3 江戸に来た理由
「まあ、まずは親元に帰さないと」
如川の発言に、主膳は首を横に振った。
「いえ、親はおらず、京から一人で江戸に来ました」
正確に言えば、山囃子と共に来た。だが、如川も丹弥も妖が見えない人のようだから、山囃子のことは伏せた。
「江戸に来たのは、妖を描いてもらうためかい」
如川は、なぜか面白そうに主膳を見ている。
「そうです。どうしても描いてほしい妖がいるので、絵の上手な方を探して江戸まで来ました」
「京にも絵が上手な人間は、いるだろうに」
不思議そうな如川に沈黙を返す。
京だと土御門家に見付かって連れ戻されるかもしれない。だから江戸まで来たとは伝えないほうがいいだろう。京に縁がありそうな如川から土御門家に繋がる恐れを潰した。
「まあ、でも、妖か。ところで主膳殿、泊まるところは、決まっているのかい」
「いえ、泊まるところはおろか、ここがどこかも、わかりません」
主膳の正直な返答を聞いた如川が、何か思い付いたのか、にやりと笑って丹弥を見た。
「丹弥、お前が描いてあげなさい。龍や鳳凰などの目に見えない存在が描けないと悩んでいただろ。妖を描けば、何か掴めるかもしれないよ。ついでに主膳殿を、ここに住まわせてあげなさい。拾ったからには、きちんと面倒を見なければね」
思いも寄らない言葉に当惑する。丹弥を見ると、明らかに困った顔を如川に向けていた。
助けてくれた丹弥にさらに迷惑を掛けているのだと、まざまざと感じる。無理だと断ってほしいと願いながら丹弥を見詰めた。
「見ての通り、とっちらかっている長屋での暮らしに耐えられるか。ちなみに部屋は、この一室しかねえから、狭いぞ」
断りの言葉を待っていたのに、思いがけず住む覚悟を問われた。ひとまず、部屋の全体を見ようと身体ごと振り返って、あまりの異様さに息を呑む。
六畳の部屋の奥には、床が見えないほど、たくさんの紙が散らばっていた。墨一色か彩色されているかの違いはあれど、どの紙にも風景や動植物が描かれている。素人目にも上手だと、わかる絵ばかりだ。
尋常ではない量の紙は、部屋の奥から土間に向かって押し寄せ、六畳の部屋の半分近くを飲み込んでいた。
このまま紙が増えていく一方だと、直に布団も敷けなくなるだろう。
主膳が寝ていた布団の近くには、絵を描くための道具が散らばっている。
何本もの筆や刷毛が入った小さな木箱。それぞれ異なる色の粉が入った、いくつもの白い小皿。片手に乗る大きさの、文字が書かれた包み紙。
包み紙は、小皿の近くにいくつか散らばっているが、中身は絵具だろうか。
部屋のほとんどを紙と、絵を描く道具に使われている。絵への熱に満ちた部屋に茫然とした。
何気なく、絵を描くための道具が散らばっている辺りに再び目を向ける。
主膳が寝ていた布団の近くに、まだ乾いていない墨を湛えた硯を見付けた。寝起きに感じた墨の匂いは、ここから来ていたようだ。
「丹弥、あまりの有様に主膳殿が驚いているよ」
如川の楽しそうな笑い声で主膳は我に返った。
他人様の部屋をまじまじと見ていた不作法さに気付いて顔が熱くなる。
「主膳殿、丹弥はいささか絵にのめり込みすぎるきらいがある。この通り、とっちらかっているのは、いつものことだし、絵のために、動物をどこぞから連れてきたり、植物を採ってきて腐らせたりするのも珍しくない。挙句、今日は、とうとう人間まで拾ってきやがった。あと、ろくに物も食わねえ時があるんだよ」
如川が苦笑いしながら丹弥の欠点を次々と挙げる。
丹弥は眉間に皺を寄せながらも、何も言い返す様子はない。すべて事実だからだろうか。
「主膳殿、どうか妖の絵が仕上がるまででいいから、ここに住んで面倒を見てやってくれよ。丹弥、今日は俺の屋敷に来る日だっただろ。今から来い」
如川に勝手に決められて丹弥は、きっと迷惑に思っているに違いない。
おろおろしながら、土間にいる丹弥を見上げる。丹弥も主膳のほうを見たため、目が合った。丹弥の顔には表情がなく、心情が読み取れない。何を言えばいいのか逡巡していると、丹弥のほうが先に口を開いた。
「好きに寛いで待っていてくれ」
どこの誰かもわからない人間を残したまま出掛けるなんて。主膳は丹弥の不用心さを諫めようとしたが、口を閉じる。急いでいるのに、さらに時を奪ってはいけない。
「主膳殿、しばらく留守を頼むよ」
如川も主膳を疑っていないようで、ごく軽い口振りだった。
二人の優しさを裏切ってはいけない。
主膳は自分を残して出かける二人に深く深く頭を下げた。
二人の気配が完全に消えてから主膳は端座を崩した。
「主膳、絵師が見付かってよかったね」
山囃子が跳ねながらびんざさらを鳴らす。
「助けてくれた上に絵を描いてくれる。それだけでもありがたいのに、描き終わるまで、ここで暮らしてもいいだなんて、如川様も丹弥様も良い人だね」
部屋の中を悠々と歩き始めた山囃子と違い、主膳は知らない部屋に残されて落ち着かない。とりあえず布団を畳みながら、これからどうするべきか考える。
布団を畳み終えた時、ふと、硯が目に留まった。
墨を湛えた硯の陸には、一匹の丸々とした鯉が彫られた固形墨が休んでいる。固形墨をよく見れば、磨ったばかりなのか、まだ磨り口が濡れていた。
墨を拭く布を求めて目を走らせる。絵具が入った小皿と小皿の間に、斑に墨が付いた布を見付けた。恐らく、この布でいつも拭っているのだろう。
固形墨を手に持った時に、すっきりとした匂いをより近くに感じた。将監が使っていた墨とは違う匂いだ。将監の墨は、ほんのりと甘やかさが混じった匂いをしていた。
松煙墨らしく、光沢のない磨り口を拭う。将監が使っていたのは、磨り口が光を弾く油煙墨だった。
将監が使っていた墨との差異ばかりが頭に浮かぶ。
眠くなるほど安らぐ、将監の墨の匂いが幼い頃から好きだった。だが、土御門家から逃げた主膳は、もう二度と、あの匂いを感じられないだろう。胸にじんわりと鈍い痛みが広がり、持っている固形墨をぼんやりと見る。
拭き終えた固形墨は、どこに仕舞えばいいのだろう。それらしい箱が見当たらなくて、布の上に置いた。
硯に溜まっている墨液は、そのままにしておく。
時が経つほど墨液は悪くなると将監から教わった。だが、時が経った墨液を好んで使う人もいると聞く。丹弥の好みも、絵にどんな墨液を使うのかもわからないから、触らなかった。
固形墨の始末を終えて一息吐く。後は端座して待とうと思ったが、床に散らばっている絵が気になった。
絵を眺めている山囃子の傍に行き、腰を下ろす。
間近で見たかったが、手に取る勇気はなく、上から覗き込む。触れるのを躊躇うぐらい上手な絵ばかりだ。
京にいた頃、屏風絵や襖絵など、じっくり見たい絵が数えきれないほどあった。だが、将監の目としての役目があったから、満足するまで見られた機会など、そうそうなかった。
こんなに近くで、好きなだけ絵を見られるなんて初めてだ。
ふと、絵の上に置かれた一冊の本に気付いた。絵にできるだけ触れないよう、慎重に本を手に取る。
本を開くと、近くにあった鶏の絵と同じような姿の鶏が描かれていた。
鶏の絵は他にも何枚かあったはずだ。辺りを見回すと、姿まで同じ鶏の絵が他に二枚あった。本に描かれた鶏を手本にして、何枚も描いたのだろう。
同じように見えるが、どことなく違って見える三枚の鶏の絵と本の鶏を見比べた。
よく見れば、筆の流れや鶏冠の形が違っていて、一つとして同じ絵はないと気付く。もしかしたら、実物を見て描いたのかもしれない。
丹弥が描きたいものを直向きに見て描いているのだと、ひしひしと伝わってくる。
「山囃子、お前は幸せ者だね」
どの絵を見ても、描きたいものに対する熱を感じる。仮に丹弥が狩野家と縁がなかったとしても、眼前の絵を見れば、丹弥に描いてほしいと思っただろう。ここまで熱心に絵に向き合っている人に描いてもらえるなんて、山囃子は幸せ者だ。
「幸せなら酒盛りをしようよ」
山囃子が、びんざさらを鳴らしながら、主膳の周りを跳ね回り始めた。
知らず張り詰めていた気が緩む。思えば、江戸に辿り着くまでの道中も、山囃子の底抜けの明るさに何度も心が救われていた。
「人間を憎まないでくれて、ありがとう」
嬉しそうに一際高く跳ねた山囃子の落ちる先には、絵具が入っていると思しき包み紙がある。包み紙の上に落ちる前に急いで山囃子を両手で受け止める。
両手の上で山囃子はますます笑みを深めていた。
「丹弥様が帰って来るまで大人しく待っていようね」
もっふぁりとした山囃子の毛並みは肌触りが良く、放し難かった。だが、山囃子の自由を身勝手に奪ってはいけないと、板の間に下ろす。
また山囃子が包み紙を踏みそうになるかもしれない。とりあえず、絵具が入っていると思しき包み紙だけを纏めようと思い立った。
包み紙に書かれた色名を読みながら拾う。どんな色だろうと想像しながら、一つ一つ拾い集めた。
集め終えた包み紙は、すでに包み紙がいくつか入っている小箱に収めた。
包み紙を片付けただけでも部屋が少し広くなった気がする。
次は絵具が入った小皿だ。小皿は一か所に集めた。
優しい夕焼けから譲り受けたような赤。宵口の空を砕いたような青。雨に濡れた後の地面のような茶色。水をたっぷり溜め込んでいる葉のような緑。他にも様々な色がある。
小皿に入っている、色とりどりの絵具を見ているうちに、触ってみたくなった。
少しくらいなら触っても許されるだろうか。
赤い絵具の粉が入っている小皿が目に留まった。恐る恐る薬指の先をちょんと赤い絵具に付けてみる。
赤い絵具は、固くさらさらとしていた。水を加えれば、墨のように紙に色を付けられるのだろうか。この赤は、紙の上ではどんな色になるのだろう。そのままの色なのだろうか。
どうやら山囃子も絵具が気になったようだ。びんざさらから片時も手を放さないために両手が使えない山囃子は、手の代わりに使っている、猿のように長い尾で絵具に触れた。
ふさふさの尾の先に、赤色の絵具の粉が付く。
「ぅわう」
不思議な声を漏らした山囃子は、目をぱちくりさせて赤くなった尾の先を見詰めていた。かと思えば、よっぽど嫌だったのか、顔を顰めて激しく尾を振り始めた。
びんざさらを置いて手で払えば、少しは落ちるかもしれない。なのに山囃子は、びんざさらを握ったまま、尾だけを振り続けている。
山囃子があまりに激しく尾を振るから、このままだと尾がちぎれるのでは、と主膳は怖くなった。
「今、払ってあげるから、じっとしていてね」
主膳は声を掛けてから山囃子の尾に触れた。刹那、びくりと尾が震える。だが、主膳の手を拒まず、大人しく尾を任せている。信頼に報いるべく主膳は、できるだけ優しく山囃子の尾を撫でた。




