4 芋の妖か、はたまた両手鍋の付喪神か
山囃子の尾の絵具をすべて払い終えるまで、思ったよりも時間が掛かった。疲れたのか、山囃子は壁に寄り掛かって目を瞑っている。
主膳がふと、衣服に目を落とすと、外で行き倒れたためか、土が付いていた。このままだと、知らず知らずのうちに部屋を汚すかもしれない。今更ながらに思い至って、行李の中から小袖を出す。
着替えながら箒を探して部屋を見回すと、すぐに見付かった。着替え終わってから、掃き掃除を始める。
黙々と掃き掃除をしていると、戸外の音がよく聞こえた。物売りの声や、誰かの笑い声、楽しそうな話し声など、戸外はとても賑やかだ。
もう少しで板の間を掃き終わりそうな時に丹弥が帰ってきた。
板の間に上がった丹弥を見上げる。初めて並んで立ち、丹弥の背が主膳より頭一つ分くらい高いと知った。
「すまねえ。待たせたな。あれ、少し長屋が広くなったか」
恐らく、帰ってくるまで一刻(約二時間)も経っていない。主膳としては思いの外、早かったと思っているから、謝らないでほしかった。
目上の人に謝られると、どう答えていいか、わからなくなる。
「勝手に絵具と硯に触りました。申し訳ございません」
頭を下げると、丹弥が片手に大きな風呂敷を持っていると気付く。今まで丹弥の顔を見上げていたから、目に入らなかった。
「いや、片付けてくれて助かる。掃除までさせて、すまねえ」
「お気になさらないでください。住まわせていただくのですから、掃除でも何でも、何なりとお申し付けください」
急いで掃除の片付けをしている間に、丹弥が板の間に大きな風呂敷を置いた。大きさのわりには軽そうだ。
「この風呂敷、師匠が主膳に、って。着物とか生活に入用なものが入っているらしい。よければ使ってくれと言っていた」
箒を元の場所に戻した主膳は、風呂敷の前に端座した。着物以外にも何か入っていそうな大きさだ。
どこまで情け深いのだろう。如川の優しさが身に沁みる。
主膳は風呂敷に向かって深く頭を下げた。
「次に丹弥様が如川様のお屋敷へ赴かれる際は、連れて行ってくださいませんか。如川様にお礼を申し上げたいのです」
如川から受けた恩はあまりにも大きい。返せるようなものなど何も持っていないが、せめて顔を見て感謝の気持ちを伝えたかった。
「気にするな。孫が増えたみたいだって喜んでいたぞ。礼を言うと、師匠の人柄だと、これぐらいしかできず、ごめんねと謝らせそうだ」
丹弥が硯を手に持って、壁際に置いてある文机の前に腰を下ろした。
「そんなことより、描いてほしい妖ってのは、どんなのだ。描いてみてくれ」
丹弥の隣に座ると、筆と共に何も描かれていない紙を丹弥が差し出してきた。主膳は筆だけ受け取り、文机に目を向ける。
「西洞院紙は、ありませんか。さらの紙に描くなんて、もったいなくて、できません」
塵紙である西洞院紙のほうがいいと訴えると、丹弥は文机の下を覗き込んだ。
丹弥が文机の下から、紙の山を取り出す。一番上の紙は、黒い紙かと思うほど、端から端まで文字や絵などが墨で書き込まれていた。
紙の山を横から見ても、黒い。他の紙も一番上の紙のように、隅から隅まで何かが書き込まれているのだろう。
丹弥が、紙の山をぱらぱらと捲って、中から一枚、紙を引き出した。
「西洞院紙って浅草紙みたいなもんだよな。そんなのでいいなら、紙屑買いに売る紙でも、いいか? これが一番、描く場所がありそうだ」
申し訳なさそうに眉を下げた丹弥から、紙をもらった。書き込まれた文字や記号などで、ほとんど黒い。描ける場所は、拳二つ分ほどしかないが、十分だ。
文机の近くの壁にもたれて眠っている山囃子をよく見る。
まずは冬の狸みたいに、ふっくらとした丸い姿を表す卵型の円を描いた。手足と柔らかな半円の耳を付け足してから、一番大事なびんざさらに取り掛かる。
びんざさらは拘りたいが、丹弥を待たせてはいけないから、手早く描き上げる。
びんざさらさえ描けば、後は容易い。口と大粒の丸い目を描いたところで、尾を描き忘れていたと気付く。細長い、しなやかな尾を急いで描き足した。
一旦、全体を見たら、ふぁっさりとした毛並みも表したくなった。しゅっしゅっと体に線を走らせてみたが、思うようにいかない。描かないほうが良かったかなと後悔しながら、筆を置いた。
改めて全体を見てから、山囃子と見比べる。あまり上手ではないけれど、山囃子らしさは表せていると思う。
「こんな妖です」
どこまで伝わるだろうか。不安になりながら、丹弥に絵を差し出した。
「芋の妖か。いや、取手があるから、両手鍋の付喪神か」
主膳の絵を受け取った丹弥が大真面目な顔で呟く。
特色を上手く掴んだつもりだったが、まったく伝わらなかったようだ。
京で一度、山囃子に頼まれて、山囃子の姿を描いた時がある。できた絵を見た山囃子は、「へた、へた」と繰り返しながら地団駄を踏んでいた。
あの時は、格好良く描いてあげればよかったかな、なんて軽く考えていた。だが、丹弥の態度から、人が見ても下手な絵らしいと気付く。
「誰にでも得手不得手はあるからな。言葉か何かで教えてくれ」
丹弥の気を遣ったような言葉に、やはり自分には画才がないらしいと思い知る。妖を見るしか能がないのかもしれない。そう思いながら目を伏せる。
「師匠から妖の本を何冊か借りたんだ。風呂敷の中に入れたままだったから出すぞ」
立ち上がった丹弥が風呂敷のほうに行く。
丹弥が風呂敷から本を取り出している間に、山囃子が目を覚ました。また下手だと騒がれたくなくて、主膳は文机の上に置かれた山囃子の絵を裏返す。
幸いにも山囃子は、丹弥が持っている本と絵巻物に目が向いていた。
「似た妖がいれば教えてくれ」
丹弥が主膳の横に本と絵巻物を置き、腰を下ろす。
一番上の本から開こうとした時、どこからか鐘の音が聞こえた。時刻を知らせる鐘の音だろうか。
鐘の音は京も江戸も同じだ。懐かしく思いながら、今は何刻だろうと耳を傾ける。
一打目の余韻が消えかかった時に二打目が聞こえて、変だなと引っ掛かった。
「江戸には捨て鐘がないのですか」
京では、これから時刻を伝える鐘を突きますよと知らせる意味で鐘が一つ鳴った。それから少し間を置いて時刻の鐘が鳴った。
「あるぞ。江戸では三つ打つんだ」
丹弥の言う通り、三つ鐘が鳴った後、少し間が空いた。それからまた鐘の音が聞こえる。
ここは江戸なんだと耳からも思い知らされた。
「ちょうど昼餉時だ。腹が減っただろう。何か食べに行くか」
さっと立ち上がった丹弥が戸口に向かう。
「今すぐ支度をします」
主膳は慌てて立ち上がり、山囃子の元へ向かった。
「山囃子も一緒に行こうか」
主膳は山囃子の前に開いた右手を置いた。山囃子が手のひらに乗ったのを確かめてから、手のひらを肩まで持っていく。山囃子が慣れたように手のひらから肩へと移り座った。
主膳は山囃子が落ちないように、ゆっくりと立ち上がる。
「妖の名は、山囃子というのか」
丹弥が、主膳の右手の辺りに目を向けながら、近付いてくる。
「びんざさらを持っている、小さな狸みたいな妖なんですよ。今は、ここにいます」
主膳は左肩に座った山囃子を指差す。
丹弥が身を屈めて、指差した辺りに顔を近付けた。目を細めたり、大きくしたり、首を傾げて別の向きから見たりしている。
時々、山囃子から少しずれた辺りを見ているから、妖が見えない人なのだろう。
今だって、少し嫌そうな顔をしつつも、じっと耐えている山囃子の右耳の上辺りを、まじまじと見ている。
どうやっても見えないからか、丹弥の眉間には皺が寄っていた。
ふと、丹弥からは主膳の言葉を疑う様子が、まったく見られないと気付く。
「妖がいるなんて嘘だと思わないんですか。丹弥様には見えないのですから」
江戸までの道中、主膳の様子から、そこに何かいるのかと問う人は何人かいた。
山囃子と呼ばれる妖がいる。そう伝えても、信じてくれる人は一人もいなかった。
笑い飛ばす人、憐れみの籠った目で見る人、みんな見えないから、端からいないと決め付けていた。山囃子は、主膳の妄想の生物だと思われていた。
翻って、丹弥は、どうだ。道中で出会った人々と同様に見えない人なのに、主膳の言葉を疑う様子がない。
「俺が見えるかどうかと妖がいるかどうかは関係ねえだろ。俺が見えねえものは存在しねえ、と考えたら、龍も鳳凰も存在しねえことになる。俺には見えなくとも、主膳が、いると言うなら、いるんだろ」
「丹弥様は、信じてくださるのですね」
京を出てから、初めて山囃子の存在を信じてくれる人と出会った。思わず呟いた声は、自分でもわかるくらい喜びが滲んでいた。少し恥ずかしくなり、頬が熱を持つ。
「俺だけじゃねえ。きっと師匠も信じてくれるはずだ」
丹弥がさらに顔をぐっと山囃子に近付ける。ますます嫌そうな顔になった山囃子が、とうとうびんざさらで顔を隠した。
「やはり、まったく見えねえ。見えていたら、きっと今日明日には描けたんだが。すぐに描けず、すまねえ」
首に手を当てながら、もどかしげに言う丹弥の眉間には皺が寄ったままだ。
「いえ、丹弥様に上手く伝えられず、申し訳ございません」
「さっきから気になっていたが、丹弥でいい。様を付けて呼ばれると、こそばゆい」
丹弥に許されても、恩人である丹弥を対等であるかのように呼べない。かと言って、様を付けて呼ぶと嫌がられるだろう。
「丹弥さん、なら許してもらえますか」
恐る恐るお伺いを立てた。
「様を付けて呼ばれるより、ましか。そもそも、ちゃんと名乗っていなかったよな。俺は、佐野丹弥だ。ま、とりあえず外に食べに行くぞ」
「丹弥さん、改めて、これからよろしくお願いいたします」
「よろしく」
素っ気なく返して、再び戸口へと歩き出した丹弥に続いた。




