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追放王子の放浪記 ―灯りを守る旅―  作者: 伊佐波瑞樹


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【第73話 種の蔵に残るもの】


 石蔵の中には、土の匂いが残っていた。


 黒く染まった畑の腐ったような匂いではない。


 乾いた土。


 古い麻袋。


 木箱。


 麦殻。


 豆の青臭さ。


 季節を越えて残された種の匂い。


 ハルダ村が、まだハルダ村であろうとしている匂いだった。


 避難小屋から移ってきた人々は、最初、誰も大きな声を出さなかった。


 石蔵の壁に背を預け、互いの顔を見て、息を整える。


 子どもたちは、まだ怖がっている。


 老人たちは、疲れ切っている。


 脚を怪我した男は、レクスターに固定された布を見下ろしながら、何度も「すまない」と呟いている。


 若い母親は、子どもを抱きしめたまま泣いていた。


 涙が止まらないのだろう。


 けれど、その泣き声は避難小屋にいた時とは違っていた。


 閉じ込められた恐怖の涙ではない。


 まだ怖い。


 まだ終わっていない。


 それでも、ここまで来られた。


 水がある。


 種がある。


 人がいる。


 その安堵が、今になって身体から溢れ出しているようだった。


 マーガレットは、入口近くで水桶を抱えていた。


 レクスターに言われた通り、安全確認済みの雨水を、少しずつ配っている。


「一気に飲まないでね」


 彼女は子どもたちに言った。


「ちょっとずつ。ゆっくり」


 小さなサムが、両手で木杯を持って頷いた。


「ゆっくり」


「うん。偉い」


「硬いパンも、ゆっくり?」


「うん。硬いからね」


「硬いの、きらい」


「分かる」


 マーガレットは真剣に頷いた。


「すごく分かる」


 サムが少し笑った。


 その笑いを聞いて、近くの女の子ルダも口元を緩める。


 たったそれだけで、石蔵の中の空気が少し柔らかくなった。


 アレックスは、その様子を入口から見ていた。


 外には、まだ黒い畑が広がっている。


 集会倉庫には黒い樽があり、拘束したサヴィルもいる。


 村長オルグ、トーマ、ミラ、巡察二人は祠近くで応急処置中だ。


 全員を石蔵へ移すには、さらに安全な道を確保しなければならない。


 やることは多い。


 多すぎる。


 それでも、石蔵の中にあるこの一息は必要だった。


 人は、ずっと緊張し続けることはできない。


 どこかで息をする場所が必要だ。


 その場所が今、この石蔵になり始めている。


 カイは、種袋の前に座っていた。


 父トーマの字で書かれた麦の袋。


 母ミラが縫ったらしい豆の袋。


 村長の印が押された共同種の木箱。


 それらを一つずつ見ている。


 触れたいのだろう。


 けれど、汚れた手で触っていいのか分からず、膝の上で拳を握ったままだった。


 アレックスは彼の隣に腰を下ろした。


「触らないのか」


「……汚れてるかもしれないから」


「手を拭けばいい」


「いいのか」


「村のものだろ」


 カイは少し黙り、布で手を丁寧に拭いた。


 そして、父の字がある袋へそっと触れた。


 壊れものに触れるような手つきだった。


「父ちゃんの字、雑なんだ」


「そうなのか」


「うん。母ちゃんにいつも怒られてた。『読めない』って」


 カイは小さく笑った。


 それから、その笑顔が崩れた。


「……また、怒ってくれるかな」


「きっと」


「父ちゃん、畑に入ってた時、変だった」


「ああ」


「俺のこと、分かってないみたいだった」


「でも、戻った」


「うん」


「カイが呼んだから」


 カイは袋に触れたまま、目を伏せる。


「俺、声しか出してない」


「その声が必要だった」


「でも、アレックスたちがいなかったら助けられなかった」


「俺たちだけでも無理だった」


 カイが顔を上げる。


 アレックスは石蔵の中を見た。


 水を配るマーガレット。


 休むように言われながらも、負傷者の状態を気にしているレクスター。


 布を運ぶ子どもたち。


 種袋を確認するミレ婆。


 それぞれが、できることをしている。


「一人で全部は無理だ」


 アレックスは言った。


「だから、声を出す人がいて、守る人がいて、ほどく人がいて、運ぶ人がいる」


「……俺は」


「村の名前を知っている人だ」


 カイの目が揺れる。


「それは、すごく大事だ」


 カイは唇を噛んだ。


 泣くのを我慢している顔だった。


「……俺、まだ怖い」


「うん」


「また畑が動いたら、足が止まるかもしれない」


「うん」


「サヴィル見たら、殴りたくなる」


「俺もだ」


 カイは驚いたようにアレックスを見た。


 アレックスは苦笑した。


「でも、殴るより先に聞かなきゃいけないことがある」


「グレイ商会?」


「ああ」


「王都って言ってた」


「言ってたな」


 王都。


 その言葉が、石蔵の中でも重く響いた気がした。


 追放された場所。


 アレックスが捨てられた場所。


 そして今、グレイルの帳簿にも、ハルダ村の黒い樽にも、その影がちらつく。


 カイは小さく聞いた。


「王都って、そんなに偉いのか」


「大きい場所だ」


「偉い人がいる?」


「いる」


「じゃあ、なんで村を助けないんだよ」


 真っ直ぐな問いだった。


 アレックスはすぐに答えられなかった。


 王都は、遠い。


 辺境の村の苦しみは、王都の石畳まで届かないのかもしれない。


 いや、届いていても、誰かが見ないふりをしているのかもしれない。


 それどころか、サヴィルの言葉が本当なら、その遠さを利用している者がいる。


 飢えた村は売るしかない。


 壊れた畑は買い叩ける。


 土地を資源としてしか見ない者たちが、王都のどこかにいる。


「分からない」


 アレックスは正直に答えた。


「でも、分からないままにはしない」


 カイはじっと見た。


「王都に行くのか」


「いつかは」


「怖くないのか」


「怖い」


 カイは少しだけ目を丸くした。


「アレックスも怖いのか」


「怖い」


「王子なのに?」


 その言葉に、アレックスは少し笑った。


「王子でも怖いものは怖い」


「……そっか」


「でも、怖いから行かない、では終われないことがある」


 カイは父の字がある種袋を見た。


「俺も、畑怖いけど、行かなきゃって思った」


「うん」


「でも、一人で行っちゃだめなんだよな」


「ああ」


「それ、難しい」


「俺もまだ難しい」


 カイは、ほんの少し笑った。


「アレックスでも?」


「俺でも」


 その時、石蔵の奥からマーガレットの声が響いた。


「レクスター! 座る!」


「座っています」


「それは座りながら診てるだけ!」


「診察です」


「休息じゃない!」


「両立を試みています」


「だめ!」


 石蔵の中に、いくつか笑いが起きた。


 緊張しきっていた避難者たちも、マーガレットとレクスターのやり取りには少し慣れ始めていた。


 レクスターは、木箱に座っていた。


 だが、手には記録紙。


 膝の上には水の本。


 隣には負傷者。


 どう見ても休んでいない。


 マーガレットは腰に手を当てている。


「約束したよね」


「四十五分休むと」


「そう!」


「現在、座位で作業量を半分にしています」


「それ休んでない!」


「半分休息です」


「そんなのある!?」


 レクスターは少し考えた。


「概念としては」


「だめ!」


 サムが小さく笑う。


「マーガ、強い」


 マーガレットは振り返って胸を張った。


「そう! 強い!」


 レクスターが小さく言う。


「否定はしません」


「そこはちゃんと褒めて!」


「強いです」


「よし!」


 レクスターはため息をついたが、抵抗をやめた。


 水の本を閉じる。


 記録紙も置く。


 壁に背を預ける。


「四十五分です」


「一時間!」


「交渉は成立済みです」


「むう……」


 マーガレットは不満そうだったが、ひとまず納得した。


「じゃあ四十五分。絶対」


「はい」


 レクスターは目を閉じた。


 本当に疲れていたのだろう。


 数秒後には、呼吸が少し深くなった。


 眠りかけている。


 マーガレットは、その顔を見て急に静かになった。


「……やっぱり限界だったじゃん」


 小さな声。


 アレックスは遠くからそれを見ていた。


 レクスターは、自分の限界を言葉にするようになった。


 だが、それでも休むことが苦手だ。


 役割を背負う者は、どこかで自分を後回しにしてしまう。


 アレックスにも分かる。


 だからこそ、マーガレットのように止めてくれる存在が必要なのだ。


 ミレ婆が近づいてきた。


 彼女は古い布袋を抱えている。


「これを、使っておくれ」


 マーガレットが受け取る。


「これは?」


「乾いた布だよ。昔、祭りの飾りに使った残りだ。汚染のない棚にしまってあった」


「助かります!」


「それと、種の蔵にあるものは勝手に使っていい。村のものだからね」


 ミレ婆はカイを見る。


「カイも、それでいいね」


 カイは少し驚く。


「俺に聞くの?」


「あんたも村の者だろ」


 カイの顔が赤くなる。


「……うん」


「じゃあ、決める一人だ」


 カイは種袋を見た。


 それから、アレックスたちを見た。


「使って。村を戻すためなら」


 その声は少し震えていた。


 だが、確かに自分の意思だった。


 ミレ婆は頷いた。


「よし」


 石蔵の中では、避難者たちが少しずつ役割を分け始めた。


 歩ける者は水を分ける。


 子どもは軽い布を運ぶ。


 老人は種袋の確認をする。


 若い母親は子どもたちをまとめる。


 脚を怪我した男は、座ったまま村の道を説明する。


 誰も万全ではない。


 皆、疲れている。


 怖い。


 だが、ただ震えるだけではなくなっていた。


 石蔵は避難場所から、村を戻すための小さな拠点へ変わりつつあった。


 アレックスは、マーガレットへ声をかけた。


「俺は集会倉庫へ戻る」


 マーガレットがすぐ反応する。


「一人で?」


「サヴィルの監視と、樽の確認をする」


「私も」


「レクトが休んでる間、ここを頼みたい」


 マーガレットは言葉を飲み込んだ。


 行きたい。


 サヴィルを見張りたい。


 樽も気になる。


 だが、ここには子どもたちと老人がいる。


 レクスターは休んでいる。


 石蔵を守る手が必要だ。


 彼女は少しだけ唇を噛み、頷いた。


「分かった」


「ありがとう」


「でも、一人で無茶しないで」


「ああ」


「本当に」


「分かってる」


「信用度は?」


 アレックスは少し考えた。


「六割?」


「低い!」


「じゃあ七割」


「まだ低い!」


 カイが横から言った。


「俺も行く」


 マーガレットがすぐに言う。


「カイは休む!」


「でもサヴィルに聞きたいことがある」


「だめ」


「俺の村だ!」


「だから休む!」


 カイが言葉に詰まる。


 マーガレットは膝をついて、目線を合わせた。


「カイは、さっきからずっと頑張ってる」


「……」


「父ちゃんも母ちゃんも助けて、避難小屋の人たちも助けて、ここまで来た」


「俺は案内しただけだ」


「それがすごいの」


「……」


「だから、今は少し休んで。休むのも、次に村を守る準備だよ」


 カイは納得しきれない顔だった。


 だが、レクスターが眠っている姿を見る。


 トーマとミラのところへ戻らなければならないことも思い出したのだろう。


 彼は小さく頷いた。


「……少しだけ」


「うん」


「アレックス」


「何だ」


「サヴィルに聞いて」


「何を」


「なんで、ハルダだったのか」


 カイの声は低かった。


「他にも村があるのに。なんで、俺たちの村だったのか」


 アレックスは頷いた。


「聞く」


「嘘ついたら?」


「見抜けるかは分からない。でも、聞く」


「……うん」


 アレックスは石蔵を出た。


 外の空気は、石蔵の中より冷たく感じた。


 黒い畑の匂いが戻ってくる。


 遠くで、ぎし、と根が鳴る。


 だが、音はやはり弱まっている。


 水車を止め、樽を閉じた効果はある。


 今のうちに、次の手を打たなければならない。


 集会倉庫へ戻る道は、先ほどより長く感じた。


 村の家々は静かだ。


 窓の奥に怯えた目がある。


 誰かがこちらを見ている。


 アレックスは声をかけたかった。


 水車は止めた。


 避難小屋の人たちは石蔵へ移した。


 村は終わっていない。


 そう言いたかった。


 だが、今はまだ中途半端だ。


 黒い樽は残り、サヴィルもいる。


 軽い希望をばらまくわけにはいかない。


 だから、歩いた。


 集会倉庫に近づくと、青白い光は弱まっていた。


 樽はすべて蓋が閉じられ、レクスターの水糸で仮固定されている。


 村人四人は倉庫の外で休ませていた。


 彼らはまだ朦朧としているが、会話はできる。


 ガロンがアレックスに気づき、顔を歪めた。


「……すまねえ」


「今は休んでください」


「俺たち……あの商人の話に……」


「後で聞きます」


「……畑を、戻せるか」


 アレックスは足を止めた。


 戻せる。


 そう言いたい。


 だが、言えない。


「戻すために動いています」


 ガロンは静かに頷いた。


「……それでいい」


 倉庫の中では、サヴィルが壁際に縛られていた。


 縄はしっかりしている。


 黒液にも触れていない。


 だが、彼の表情にはまだ余裕があった。


 いや、余裕のふりかもしれない。


 アレックスが入ると、サヴィルは薄く笑った。


「一人か」


「仲間は休ませている」


「君は休まないのか」


「聞くことがある」


「勤勉だな。王都の官吏に向いている」


 アレックスは反応しなかった。


 サヴィルは少しつまらなそうに目を細める。


「グレイルで何があったか、聞いているよ。人買い商人バルザックが崩れ、リゼット女史の薬房も失われた。君たちは厄介だ」


「グレイ商会はグレイルにも関わっていたのか」


「商会は多くの土地と取引している」


「答えになっていない」


「なら、質問が悪い」


 アレックスはサヴィルの前に立った。


「グレイルの帳簿に、グレイ商会の名があった可能性がある」


 サヴィルの目がわずかに動いた。


 ほんの一瞬。


 だが、動いた。


 アレックスはそれを見逃さなかった。


「やはり繋がっているな」


「帳簿など、いくらでも偽造できる」


「お前の反応ほど正直じゃない」


 サヴィルの笑みが少し固くなる。


「追放王子にしては、よく見る」


「追放されたからな」


「ほう」


「見落とされる側の顔は、少し分かる」


 サヴィルは黙った。


 その沈黙を、アレックスは逃さなかった。


「なぜハルダ村を狙った」


 カイの問い。


 それをそのままぶつける。


「辺境の小村なら、問題になりにくいからか」


 サヴィルは少しだけ笑った。


「それもある」


「他には」


「水路が良かった」


「水路?」


「山からの水を村の中心で分け、畑全体へ流す。実験には理想的だった」


 アレックスの拳が強くなる。


「実験」


「土壌改変剤のね」


「飢えさせろ、という命令が祠にあった」


 サヴィルの顔から笑みが消えた。


「……君はそれを読んだのか」


「聞こえた」


「雷の力か」


「答えろ」


 サヴィルは息を吐いた。


「土地の価値は、豊かさだけで決まるわけではない。ときに、壊れた土地の方が扱いやすい」


「買い叩くためか」


「壊れた土地を商会が買い、改良し、再配分する。効率的だ」


「村人は?」


「雇用すればいい」


「自分の土地を奪われた人間を、雇えばいいと?」


「生活は残る」


「名前は残らない」


 サヴィルは眉をひそめた。


「また名前か」


「お前たちは、何でも数字にする」


「数字は公平だ」


「顔を見なくて済むからだろ」


 沈黙。


 サヴィルの目が冷たくなる。


「君は甘い」


「そうか」


「甘い者は、やがて潰される」


「それもよく言われる」


「王都へ来れば分かる」


 アレックスの胸が重くなる。


「王都に誰がいる」


 サヴィルは笑った。


「それを私が話すと思うか」


「話させる」


「拷問でもするか」


「しない」


「なら無理だ」


「そうかな」


 アレックスは樽の方へ視線を向けた。


「グレイ商会の樽、祠の金属板、巡察の徽章、村長と村人の証言。これだけあれば、お前が黙っても商会の名前は残る」


「地方の証言が王都で通ると?」


「一つなら潰されるかもしれない」


 アレックスは背中の帳簿に触れた。


「でも、グレイルの帳簿もある」


 サヴィルの顔が、今度こそはっきり変わった。


「……君が持っているのか」


「写しをな」


「なるほど」


 サヴィルはゆっくり息を吐いた。


「だから厄介なのか」


「グレイルとハルダ。二つ繋げば、ただの辺境の事故ではなくなる」


「君は王都に戻りたいのか?」


「戻りたいわけじゃない」


「ではなぜ」


「見ないふりをしたくない」


 サヴィルは、その言葉を聞いて少し笑った。


 だが、その笑いには余裕がなかった。


「見ないふりをしない者は、まず目を潰される」


「脅しか」


「忠告だ」


「いらない」


 アレックスは短く返した。


「黒い樽の中身を無力化する方法を教えろ」


「知らない」


「嘘だ」


「製造担当ではない。私は運用担当だ」


「なら、運用手順を話せ」


「話す義理はない」


「村人が死ぬ」


「だから?」


 サヴィルは淡々と言った。


 その瞬間、アレックスの中で何かが冷えた。


 怒りが、熱ではなく冷たい刃のようになる。


「だから、だと」


「村人はすでに対象だ。結果の一部に過ぎない」


 アレックスは雷の刃を抜かなかった。


 抜けば、サヴィルの思う壺かもしれない。


 だが、拳は震えていた。


 その時、倉庫の入口から声がした。


「アレックス」


 マーガレットだった。


 彼女はいつの間にか来ていた。


 足音を殺していたわけではない。


 アレックスがサヴィルに集中しすぎて気づかなかったのだ。


 マーガレットの顔には怒りがある。


 だが、それ以上に心配があった。


「戻りが遅いから来た」


「石蔵は?」


「ミレ婆たちが見てる。レクスターは寝てる。ちゃんと」


「そうか」


「拳、握りすぎ」


 言われて、アレックスは自分の拳を見る。


 爪が手のひらに食い込んでいた。


 マーガレットはサヴィルを睨んだ。


「この人、わざと怒らせてる」


「分かってる」


「分かってても怒るよね」


「ああ」


「なら、私もいる」


 その一言で、アレックスの呼吸が少し戻った。


 一人じゃない。


 さっき自分がサヴィルに言った言葉。


 それを、マーガレットがここで形にした。


 サヴィルが少しだけ不快そうに目を細める。


「仲が良いことだ」


 マーガレットは即座に返した。


「羨ましい?」


 サヴィルが黙った。


 アレックスは思わず少し笑いそうになった。


 マーガレットは真剣な顔で続ける。


「あなたには分からないかもしれないけど、誰かが怒りで潰れそうな時、隣に立つのって大事なんだよ」


「情緒論だ」


「そうだよ」


 マーガレットは胸を張った。


「でも、情緒があるから人を資源って言わないで済む」


 サヴィルの表情がまた少し固くなる。


 アレックスは静かに息を吐いた。


「サヴィル。今すぐ全部を話さなくてもいい」


「ほう?」


「だが、村人が死ねば、お前の証言価値は下がる」


 レクスターのような言い方になった。


 自分でもそう思った。


 サヴィルも気づいたのか、少し眉を上げる。


「脅しのつもりか」


「分析だ」


 マーガレットが小声で言う。


「レクスターみたい」


「そうか」


「うん」


 アレックスは続けた。


「村人を助ける手順を話せ。そうすれば、お前を生きた証人として扱う理由が増える」


「話さなければ?」


「樽と証拠だけで商会を追う。お前は村を壊した実行犯として扱われる」


「どちらにせよ捕まるのか」


「当然だ」


 サヴィルは、しばらく黙っていた。


 外で黒い畑が小さく鳴る。


 ぎし。


 ぎし。


 その音が、倉庫の中にも響く。


 やがてサヴィルは言った。


「……水車を止めたなら、拡散は弱まっている」


「知ってる」


「樽の原液は、石灰粉と乾燥灰で表面を覆え。直接水をかけるな。反応が広がる」


 マーガレットが息を呑む。


「水だめなんだ」


「水路に流すための薬だからな。水を与えれば広がる」


 アレックスは眉を寄せた。


「土壌の黒い根は?」


「根の中心を焼くな。黒煙が出る。周囲の土を掘って隔離しろ。触れるな。乾燥させろ」


「畑は戻るのか」


 マーガレットが聞いた。


 サヴィルは彼女を見て、少しだけ笑った。


「全部は無理だ」


 マーガレットの顔が歪む。


「でも?」


 アレックスが促す。


 サヴィルは嫌そうに息を吐いた。


「汚染初期の土なら、上層を削り、水路を切り替えれば残る。水車側の畑は諦めろ」


「諦めない」


 マーガレットが即座に言った。


「現実を見ろ」


「見る。でも諦めない」


「矛盾している」


「よく言われる」


 サヴィルは、ほんの少しだけ疲れた顔をした。


 アレックスは必要な情報を頭に刻む。


 石灰粉。


 乾燥灰。


 水をかけない。


 土を掘って隔離。


 水路を切り替える。


 ハルダ村にあるものでできるかは分からない。


 だが、手がかりは得た。


「なぜ話した」


 アレックスが聞く。


 サヴィルは壁に背を預けた。


「君たちが失敗すれば、私もここで黒い畑に飲まれる可能性がある」


「自分のためか」


「当然だ」


 マーガレットは低く言った。


「それでも、情報は使う」


「ああ」


 アレックスは頷いた。


 どんな理由で話した情報でも、村を助けるためなら使う。


 サヴィルの善意ではない。


 それでいい。


 人を助ける手段に変える。


 それが今必要なことだ。


 アレックスとマーガレットは集会倉庫を出た。


 外の空は夕方へ傾き始めている。


 黒い畑の音はまだある。


 だが、石蔵の方には小さな灯りがともっていた。


 誰かが中で火ではないランプを用意したのだろう。


 火気厳禁のため、覆いのある小さな灯りだ。


 その光が、遠くに見える。


 マーガレットがそれを見て言った。


「石蔵、明るい」


「ああ」


「種の蔵に、灯りだね」


「うん」


「戻そう」


 マーガレットは真剣だった。


「畑も、村も、全部。全部は無理でも、戻せるところから」


 アレックスは頷いた。


「戻そう」


 その言葉と同時に、石蔵の方からカイの声が聞こえた気がした。


 誰かの名前を呼ぶ声。


 子どもたちを落ち着かせているのだろう。


 カイはもう、ただ助けを待つだけの子どもではなくなっている。


 ハルダ村の名前を呼ぶ声になっている。


 アレックスは深く息を吸った。


 次は村を戻す作業だ。


 戦いよりも地味で、長くて、苦しいかもしれない。


 だが、それこそが本当の意味で灯りを守ることなのだろう。


 黒い樽を封じ、畑を隔離し、水路を切り替え、種を守る。


 ハルダ村を終わらせないために。


 アレックスたちは石蔵へ戻り始めた。


 夕暮れの中、黒い畑が小さく軋む。


 それはまだ不気味だった。


 けれど、もう村全体を覆う絶望の音だけではなかった。


 種の蔵に灯りがある。


 名前を呼ぶ声がある。


 なら、まだ歩ける。


 ハルダ村は、終わっていない。

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