9話
翌週の月曜。即ちプレゼン発表まで4日前。
遂に行き詰まった。
『逆境に立たされることになった自分に嫌気が差す』
『だが今はそんな泣き事をボヤいて手を止める時間などない。』
この繰り返しの果て、キーボードを叩く手が自然と止まった。残りは十数枚といったところだ。
だが、指は動かない。肉体的な限界だ。
意識が宙を彷徨う中、ここ最近の生活習慣が最悪を更新し続けている事に漸く気付く。どうにかして睡眠だけは確保しようとしていたが、友人と呼んでいた他人に頼れない以上、考査が迫っているのも相まって講義は休めない。
バイトは幾らか穴を開けてもらったが、プレゼンや他の課題などと並行してやると深夜を回ってしまう。
『何故俺はこんな事をしているのか』
この2週間、なるべく後ろを向くのをやめていたが、臨界点に達しているのは肉体だけではなく精神も同じだった。
まず元凶を考えるならば与束だ。裏切られた。ただそれだけで今俺は窮地に追い込まれている。
だが俺が絶望しているのは、与束の様な元から性根が腐っていた奴に裏切られたからではない。自身が有人と見做していた人間が誰1人として手を差し伸べてくれなかったからだ。
誰1人俺を嫌ってはいなかったが、誰1人俺を好む奴はいなかった。
結果論だが、与束が話していたことは言っていたことは半分、いや7割ほど正しかった。
この事実を裏切者の当事者によって知ることが出来たのはなんという皮肉だろうか。
眠気により空っぽの頭が前後に揺れる。小さな脳が頭の中で転がるような音が聞こえる。そんな聞こえもしない幻聴に耳を傾ける。心地は全く良くはない。
「……ああクソ」
自宅はダメだ。思索行為があまりにも安易に出来てしまう。場所を移さなければ。
この時間にやっていて入りやすい店など、今の凝縮した脳では1つしか思いつかなかった。
2回車に轢かれかけながら、俺はバイト先のファミレスに到着した。厨房の方に目をやるが川内や薪浦はいない。ついでに辺りを見渡すと頬杖を付きながら窓の外を眺める学生と、表情筋が死滅したような薄暗い顔でタイピングをするサラリーマンの常連が2人。あとは客が指折り数える程度いた。
取り敢えず夜中ということもあり、一品目はライトミールのポテトを頼むことにした。
注文のベルを押すと聞き覚えしかない音が店内に鳴り響き、思わず鼓動が加速する。今は客として来ている上、シフトも川内達とは被らないのを予め確認しておいたので不安要素は無いはずだが、それでもやはり身構えてしまう。
「注文お伺いしますぅ」
無理矢理声色を上げたような猫撫で声の中年女性が小走りでやってきた。名札を見るに『矢星』という従業員らしいが、俺の記憶には無い。
注文を済ませ、俺は飲み物を取りに行くことにした。
ドリンクバーに向かう途中、窓際席の学生が視界に映る。テーブルには相変わらず食べかけのポテトと大量のコーヒーカップ、そして赤本と殴り書きされたノートが開かれていた。
相当追い込まれているのが目に見えてわかるが、当の本人は先程から姿勢はあまり変わっておらず、呆けながら頬杖をしていた。
若干の憐憫を思いながら彼の前を通ったそのとき、血の気のない顔が僅かに動いた。
自分の夜食の時間を死守したいのであれば、今すべき事は項垂れて悲壮感を全面に押し出すべきだっただろう。
少なくとも、顔を見るべきではなかった。
席から見た時には気付かなかったが、彼の顔にはガーゼが貼ってあった。
「…あ」
呻き声に近い感嘆詞が口から溢れる。彼の虚な目がゆっくりと動く。定まっていないような、だが射抜くように俺を見つめた。
「…こないだの…店員さん…?」
学生は譫言のように話す。
会話として成立した以上、シラを切ることも軽い挨拶で流すこと彼の容態からして不可能だ。
「あぁ、うん。そうだよ」
「あっ…やっぱり…大学が休みとか、ですか…?」
「まぁそんな感じかな。…よく来るよね、ここ」
「はい…まぁ…近くで24時間やってるとこがここくらいなんで…あっすみません、荷物どかすんで座ってください…すいません…」
学生は顎を引きながら詫びる。何故謝っているのか全く理解できない。
「ありがとう。…受験勉強かな?それ」
「え、あ、はい…高3で。もうすぐ夏の模試があるのでそこで頑張らないと…」
「あぁ模試。覗き見て悪いんだけど、ここに配膳するとき凄い頑張ってるなと思ったから」
「あ、はは…そんなことないですよ」
高校生は引き攣った笑みを浮かべながら笑い声を発する。
「それでそのー…先週見かけた時は、頬のやつがなかったんけど。何か事故とか?」
「あっ…いやっ、事故じゃないんですが…えー…」
ガーゼについて質問すると、辿々しい話し方がより一層悪化した。
「まぁ…あの…ちょっと親の方に殴られてしまって…」
彼は絞り出すように返答する。大方予想通りだったが、罪悪感がじんわりと湧き出てくる。
「ごめん…デリケートな話だったね。無神経だった」
「いえいえいえ!とんでもないですよ!こっちもすみませんっ…自分が勉強できないのが原因なんで…」
「あぁその赤本の。ちょっと見ても?」
「あっはい、どうぞ」
その赤本を拝借し付箋が貼られたページを開くと、数学の問題が数問、ルーズリーフ1枚挟まっていた。
ざっと見て演算する限り解けない程度ではないが、解いた軌跡を見る限りそういうわけではなさそうだ。
「ありがとう。勉強は順調?」
「いえ……解けませんね、なかなか…特に理系は酷いです…」
「あー余計なお節介を言うんだけど、ルーズリーフに書かれているのは公式?」
「え、あっはい…すみません、邪魔でしたね…」
「いえいえこちらこそ。勝手に見ちゃって…それで、多分書かれている式自体が違うと思うんだけど…違う?」
「えっ……ちょっ、ちょっと…どの辺でしょうか……」
「等差の漸化式の…あぁ、そこかな」
「….ちょっと…計算します…」
学生は慌ただしい様子でルーズリーフをもう1枚取り出し、ペンを走らせ始める。時間が経過すると共に彼の半開きの瞼が徐々に開き始めた。
数分ほどして彼はペンを置いて、背もたれに寄りかかった。
「合ってた?」
「……はい。本当に…ありがとうございます」
「一応数学科目指す時に、その辺は一通り網羅したから…合ってて何より」
「あ、はは…ですね…」
学生は不器用な笑いをしながら、話を合わせるように受け答えをした。問題は解けたようだがどうも浮かない表情は変わらない。そもそも元から覇気は皆無だが。
「どうかした?」
「へ?え?」
常に何かに怯えているように、学生は動揺しながら返事をした。
「あぁいや、問題が解けたのに暗いなと思って」
「あ…暗い…」
いっそ単刀直入に話した方が楽かと思ったが、余計にしょげてしまった。
「あっ違う違う、暗いってわけじゃないんだけど、元から若干元気無いなとは思ってたからそのー…」
「元気無いですかね……やっぱり……」
「いや、その…」
萎れた植物のような彼をどうにかフォローしようとしたが、あまり効果は無かった。
「いえ…店員さんは間違ってないんです。昔からダークライとかよく言われるんで…自分に自信がないので静かにしてただけなのに、女子からはすみっこぐらしとか言われますし…」
「笑えますよね」と、彼は自嘲気味に言った。こういう時にどうリアクションを取るべきか進学校では教わらなかったので、さっぱり分からない。
「その…ホントに言い訳じゃないんですけど、さっきの問題、なんかおかしいなとは思ってたんです…ただ公式が間違ってることなんて有り得ないし、数列は自信が無かったんでそのまま解いていたんですけど……まさかホントに間違ってるなんて…」
「まぁそういう事もあるよ。回数こなしていけばそのうちケアレスミスも減ってくだろうし」
「そう思いますよね?でも自分は全く解けるようにならないんです…途中式でどこかしらが毎回間違ってて…せめて学業ぐらいは上澄でいたいのに……」
言い切る前に声量がフェードアウトして羽虫のようになってしまい、最後の方は殆ど聞き取ることができなかった。
彼が計り知れないほど厚く、堅牢な劣等感の壁に自分を押し潰されかけているのは、声色から伝わってくる。
だがそんな彼を俺は同族として歓迎し、その劣弱意識により生まれた傷を、癒すことも舐めることも出来はしない。
赤本には6月頭の模試の結果も挟まっており、そこに記載されてい学力査定は決して低いものではなかった。
更には校内順位も目に見えた限り一桁。俺のような、秀でたものが無いから安寧を求め他者に溶け込む人間と違い、この学生には学力という明確な武器がある。
問題なのはその武器を彼が手に持ち、そして振ろうとしないことだ。
「凄く変なことを聞くようで申し訳ないんだけど、自分が優秀だと思う?」
「僕が…ですか?そんなわけないじゃないですか…こんな問題で引っかかってるのに…」
当の本人にそれが武器である認識はない。自我を出す瞬間にその後ろ盾があれば、いざその伸ばした鼻をへし折られそうになったとき保険になってくれる。
「いや、でも模試の結果は良いわけだしそんなに悲観しなくてもいいんじゃない?」
「結局1位じゃなきゃ意味がないんです…揶揄ってきた奴らの中には僕より順位が上のやつがいますし…ホント、静かにしてるだけなんですけどね…なんでこんな…」
なのに彼は自己主張をせずに、隅へ逃げてしまう。
そんな恵まれた才能を持っていることを自覚すらしていない奴に、俺は何を伝えるべきか?
「君さ、自分の事は好き?」
抽象的な質問を学生に与える。
「え…?いや…あんまり…」
「側から見たらの話なんだけどさ、君は凄いと思うよ。通ってるとこ自体そもそもレベル結構高いとこじゃなかったっけ?」
「あっ…いやそんな…高いだなんで全然っ…」
学生は首を高速で横に振りながら謙遜する。
「それでも、もう少し自分を労ってあげるべきだろうよ」
「労わるなんて…そんな余裕…」
「多分ね、自分自身に対してあまりにも大きな課題を課せすぎてる。あー…身の丈に合ってないじゃないとかじゃないから大丈夫」
「はい…」
「だから要はね…君、何か部活とかやってた?」
「部活は…中学から高2の夏まで陸上を…怪我して辞めちゃいましたけど…」
「あー陸上で例えるならアレかな。いきなり棒高跳びしようとしてるよ、君は。まずは小さなハードルで問題ない。そしてそんなハードルであろうとも飛び越えた自分を愛でてあげるべき。そうすることで小さな自負心の芽が出てくる筈だから」
そう話すと、彼の顔から目に見えて翳りが薄くなっていった。
「…なるほど、分かりました…凄く具体的に言って下さってありがとうございます…」
項垂れながら学生は話す。相変わらず陰鬱な雰囲気では合ったが、明らかに声色がトーンアップしていた。
否、自然にしたのではなく彼が意図して上げたのだろう。お礼の如く。
彼ほど聡明なら自分の中で答えが出ていた筈だ。話していて分かるが、彼は勉強ができる上に賢い人間なのだ。
つまり彼が欲しかったのは答えではなく、その自分の答えを肯定するという行為自体を求めていたのだろう。
どちらにせよ、役に立ったのならそれでいいか。
「いやすみません、本当に…わざわざアドバイスして下さって…」
「いやいいよ。大丈夫」
単純な助言でも彼は蟠りが溶けたのか、口調も若干速くなった気がした。
「本当に今まで、こう…抑圧された感じのことを誰にも話せなくて…だからバイトさんに言っても自分は曖昧な表現になってしまうかもしれないと思って、少し躊躇ったんです」
「そう。まぁ、役に立てたならよかったよ」
「本当にこんなくだらない相談にも真剣に乗って答えて下さってありがとうございます…学校にも友人がいない訳ではないんですけど、あまりこんなことを話せる仲じゃないので本当に…何かお礼とかしましょうか?食べたいものとかあったりしますか?」
「いや、お礼だなんて…」
そう言いかけた時、ふと思った。
これを聞けば恐らくは嫌われるかもしれないだろう。その前例を俺は既に体験しているから分かる。
だが、自分のことを理解できるこんな機会は今後もうやってこないかもしれない。
「あ、じゃあ1つ訊いていい?」
「はい、なんでしょう?」
「それさ、疲れない?」
これならうちで1番人気のチーズデミグラスハンバーグランチセットを頼んだ方が、数倍もマシなのかもしれないな。
「えっと…それと言うのは…?」
予想から最も遠い反応に彼は備えていなかったのだろう。彼は、そのまま口を半開きにしたまま暫く静止した。
「その喋り方。敬語で態々話すの疲れないかなって」
「いや…えっと…」
「別に俺と君ってそんな歳離れてないでしょ?大学生って初っ端言ったわけだし。そんなに気を遣わなくていいよ」
「あ…はい……」
高校生は目を泳がせたり、唇をしきりに舐めたりと先ほどまでの狼狽を取り戻していく。
馬鹿なことをしてしまった。この学生に行き場のない後悔をぶつけてどうする。
「…いや、ごめん。別に強制することもなかったね」
「いやっ…その、ごめんなさい、なんか」
「あぁ本当に別にどうでもいいことだから。変な空気にしてごめん、ホント」
「いやでもすみません…その、よく分かんなくって」
「…だよね」
決定的な言葉に俺は安堵する。
俺もまた、この答えを求めていた。
「ごめん、ありがとね。じゃあこれ追加で頼んでおいたから」
「えっ…あ、これ」
話を無理やり切り上げると、学生の机の上に先程オーダーしたポテトを置き、俺は店を後にする。
「あの、この間の応援…」
後ろで何かを話していた気がするが、恐らくは聞き違いだ。
外に出ると、曇天の隙間から僅かに星が見えた。最近は画面ばかり見ていたせいで、自然な光を眺めることが無かったので、この景色に懐かしさを感じた。と同時に、美しさに感動している澄み切った童心を失いかけていたことに対しての僅かな悲哀も感じた。
7月の下旬、歩くだけでも汗が肌から滲み出てくる。拭えば拭うほど湧き上がる不快感にこの上なくフラストレーションが溜まっていく。だが終電は迫っているので、歩みを止めることもできない。
俺は隔たりを無くしたかった。
見えない線引きを消して、無意識にしている分別を互いに辞めたかった。
誰かと良き友人として対等に接したかった。
だがこんな事は所詮は妄言、虚言、ただ建前なのだ。
相手に思考を強制させて、思想を矯正する。
この善意の押し売りの様な行為は、俺が嫌悪している考えと何も変わらない。
ただ俺は、誰かに自分の思想を聞いて…いや、共感してくれる役をあの学生に無理やり押し付けていただけだった。
他の人間に聞けば違う解答が返ってくるかもしれない。或いは肯定してくれるかもしれない。
だがその肯定というのは、線引きされた末の強制的な温情や忖度であって、決して本心などではない。
故に本当の肯定かどうかなど、本人が顧みて過ちに気付き、今の価値観をかなぐり捨ててフィルターを外し、最高に無知潔癖の状態で考える以外に方法は無いのだろう。
疎に見える星の下、汗を垂らしながら駅まで向かう。そういえば結局プレゼン作業は何1つ進まず無駄な時間を過ごしてしまった。自分を顧みる良い時間ではあったが、現実は見なければならない。
溜め息をひとつ吐きながら、顔をあげると目の前に誰かが歩いてくるのが見えた。
「あっ」
多分、俺は学ばない人間だ。
店でもそうだったが、仮に気付いたとても項垂れながら目線を外せば…
いや、この人にそんなことをやっても無駄なのかもしれない。
「…威崎くん?」
目の前の佐々山が俺の名前を呼ぶ。月明かりに照らされた彼女は美しかったが、見知った姿ではなかった。
あの日見た夕陽で黄金に輝いていた茶髪は肩の位置でざっくりと断たれており、別人とまでは行かなくとも雰囲気は一変していた。
「…ども」
軽く会釈をしてその横を素通りすればいい。話すことなど今更ない。
「待ったストップ」
そんな考えとは裏腹に佐々山は腕を掴んで静止した。表情は見えない上に普段の彼女が果たしてどんな声色だったか、この忙しい時期に忘れてしまった。
「…何か用ですか?」
「用があるからこうして引き留めてるんだよ」
「はぁ…じゃあその要件って何ですか?」
そう訊ねるが佐々山は答えない。口元は動いているが、途切れ途切れの母音しか聞こえてはこない。
「…じゃあ、また」
佐々山の腕を振り解く。若干の抵抗が感じられたが、その微弱な力とこの場の体裁の悪さを天秤にかけたとき、果たしてどちらに傾くなど考えるまでもない。
「待って」
口に苦味が充満する。苦渋の味が満ち溢れる。或いは苦痛か、もしくは悔悟の味か。
彼女が悪いわけではない。
だからこそ、ここに居られないのだ。
「…ごめん」
追い討ち
そう言う他なかった。
どこまで俺を惨めにさせれば気が済むんだ。
どれほどの憐憫を俺は受け入れれば許されるのか。
「何、が」
自分の声が震えている。平然というガワはまるで意味を成しておらずただの虚勢に成り下がる。
「私が…最後まで聞くべきだった。もう少し譲歩して聞くべきだった」
「譲歩って」
罪悪感が肥大化していく。
呼応するかの如く増していく口内の苦味。苦汁の潤い。
「だから、あの時なんで急に怒ったのかって聞きたかった。もう少し、聞かなきゃいけなくて…」
要介護だろうが、こんなのは。
なんて事言わせているんだよ、俺は。
「でも…私、嫌われるのが怖いから聞く勇気が出なくて…」
俺も怖い。
俺だって怖い。
『自分のちっぽけな思想を誰かに共感して欲しいだけ』だなんて、言えるわけがないだろ。
謙遜と偽善と忖度で取り繕ったガワを被っていても、なお他人とまともに会話はすることは叶わない。
でも佐々山、お前は違うだろ。
お前は自分のありのままを全面に出して生きている。何の籠もなく自由に生きていられる。
なんて自由なんだよなんて恵まれているんだ。
そしてその生き様に嫉妬して、孤立している俺はなんだ。
"不安なものは不安なんだ"
いや
違う。
あの日に言ってたな、そういえば
なら、佐々山、なんでお前は踏み出せたんだ。
なんでその恐怖を踏み倒せたんだ。
「あ…」
逆転して今度は俺の口から言葉が母音しか出なくなる。
滑稽だ。
仕方ないだろうが。そういう不安定な生き方でしか、自分に対して優しくできないんだから。
俺はあの絵画みたいに一生、思慮深い『檻』の中にはいたくない。
ただ、押さえ付けられず、羽根を捥がれず、そんな縛られない生き方を誰かに聞いて欲しかっただけだ。
なのに、今の俺はどうしようもなく惨めだ。
「は、っはは」
自分の身体から掠れた笑い声が鳴る。同時に頬を伝わる湿り。人はあまりにも無様だと意思に反して涙するらしい。
なんと哀れなんだろう。
夏の陽炎のようにマーブル柄のように揺れ動く視界の中で、背後から佐々山が何か叫んでいる。聞いたことのない声色だった。
だがそんな心配より今はただ、目を瞑っていたかった。
そうすれば自分自身の醜態を、俺はこれ以上見なくても済むだろうから。