【第61話 旅立ちの前に】
グレイルに朝が来てから、三日が過ぎた。
町は、まだ落ち着いてはいなかった。
当然だった。
一晩で暴かれたものが、あまりにも多すぎた。
北鐘楼の帳簿。
薬房の記録。
旧施療院の地下。
北西倉庫の檻。
ルミアの名前。
リクの記録。
警備隊の賄賂。
商会の裏取引。
バルザックの支配。
それらが一度に町の前へ出されたのだ。
人々は眠れなかった。
怒りで。
悲しみで。
恐怖で。
そして、ようやく声を上げられるようになったことで。
グレイルは、深く傷ついた獣のように、時折うめきながらも動き続けていた。
北鐘楼の前には、臨時の記録所が作られた。
帳簿の写しを作る者。
証言を聞き取る者。
消えた家族の名前を探す者。
警備隊の元隊員から話を聞く者。
薬房跡へ封印を施す者。
旧施療院の入口に見張りを立てる者。
最初は混乱していた。
誰が指示するのかも分からなかった。
誰を信じていいのかも分からなかった。
だが、少しずつ役割が決まっていった。
老女が避難者の世話を仕切り、荷運びたちが物資を運び、文字の読める商人たちが記録の写しを作り、武器を置いた警備兵たちが監視役として使われた。
信用されたわけではない。
見張られながらの働きだった。
それでも、彼らは動いた。
動くことでしか、失った信用の欠片すら拾えないからだ。
バルザックは、北鐘楼の地下室に拘束された。
外部の巡察へ引き渡すため、帳簿の原本と照合しながら証言が集められている。
彼は何度も沈黙した。
何度も笑った。
何度も「無駄だ」と言った。
だが、町の人々はもう、それだけで下を向かなかった。
誰かが震えながらも名前を読み上げる。
誰かが泣きながら証言する。
誰かが怒りを堪えて記録する。
バルザックの声より、町の声の方が少しずつ大きくなっていた。
アレックスたちは、町の東にある古布置き場を仮の宿にしていた。
そこは元々、織物や古い布を保管する倉庫だったらしい。
老女の指示で掃除され、怪我人や救出者たちが休める場所に変えられた。
窓は小さいが、風は入る。
床に布を敷けば眠れる。
薬草を煎じるための水場も近い。
何より、町の中心から少し離れていて、人混みの音が薄い。
ルミアの治療には、その静けさが必要だった。
ルミアは、まだ弱かった。
眠っている時間が多い。
目を覚ましても、長く話すことはできない。
黒い筋は薄くなったが、完全には消えていない。
薬草湯と中和基剤を少しずつ飲ませ、レクスターが水の本で反応を見て、薬草師の老人が調整する。
治療は慎重に進められた。
急げば危ない。
だが、遅すぎても残留薬が身体を蝕む。
レクスターは、三日間ほとんど眠っていなかった。
いや、正確には寝かされた。
老女とマーガレットに強制的に寝かされた。
しかし、目を覚ますとすぐ記録を確認する。
薬量。
脈。
呼吸。
黒い筋の色。
名前への反応。
全てを書き留める。
その姿を見て、マーガレットは何度も怒った。
「レクスター! 寝る!」
「今は記録を」
「寝る!」
「ルミアの反応が」
「寝る!」
「語彙が減っていますよ」
「寝る!!」
最終的に、マーガレットがレクスターの水の本を抱えて逃げるという暴挙に出た。
「返してください」
「寝たら返す!」
「それは脅迫です」
「違う! 看病!」
「看病とは患者の物を奪うことではありません」
「今回はそう!」
レクスターはため息をついた。
結局、その時だけは眠った。
目を閉じた瞬間、糸が切れたように寝落ちした。
マーガレットはそれを見て、泣きそうな顔で言った。
「やっぱり限界だったじゃん……」
アレックスも隣で小さく頷いた。
全員が限界だった。
誰かを守るために動き続けた。
助けられた命もあった。
助けきれなかった名前もあった。
その重さは、休息を取ったからといって消えるものではない。
でも、休まなければ次へ進めない。
それを一番理解していそうなレクスターが、一番休もうとしないのは、どこか彼らしかった。
ルミアは、ニナとセラに懐き始めていた。
懐く、という言葉が正しいかは分からない。
ただ、二人のそばにいると、呼吸が落ち着いた。
ニナが「ルミアちゃん」と呼ぶと、黒い筋の脈動が弱まる。
セラが隣に座って本を読むふりをすると、ルミアはその声をじっと聞いていた。
字が読めるかはまだ分からない。
だが、声を聞くのは好きらしかった。
「……ルミア」
彼女は時折、自分の名を呼ぶ。
そのたびにニナが嬉しそうに頷く。
「うん。ルミアちゃん」
「……ニナ……ちゃん」
「そう!」
「……セラ……ちゃん」
セラは少し照れたように微笑む。
「はい」
「……まーが……」
マーガレットはどこにいても反応した。
「はい!!」
そのたびにレクスターが注意する。
「声量」
「ごめん!」
ルミアはそのやり取りを見て、ほんの少しだけ口元を緩めることがあった。
まだ笑顔と呼ぶには弱い。
けれど、確かに表情が動いている。
マーガレットはそれを見るたび、目を潤ませた。
「泣いていません」
レクスターが言う前に、彼女は自分で言う。
「まだ何も言っていません」
「言いそうだった」
「否定はしません」
「ほら!」
そんな時間が、少しずつ増えていった。
痛みの後にある、小さな日常。
傷が消えたわけではない。
恐怖が終わったわけでもない。
けれど、誰かの名前を呼べる時間がある。
そのことが、グレイルにとっても、アレックスたちにとっても救いだった。
エイナは、毎朝リクの記録を持って北鐘楼へ行った。
記録所で、リクの名前を正式に登録するためだった。
失踪者でも、病死者でも、薬効例でもなく。
リク。
エイナの弟。
リゼットの試験薬により命を落とした子ども。
そのように記録するために。
最初の日、エイナは記録所の前で立ち尽くしていた。
手には帳面。
足は動かない。
アレックスは少し離れて見守っていた。
マーガレットは隣で心配そうにしていた。
「一緒に行く?」
マーガレットが聞いた。
エイナは首を横に振った。
「行ける」
「でも」
「一人で行きたい」
その言葉に、マーガレットは口を閉じた。
アレックスも何も言わなかった。
エイナは一歩進んだ。
それから、もう一歩。
記録所の机の前に立つ。
筆を持つ商人が顔を上げる。
「名前は」
エイナは息を吸った。
「リク」
声は震えた。
だが、言えた。
「私の弟」
その瞬間、彼女の目から涙が落ちた。
商人は静かに頷き、紙へ書いた。
リク。
その文字が紙に残る。
それだけのこと。
けれど、エイナにとっては何年分もの夜を越える行為だった。
書き終えた紙を見た時、彼女は膝から崩れそうになった。
マーガレットが駆け寄りかける。
しかし、エイナは自分で踏みとどまった。
そして、紙に向かって小さく言った。
「おかえり」
アレックスは、その声を聞いて胸が詰まった。
リクは戻らない。
それでも、名前は戻った。
エイナの中で、弟はやっと“消えた子”ではなくなった。
そこにいた子になった。
三日目の昼。
アレックスたちは、古布置き場の外で短い食事を取っていた。
硬いパン。
薄いスープ。
干し肉の端。
グレイルが混乱している中で用意されたものとしては十分だった。
マーガレットはパンを両手で持ち、じっと見つめている。
アレックスが聞く。
「どうした?」
「これ、食べていいやつ?」
「食事だしな」
「いや、ルミアちゃんとか、セラちゃんたちに回した方がいいかなって」
それを聞いて、近くにいた老女が杖を鳴らした。
「食べな」
「でも」
「食べな」
「はい」
マーガレットは素直にかじった。
そして目を丸くした。
「硬い」
「文句言わない」
「言ってない! 感想!」
アレックスは笑いながらパンをかじった。
確かに硬かった。
だが、温かいスープがあるだけありがたい。
レクスターはスープをゆっくり飲んでいた。
顔色は少し戻っている。
それでもまだ白い。
「レクト」
「何ですか」
「寝たか」
「三時間ほど」
「足りない」
「昨日よりは多い」
「基準が低い」
マーガレットがパンを噛みながら言う。
「今日は六時間寝よう」
「治療の確認が」
「六時間」
「帳簿の整理が」
「六時間」
「……四時間」
「六時間」
「五時間」
「六時間!」
「交渉決裂です」
「寝かせる!」
レクスターは少しだけ目を逸らした。
アレックスは思わず笑った。
そんなやり取りを、エイナが見ていた。
彼女はスープの器を両手で持ち、少しぼんやりしている。
マーガレットが気づいて声をかける。
「エイナ?」
「ん」
「食べてる?」
「食べてる」
「少ない」
「食べてるって」
「もっと」
マーガレットは自分のパンを半分割って差し出した。
エイナは驚く。
「自分の食べなよ」
「私はもう食べた」
「まだ半分あるじゃん」
「それはエイナの分」
「勝手に決めないで」
「食べて」
エイナはしばらくそのパンを見た。
それから、小さく受け取った。
「……ありがとう」
「うん」
エイナはパンをかじる。
硬さに少し顔をしかめた。
「硬い」
「だよね!」
マーガレットが嬉しそうに言う。
「私だけじゃなかった!」
そのやり取りに、エイナが笑った。
自然な笑いだった。
それを見て、アレックスは少しだけ安心した。
だが、その後でエイナは静かに言った。
「私、考えたんだけど」
全員が彼女を見る。
彼女はパンを持ったまま、少し目を伏せた。
「あなたたち、次の町へ行くんだよね」
アレックスは頷く。
「すぐではないけどな。グレイルの後処理が落ち着いたら」
「うん」
「エイナは?」
マーガレットが聞いた。
その問いは、以前から皆が気にしていたことだった。
エイナがこの町に残るのか。
それとも旅に出るのか。
リクの記録を持つ彼女は、グレイルに残る理由がある。
リゼットを追う理由もある。
アレックスたちと共に行く理由もある。
簡単には決められない。
エイナは、スープの水面を見つめた。
「まだ、決めきれてない」
「うん」
マーガレットは急かさなかった。
「この町、嫌いだった」
エイナは言った。
「ずっと。暗くて、汚くて、誰かが消えてもみんな黙ってて、でも自分も黙ってて」
彼女の声は静かだった。
「リクが死んでから、ここにいる理由なんてないと思ってた。逃げたいとも思った。でも、逃げたらリクが本当に消えちゃう気がして、動けなかった」
アレックスは黙って聞く。
「今は、少し違う」
エイナは顔を上げた。
「リクの名前が戻った。町も、少し動いた。まだ嫌いなところもいっぱいある。でも……全部捨てたいわけじゃないって、分かった」
マーガレットが頷く。
「うん」
「だから、残ってやることがある気もする」
「うん」
「でも、リゼットは逃げた」
エイナの目が鋭くなる。
「リゼットを追いたい気持ちもある」
レクスターが静かに言った。
「今すぐ追えば、判断を誤る可能性があります」
「分かってる」
エイナは苦笑した。
「だから悩んでる」
「悩むのは正常です」
「レクスターに正常って言われると、なんか診断みたい」
「診断ではありません」
「でも少し安心する」
「なら幸いです」
エイナはアレックスを見る。
「アレックスは?」
「俺?」
「私に、どうしてほしい?」
その問いに、マーガレットもレクスターも少し黙った。
アレックスは、すぐには答えなかった。
エイナに一緒に来てほしい。
それは本音だ。
彼女の知識、強さ、優しさ。
旅の仲間として頼もしい。
でも、こちらの都合で言ってはいけない気がした。
グレイルは彼女の町だ。
リクの記録がある。
残してきた痛みがある。
選ぶのはエイナだ。
「どうしてほしいかで言えば」
アレックスはゆっくり言った。
「一緒に来てくれたら、嬉しい」
エイナの目が少し揺れる。
「でも」
「でも?」
「残るって決めても、俺は応援する」
アレックスは続けた。
「グレイルに残って、リクの名前を守るのも、町を立て直すのも、大事なことだ」
「……」
「リゼットを追うことだけが、リクのためじゃないと思う」
エイナは息を止めた。
その言葉は、彼女の奥に触れたようだった。
「リクのために、グレイルで人を守るのも、一つの選択だ」
エイナは俯く。
涙が落ちる。
「……ずるいな」
「ごめん」
「そう言われると、ちゃんと考えなきゃいけなくなる」
「うん」
「復讐だけなら、楽だったのに」
エイナは泣き笑いした。
「本当に、あなたたちといると面倒」
マーガレットが明るく言う。
「褒めてる?」
「たぶん」
「やった」
レクスターが付け加える。
「褒め言葉として受け取るには複雑ですが」
「でも嬉しいよね」
「否定はしません」
エイナは少し笑った。
そして、パンをもう一口かじった。
その日の夕方。
アレックスは一人で北鐘楼の上へ登った。
鐘は止められている。
共鳴装置はレクスターの指示で封印され、町人が交代で見張っている。
鐘楼から見下ろすグレイルは、まだ傷だらけだった。
煙の跡。
壊れた倉庫。
開かれた薬房跡。
人が集まる記録所。
東の古布置き場の周辺。
そして、町の外へ続く道。
旅の道。
グレイルに来た時、アレックスたちはただ通り過ぎるつもりだった。
だが、こんなにも深く関わった。
名前を拾い、怒りを受け止め、町の闇を見た。
それでも、旅は続く。
この先にも、きっと別の闇がある。
別の町がある。
別の誰かが、灯りを必要としている。
アレックスは、雷の刃へ手を添えた。
「灯りを守る旅、か」
自分で呟いて、少し笑う。
大きな言葉だ。
背負いきれないほどに。
でも、今は逃げたいとは思わなかった。
その時、背後から足音がした。
振り返ると、レクスターだった。
少しふらつきながら階段を上ってくる。
アレックスは眉をひそめた。
「寝てろって言われてなかったか」
「歩行訓練です」
「嘘だな」
「はい」
「正直すぎる」
レクスターは隣に立ち、町を見下ろした。
しばらく二人は黙っていた。
風が吹く。
夕方の風。
夜の冷たさとは違う。
少しだけ暖かい。
「王国へ、いつか戻ることになります」
レクスターが静かに言った。
アレックスは驚かなかった。
バルザックの帳簿。
外部への金の流れ。
王国の巡察。
この先、避けられない話だった。
「だろうな」
「怖いですか」
「怖い」
アレックスは正直に答えた。
「追放された場所だ」
「はい」
「俺を捨てた場所だ」
「はい」
「でも、グレイルの帳簿が王国へ繋がっているなら、見ないふりはできない」
「そう言うと思いました」
「レクトは?」
「怖いです」
レクスターがそう言ったので、アレックスは少し驚いた。
レクスターは町を見下ろしたまま続ける。
「王国へ戻れば、あなたを追放した者たちと向き合うことになる。私たちにも危険が及ぶ。正直、合理的に見れば避けたい」
「うん」
「ですが、避けた場合、同じような構造が別の町で続く可能性がある」
「うん」
「だから、いつか行くべきです」
アレックスは頷いた。
「今すぐじゃないけどな」
「もちろん。あなたもマーガレットも私も、まず休息が必要です」
「自分も入ってるな。偉い」
「学習しました」
「マーガレットのおかげか」
「否定しません」
二人は少し笑った。
それから、レクスターが言った。
「第六十一話から、旅は次の段階です」
「……何の話だ?」
「いえ、何となく」
アレックスは苦笑した。
「マーガレットみたいなことを言うな」
「心外です」
「心外なのか」
「少し」
夕日が、グレイルの屋根を赤く染める。
北鐘楼の鐘は静かにそこにある。
もう町を閉じる音ではない。
いつか、違う音で鳴る日が来るのかもしれない。
その夜。
古布置き場で、ルミアが初めて自分からマーガレットの袖を引いた。
「……まーが」
マーガレットが即座に振り向く。
「なに!?」
レクスターが遠くから注意する。
「声量」
「ごめん!」
ルミアは少しだけ笑った。
本当に小さく。
でも、笑った。
「……あした……」
「明日?」
「……あさ……また……くる……?」
マーガレットは目を見開いた。
ルミアは、自分から明日を口にしたのだ。
明日。
次の日。
自分がそこにいる前提の言葉。
マーガレットは泣きそうになりながら頷いた。
「来る!」
「……ぜったい……?」
「絶対!」
「……やくそく……?」
「約束!」
レクスターが小さく言った。
「また約束が増えました」
アレックスが笑う。
「守るだろ」
「でしょうね」
ニナがルミアの手を握る。
「明日も一緒に名前呼ぼうね」
「……なまえ……」
「うん。ルミアちゃん」
「……ルミア……」
セラも優しく続ける。
「……明日も、ここにいます……」
「……ここ……」
ルミアは毛布に包まれながら、目を閉じた。
怖い夜ではなく。
明日を待つ夜として。
その姿を見て、アレックスは胸の奥に温かいものを感じた。
グレイルはまだ傷だらけだ。
すべてが終わったわけではない。
でも、誰かが明日を口にできた。
それだけで、今日の意味があった。
アレックスは、静かに灯りを見つめた。
旅立ちの日は近い。
けれど、その前に、もう少しだけこの町でやることがある。
名前を残す。
記録を守る。
ルミアの治療を繋ぐ。
エイナが自分の道を選ぶのを待つ。
そして、次の町へ向かう。
灯りを守る旅は、グレイルで終わらない。
むしろ、ここから始まるのだ。
長い夜を越えた町の片隅で。
アレックスは、仲間たちの声を聞きながら、静かにそう思った。




