14 大事なものなんて
室内が次第に明るくなってきた。もう夜が終わる。だが、まだ安堵はできない。主膳は抱えているアクドポッカリを見た。
アクドポッカリは飢えた野犬のように涎を垂らしながら唸り続けている。
涙は、もう流していない。涸れたからなのか、噛みたくないと思う気持ちが消えたからなのかは、わからない。
アクドポッカリの異変に気付いた時から、どれくらい経っただろう。二刻(約四時間)ぐらいな気がするが、実際はもっと短いかもしれない。
ついさっきまで起きていた山囃子も先ほど眠った。当分、起きないだろう。
明六つ(約四時三十分)の鐘の音で、近くの布団で寝ていた丹弥が目を覚ました。
「一晩中、アクドポッカリを抱えていたのか」
申し訳なさそうに眉を下げている丹弥から目を逸らす。
いつでも眠れると伝えないと、丹弥は眠らない気がした。だから眠くなったら、アクドポッカリの身体の自由を奪う術を掛けると伝えていた。
丹弥を寝させるために吐いた嘘だったが、ばれると気まずかった。
丹弥がアクドポッカリを抱えている主膳の手元をじっと見ている。
「俺が見えれば、代わってやれたんだが」
「丹弥さんと違って、俺はしっかり寝ていますから、お気になさらず」
丹弥は納得のいかない顔をしつつも布団を畳み始めた。
「そういや、大事なことを忘れていた」
文机を見て丹弥が呟いた。
「これ、返す。大事な物なんだろ。ここに置いとくから、手が空いたら持っていけ」
丹弥が指差す先の文机を見ると、猩々緋の釧(腕輪)があった。以前、お礼として渡した釧だ。
「お礼なので、差し上げますよ」
「手放したくねえと強く思っている物を渡されても迷惑だ」
未練がばれていた。そんなにわかりやすかっただろうか。恥ずかしくて主膳は俯いた。
「真に大事な物事は人に譲るな」
顔を伏せている主膳の頭上から丹弥の厳しい声が降ってくる。
「以後、気を付けます」
どう気を付ければいいのか、わからないくせに。怒られる怖さから取り繕うように言葉を返した自分を責める。
今まで、望まれれば命すら投げ出す覚悟とともに将監の目を務めていた。
いつだって優先すべきは将監で、将監の望みのままに生きてきた。自分の考えよりも、将監の考えに従う生活が普通だった。
思い返せば、将監のために、土御門家のために、大事にしたかった物事を切り捨ててきた人生だったのかもしれない。
心ともなくアクドポッカリを持つ手に力が籠っていたようだ。抗うようにアクドポッカリが激しく身を捩っている。
アクドポッカリに気を取られている主膳の前に、丹弥がどかっと荒々しく腰を下ろした。
怒っているのだろうか。恐る恐る顔色を窺う。どう見ても怒っているようには見えず、胸を撫で下ろした。
「出掛ける時は、アクドポッカリを置いていくんだよな。逃げねえように何か術を掛けるのか」
「身体の自由を奪う術は、アクドポッカリに痛みを与える恐れがあります。より苦痛が少ないであろう結界に閉じ込める方法にしようかと」
一晩中、アクドポッカリが苦痛を感じない方法を考えていた。色々な方法が浮かんだが、今の主膳にできる方法となると限られていた。将監ならば、もっと良い方法を選べたのに。
「結界を張るのに、どれくらい掛かる」
「四半刻(約三十分)もあれば、できます」
「じゃあ、結界を張ったら、すぐ亀岡屋に行くぞ。着く頃には間違いなく開いている」
「でも丹弥さん、朝餉を食べないと」
立ち上がった丹弥に慌てて言い募る。丹弥は不思議そうな顔で主膳を見下ろした。
「主膳は腹が減ったのか」
「俺は飲まず食わずで問題ありません。しかし、丹弥さんはお腹が空いているのでは」
丹弥が強く眉根を寄せたため、眉間に深い皺ができる。怒られる気配を感じて身構えた。
「さっきも言っただろ。大事な物事は人に譲るな。今、お前にとって一番、大事なのは何だ。アクドポッカリを救うことだろ。一番を俺に譲るな」
いつも通りの淡々とした言い方だ。だが、どこか厳しく聞こえて、つい、目を伏せる。
息を荒くして、主膳に噛みつこうとしているアクドポッカリと目が合った。
言葉の通じない獣の目だ。人語を解せる知性があったはずなのに、今の姿からは一片も感じない。
アクドポッカリは、刻一刻と悪くなっていた。これ以上、悪くなったら、どうなるのだろう。焦りと恐ろしさが、まともに考える力を奪っていく。
「何か手伝えるか」
先ほどとは一転、気遣うような、柔らかさがある声を掛けられる。
再び主膳の前に座った丹弥は、力強さを持ちつつも、凪いだ瞳を主膳に向けていた。落ち着いている丹弥のおかげで、主膳の心も静まっていく。
「では、釧を解いて、四つの玉で四角を作ってください。大きさは半紙本二冊分くらいで、お願いします」
「手だけでも清めればいいか」
「そのままで問題ありません。清めすぎると、アクドポッカリにとって毒になるので」
丹弥が釧を解き始めた。器用だとわかる手付きだ。
「塩とか、札とかは、要らねえのか」
「あれば張りやすいですが、アクドポッカリにとって害のある結界になるので使いません」
丹弥が四つの玉を言われた通りに置いた。ここからが大事だ。
「丹弥さん、関守石ってご存知ですか」
「この先に入るな、って意味で置かれる石だろ」
「そうです。みんながその意味をわかっているから、ただの石なのに、入ってはいけない所と入ってよい所を分ける力を持つのです。結界も同じです。見る人がわかる、内と外を分ける境界を作ることができれば、張れるはずなのです」
久々に我流の簡易結界を張る。上手くいけばいいけれど。
幼い頃は、よくわからないまま、我流で簡易結界を張っていた。その度に、土御門家の当主に「我流は危ない。ちゃんと手続きを踏め」と叱責された。
結界を張る正しい方法を教わってからは、火急の場合しか我流の簡易結界を使わなくなった。最近で使ったのは一年くらい前だろうか。
「そんな簡単に張れるもんなんだな。もっと難しい言葉とか道具とかが要るのかと思った」
「守りとしての結界や、凶悪な妖を閉じ込める結界などの場合は、正しい手続きを踏みますよ。そうしないと、恐ろしい事態になる時もありますから。ただ今回は、アクドポッカリを少しの間、閉じ込めるだけなので、簡易結界でも問題ないでしょう。丹弥さん、この玉の内側がアクドポッカリを閉じ込める場所ですからね」
丹弥も内と外を分けて見始めたのだろう。結界が成立した。
アクドポッカリを持っている手を恐る恐る結界の中に突っ込んだ。
途端にアクドポッカリが絶叫する。耳がびりびりして、手が緩みそうになる。
「苦しいだろうけれど、少し、ここで待っていてね」
アクドポッカリを結界の中に置いてすぐ、手を引っ込めた。すかさず主膳の手があった場所にアクドポッカリが噛みつく。一瞬でも遅れていたら、噛まれていた。
清めていなくても、結界の中は苦しいのだろう。アクドポッカリが痛みに悶えながら呻いている。
早く、早く楽にしてあげなければ。
「行きましょうか」
転げるように土間に出た主膳を丹弥が笑った。
「さすがに着替えは、してくれ。寝巻のままで行くと、何事かと思われる」
真夜中に飛び起きて、そのままの格好だった。将監の目として正装を纏って夜に起きていた時と同じ気分だったから、気付かなかった。
「周りが見えなくなるくれえアクドポッカリが大事なんだな」
丹弥の小さな呟きがアクドポッカリの唸り声を掻い潜って主膳の耳に届いた。




