そして翌日の夜明けと、俺は決まった時間に水とイノシシの肉を運び続け、毎回一メートルずつ座る位置を近づけながら、俺自身の汗の匂いと薪の煙の匂いを風に乗せて覚え込ませた。


 二日目の夕方、俺が器を持って二メートルの距離まで近づいた時、黒いシェパードはもう唸らなかった。ピンと立っていた耳を後ろへペタリと伏せ、尻尾を下げたまま、その賢そうな黒い瞳で俺の両手をじっと見つめ、「クゥン……」と一度だけ短く鼻を鳴らしたのだ。




 だが、左肩に食い込んだベストの金属バックルの傷口は、夏の暑さで黄色く化膿し始めていた。


 今すぐベストを切り離して感染症を治療しなければ、敗血症で死んでしまう。かといって、麻酔もなしに針と糸で縫おうとしたり、無理やり押さえつけて傷口を触ったりすれば、激痛から反射的に噛みついてくるだろう。


 俺は料理人の知恵を使った。




 俺はイノシシの挽き肉と、匂いの強い甘いラードを練り合わせて、ソフトボール大の『特製肉団子』を三つ作った。


 そして医療バッグから、人間の体重五〜六十キロ用である広域抗生物質『アモキシシリン(500mgカプセル)』を一錠と消炎鎮痛剤を半分取り出し、スプーンの背で細かい粉末にすり潰すと、一つ目の肉団子の中心に包み込んだ。濃厚なイノシシの脂の香りと旨味が、薬の苦味を完全に覆い隠してくれる。




 念には念を入れて、俺は左腕に分厚いタオルを三枚重ねて巻きつけ、その上から牛床革の作業手袋と厚手のジャケットを着込んでから、シェパードの隣の岩に静かに腰を下ろした。


 革手袋の手のひらに、薬入りの一つ目の肉団子を乗せて差し出す。


 シェパードはためらうことなくそれに食らいつき、噛みもせずに丸呑みした。




 続いて二つ目、三つ目の肉団子を木の皿の上に置き、シェパードが夢中になって皿に残ったラードを舐め回している、その数秒の隙だった。


 俺は砥石でカミソリのように研ぎ澄ましたサバイバルナイフを右手に持ち、ピンと張ったナイロンロープとケブラーベストの肩ベルトの下へ刃を滑り込ませると、皮膚に一ミリも触れることなく、スパンッ!と二太刀でベルトを完全に切り裂いた!




 胸を締めつけていた拘束が外れた瞬間、シェパードの肩がビクッと揺れたが、こちらに牙を剥くことはなかった。


 俺は犬が最後の肉を飲み込むのと同時に、傷口には指一本触れず、人肌に温めた『ヨード消毒液』をボトルの上から化膿した肩の傷口へ直接たっぷりと注ぎかけ、汚れを洗い流した。あとは胃の中に入った抗生物質が、内側から細菌をすべて殺してくれるはずだ。




 処置を終えて立ち上がり、俺が家の方向へ坂道を登り始めた時だった。


 背後で、玉砂利を踏むカシャ、カシャ、という軽い足音が続いた。




 俺は足を止めて振り返った。


 拘束から解放された巨大な黒いシェパードが、左肩をわずかに庇いながらも、頭を高く掲げ、俺の左足のすぐ横――軍用犬が訓練で教え込まれる「脚側行進(ヒール)」の完璧な位置――にピタリと寄り添って、真っ直ぐに俺の顔を見上げていたのだ。




 軍用犬という生き物は、生涯でただ一人の「ハンドラー(主人)」にしか忠誠を誓わないように選抜・訓練されている。


 かつての制服を着た主人たちは、自分たちが生き残るためにこいつをボートに縛りつけたまま見捨てた。だが、カテゴリーDの廃棄物である俺は、こいつに水と肉を与え、痛みを消し、自由を与えた。


 こいつの純粋で絶対的な魂には、ラミネート加工された身分証も社会階級も関係なかった。この瞬間から、こいつにとって『群れのリーダー(主人)』は俺ただ一人になったのだ。




「……クロ」


 俺はしゃがみ込み、島の玄武岩のように黒く逞しいその首筋に、初めて素手を触れた。「お前の名前は今日から『クロ』だ。来い、俺たちの家へ帰るぞ」




 毎日イノシシの骨髄スープと抗生物質入りの肉を食べさせた結果、十日もするとクロの左肩の傷は綺麗に塞がり、体重は四十キロの鋼のような筋肉の塊へと戻った。


 クロは愛玩用のペットなどではなかった。人間の四倍の聴覚と、風上五百メートル先の不審者の匂いを嗅ぎ分ける嗅覚、そして音を立てずに茂みを移動する戦闘訓練を極めた、文字通り『カテゴリーS+』の最強の兵士だった。




 俺たちは毎朝毎晩、島の尾根と段々畑を一緒に巡回した。


 わずか一週間で、俺はクロが軍で叩き込まれていたハンドサイン(手信号)をすべて理解した。肩に指を二本触れれば「その場で伏せて気配を消せ」。手のひらを前に突き出せば「先行して偵察しろ」。


 夜、薪ストーブの横の毛布で眠る俺のふくらはぎに、クロの温かい背中がピタリと押し当てられているのを感じるたび、俺はこの終末の世界で唯一、背中を預けられる本物の相棒を手に入れたのだと実感した。




     ◇




 そして、四百五日目の朝――俺が谷口を浜辺から追い返してから、ちょうど四十日後のことだった。




  九月の澄み切った午前六時半。


 俺が最上段の石垣の裏で朝の薪を割っていたその時、南の海を見下ろす展望岩の上に座っていたクロが、吠えることなくスッと四本の脚で立ち上がった。


 クロの背中の黒い毛が針のように逆立ち、喉の奥から「ヴヴヴ……」という、すぐ隣の俺にしか聞こえないほど低い振動音が漏れ、その鼻先がコンパスの一点を示すように南西の海峡へと固定された。




 俺は音もなく斧を地面に置き、石垣の陰に身を低くして海洋双眼鏡を構えた。




 海岸から二キロ沖。穏やかな朝の海面に白い航跡を引きながら、全長十五メートルほどの灰色の鋼鉄製船舶――上部構造物に操舵室を備えた『元・港湾警備艇』が、俺の島の入り江めがけて一直線に突き進んできていた。


 双眼鏡のピントを船首の甲板に合わせる。




 黒い防弾チョッキを着込み、ポンプアクション式のショットガンを構えた巨漢の男を先頭に、自動拳銃やライフル、鉈(なた)で武装した九人の男たちが甲板に並んでいた。


 そしてその一番前で、船首の手すりにしがみつき、小綺麗なシャツを着て俺の家の煙突と赤いトマト畑を憎々しげに指差している男――『谷口』の顔があった。




 俺は双眼鏡を下ろした。


 俺の心拍数は、1回たりとも跳ね上がらなかった。一年前、最初の五体のゾンビを前にして手が震えて弾を外したあのパニックは、もう俺の血管のどこにも残っていなかった。




 俺は手を伸ばしてクロの分厚い首筋を撫で、クロがいつでも飛び出せるように俺の膝へと静かに体を寄せるのを感じた。


 ホルスターから38口径リボルバーを抜いてシリンダーの五発を確認し、ベストのポケットに予備の弾薬箱を二つ入れ、一・五メートルの鋼鉄の六角カナテコを左手に握りしめると、草むらの下に隠された『二トンの落石トラップ』のワイヤーを見つめた。




「時間通りだな、クロ」


 俺は氷のように冷たい笑みを浮かべて囁いた。「俺たちの『カテゴリーA』のお客様を、歓迎しに行こうぜ」




(第2話へ続く)


第1話をお読みいただき、ありがとうございます!


『リアル・ゾンビサバイバル』第2部(2年目編)、ついに開幕です!

1年目の開拓をさらに進化させた「野生イノシシの解体・ラードのコンフィ・冷燻ベーコン作り」「2トンの玄武岩落石&カプサイシン焼夷弾による島の要塞化」、そして新たな相棒『カテゴリーS+の軍用犬・クロ』の登場、いかがでしたでしょうか?


次回の【第2話】では、いよいよ谷口が引き連れてきた10人の武装略奪団が島の入り江に上陸し、狭い一本道で「物理と化学の地獄」が炸裂します!


もし「続きが気になる!」「クロが頼もしすぎる!」「イノシシの保存食が美味そう!」と思っていただけましたら、ぜひ【ブックマーク登録】と下の【評価】を入れて、次話の更新をお待ちいただけると最高の励みになります!


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▼前作(第1部・1年目編)をまだ読まれていない方はこちら!(パニック〔SF〕日間・週間・月間 第1位 三冠達成!)

『『カテゴリーD(廃棄物)』と切り捨てられたコンビニ店員のリアル・ゾンビサバイバル ~ゲーム脳を捨てて無人島を開拓したら、俺を見捨てた『カテゴリーA』の上級国民たちが食料を乞いに来たけれど、もう遅い~』

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