10話
消えゆく泡沫の世界で俺は立っていた。
辺りにはタンポポの綿毛が集まったような、ぼんやりと輪郭のないボヤけた景色が地平線まで広がっている。上を見上げると、花曇りの空の隙間から水彩画のような陽の光が僅かだが照り付けていた。
そんな夢心地の場所で俺は目を開き、見る。
過剰なまでに好きだった母を。
どうやら人間はあまりにも窮地に立たされると、空想的な何かを望むらしい。
そんなことをしてる場合じゃないのに。
この場所は現実ではない。それは分かっていた。
全ては都合の良い幻想であり、己を憐れみ、慰めるために自らが作り出した妄想。
手を伸ばしても届かず、ひたすら歩いても遠ざかっていく。
そんなものに今、俺は縋り付いている。
「あのさ」
精一杯の声を出す。母は気付いたのか振り向いて、ほんの少しだけ微笑む。病で死んでしまったときより、ふくよかで少し安堵する。
「どうしたらよかったと思う?」
俺は余計なものを極力削ぎ落とし、助けを求めた。
「俺さ、くだらなくてぎこちない交友関係が嫌だったんだ。無意味な配慮やら顧慮やら諂うみたいな感じなのが。でも、それは多分、ただの建前で…いや本心ではあるんだけど。ホントは誰かに自分の考えを分かって欲しくてさ…」
母は何も答えない。
ただ、頷いているようにも見えた。
「それでもそういう本心をさ、その…出すのが凄い怖くてそれで結局、自分が一番嫌がってた優しさのかけらもない優しさで自分を守って…でも勇気出して本心を出してみたんだけど、色々変なことになってさ」
母は何も言ってはくれない。
ただ、納得しているようにも見えた。
「俺、どうしたらよかった?」
母は何も話さない。
何も話してはくれなかった。
けれど、俺に向かって笑顔で指を指した。
それは死んだときに見た表情と全く同じだった。
これからの道も分からず、途方に暮れることを心配しての笑顔。
微塵も元気そうには見えなかったけれど、ほんの少しだけ寂しさが紛れたあの作り笑顔。
その純粋な優しさがどうしようもなく悲しく、苦しくて、羨ましくて、嬉しかった。
そしてくぐもった世界に光が差し込んでくる。
幻想が消え、妄想が終わり、現実を直視するときがやってくる。
「あ、起きた」
目を開くと視界には川内がいた。
「………ども」
「おはよう。大丈夫そ?」
「ん……はい……」
上半身を起こし辺りを見渡すと、見慣れた景色がそこにはあった。
「あー!起きたの!大丈夫!?」
見覚えのある顔の店員が慌ただしく詰め寄る。名札には矢星と名前が入っていた。
「……あぁ…はい。なんとか…いっ…」
立ちあがろうとしたとき、腰部に鈍重か痛みがのしかかる。
「ごめんねぇ、とりあえずパイプ椅子並べて寝かせたんだけどぉ…救急車呼ぼうとしたけど、うわ言でダメって威崎君言うから…大丈夫?怪我とか…」
「はい…とりあえずは大丈夫なんで…佐々山さんは…」
「佐々山ちゃんなら大学行ったよ。おぶって矢星さんと一緒にここまで運んでくれた」
淡々と状況報告を川内は食い気味に話す。
「すみません…本当に…」
「いいのいいの!そんなねぇ、ワタシみたいな生い先短い人が倒れるのと若い子が倒れるのじゃ重大さが全然違うんだし!ねっ?川内くん」
「え?あっはい、そうですね」
急に話を振られた川内はしどろもどろに答えた。
「まぁ…とりあえず目覚ましたみたいだし、ワタシちょっと戻るね?あと大丈夫そ?」
「はい…すみません、ホントに…」
「大丈夫!じゃ、川内くんあとお願いね」
「はい。矢星さんありがとうございます」
手を振りながら矢星はそのまま事務室を後にした。
「すみません川内さん…ありがとうございました色々」
「いや、俺何もしてないよ。なんか電話で『威崎くんが倒れた』って言うから駆けつけたら、事務室でめちゃくちゃ気持ち良さそうに寝てたし。まぁだから多分、殆ど佐々山ちゃんがやってくれたと思う」
「あぁ…佐々山さんが…」
「で、大丈夫?マジで。病院とか行かなくて大丈夫そう?」
「いや…大丈夫です。ただの…寝不足かと」
自信はなかったが、これ以上大事にしたくはなかったため濁すことにした。それに本当の原因も寝不足で正しいはずだ。
「まぁ、ならいいけど」
川内は立ち上がって荷物をまとめた。バイト用の地味な服装ではなくしっかりと洒落た着こなしな辺り、今から大学に行くのだろう。
「じゃあまぁ、俺もそろそろ行くわ。お大事に」
「あの」
場を離れようとした川内を俺は呼び止めた。
「1つ、聞きたいんですけど」
「ん?」
「どうやったら自分を好きになれますか?」
俺の質問に川内は上を向きながら大袈裟に考える仕草をした。
「まぁ、資格勉強とか?」
「…じゃあ、そんな自分が好きな自分っていうか…ありのままを他人に曝け出して嫌われるの、怖くないですか?」
「他人に?いやぁ…正味そんな。今はもうどうでもいいし」
川内は投げやりに答える。
「ただ、まぁもし他人に嫌われても、一緒に死んでみればいいんじゃない?好きな自分と」
「死ぬって…自殺ですか?」
「比喩だよ。仮に色んな人から嫌われて死地に立たされたり地獄に行っても、自分だけは自分を愛してあげれば一人だけど一人じゃないよねって話」
そう言って、川内は背を向けた。
「まぁさ、その地獄に行き着くまでに一人か二人ぐらい、自分を好んでくれる人に多分会えるよ。保証はしないけどね」
そして部屋を出て行った。
事務室にあるデジタルの時計を見ると、時刻は朝の8時、日付けはプレゼン発表日の前日を示していた。
無造作にポケットの中を探ると定期があった。これであれば一限には間に合うだろうか。
ふと、手先に違和感を覚えて、中身を取り出すと1枚の折りたたまれた紙切れが入っていた。広げると、ポテトだけが頼まれたレシート用紙だったが、裏には文字が書かれていた。
大学に着き1,2限を済ませた昼休み、俺は久しぶりに学食を食べることにした。選んだ料理は天ざるそば。いつもであれば売り切れ必至の人気メニューだが、今の考査期間はそもそも食堂より図書館の方が人が多いため、難なく買うことができた。
庭園が見える窓辺の座席を2つ確保し、待つ。腹は減ってはいたが、先に食べてしまうのは流石にアイツに悪い。
程なくして、前から走ってくるのが見えた。
「お待たせーすまんすまん、ちょっと講義長引いちゃって」
「いや、大丈夫」
「んで?用事って何よ」
「単刀直入に言うけどいい?」
「いいけど…どうかした?」
「渡部に話持ちかけたの、お前?」
目の前の柿島はおにぎりの包装を破りながら俺を見つめた。
「いや、いやなんもしてないぞ。俺は」
「嘘が下手過ぎる」
「だってこういうのってバラさずにしれーっとした態度なのが一般的だろ」
「そんな通例聞いたことないけど」
「……あぁそうだよ。俺が渡部に打診した」
溜め息を吐きながら、柿島はおにぎりを一口齧った。
「一月くらい前だったかな?与束との外出中になんか話してんのが聞こえたんだよ。そしたら何?なんかお前に課題押し付けてエンジョイするみたいなの話してたからさ」
「柿島、あの場にいたんだ」
「まぁ…んで、冗談かと思ってお前の事周りに聞いたら、マジでプレゼン課題押し付けられてたみたいだったから…あとは何もねぇよ、別に。製図の最終講義にお前が来てないの見て渡部に打診したんだ。『ボヤ騒動バラされたくなかったら、ちょっと今大変そうだから威崎のことどうにかしてくれ』って」
そう言って柿島は1本の動画を見せた。そこには渡部が誤ってライターを落とし、草木に火が燃え移る瞬間が見事に激写されている。
「喫煙だけでも取引材料としては十分だったけどな。まさかこんなのが撮れるとは思わなかった」
「結構鬼だな…お前」
「鬼なのは渡部だろ。あいつ厳しすぎんだよな…ちょっと線太かったらすーぐ文句たらたらだし」
柿島は口を尖らせて愚痴る。
「で?どうなったよ」
「…何が?」
「プレゼンだよ、プレゼン。決まってんだろ。丁度手伝いに来たんだから」
予想もしていなかった言葉が聞こえた。
「なんで、手伝ってくれるんだ?」
「なんでってそりゃ…親友だからだろ。まぁそれに俺も与束にはイラついてたし些細な抵抗って感じだな」
「……」
「んで見せてみ。そっちのパソコンでちょっとUSBから俺のに送ってくれよ。パワポなら共同編集できるし。もし終わんなかったら講義終わった後にでもまた……なんで泣いてんだよ」
「…泣いてないって」
「嘘下手すぎだろ」
「うるさい」
「…早く言ってくれればもっと前から手伝ってやったのに」
柿島は俺の背中をさすりながら宥めた。
どうやら昨日の件以降、俺の涙腺は馬鹿になってしまったらしい。
翌日、午後1時半
半円状の席が棚田のように並んだ大講義室、理工学実験講義のプレゼン発表が始まった。
この講義は、隔週オムニバス形式で行ってきた実験のうち1つを選択して、その実験結果等や再現性等をプレゼンテーションで発表をするというものだ。そしてこの発表の配点が成績換算で50%を締めている上に必修という、中々恐ろしい講義となっている。
「あーつっかれたわ」
そんな単位取得が決まるかどうかの瀬戸際を前に、気怠そうな声が横で聞こえてくる。
「久しぶり」
「あーおひさ。スライドは大丈夫そ?」
横柄な態度を包み隠すことなく見せる与束。その横には上屋もいた。
「あぁ一応。昨日の夜まで徹夜してやった甲斐はあったと思う」
「そうかぁ。ならよかったわ」
肩を叩きながら共にステージへ向かう。
「…なぁ、威崎」
怯えたような声で話す上屋。
「ん?」
「ホントに大丈夫なのか?」
「大丈夫だって上屋。別にしくじってもどうとでもなるって!俺らやってないんだし」
「あぁ…いや…」
能天気な態度で割り込む与束を他所に、上屋は釈然としない様子で沈黙した。
恐らく気付いているのだろう。
これから始まるのがプレゼンなどではなく、論争であることに。
PCをプロジェクターに繋ぎ、パワポのファイルを選択すると、壇上の上の巨大なスクリーンにタイトルが映し出される。
「え?」
腑抜けた声が与束から聞こえてきた。
それを見ながら上屋はすごすごとした様子で、バッグから台本を取り出す。
「すみません、用意出来たのでお願いします」
「あーはい。はい、では4班発表始まるので、ちょっと静かにお願いします」
主任教授の田村がマイクで室内を牽制する。
そして俺たちの、いや俺と上屋の発表が始まる。
「なぁ威崎。お前これ律儀にやる意味あんの?」
昨日の夜中、共同編集中に柿島が訊ねた。
「んー…まぁで2コマ分講義で落単は避けたいからなぁ」
「いやでも、普通に仲違いってか向こうが一方的に放棄したんだろ?なら教授に事情説明するなりしたら、それなりに善処してくれるんじゃね?」
相変わらず楽観的に話す柿島、だが実際はその通りだ。
こんな事をせずとも早い段階で打診していれば他班に混るだのなんだのするだけで済む。
だがそれでは勿体無い。
「まぁそうなんだけど。ただ、俺は寧ろいい機会だと思ってるよ。これを目標に与束への怒りも緩和できてたから」
「へー、そりゃまたなんで?」
「俺もお前と同じように、それなりにアイツに対してストレス溜まってるから。それを鬱憤できるいい機会ってこと」
「ほぇー、楽しみにしとくわ」
「まぁ上手くいったら拍手なりして盛り上げてくれ」
「拍手だけじゃなくてもっと盛大にやってやるよ。俺の人脈と人望舐めんなよ?」
運動部の柿島は学科内でも他生徒との交流はかなり多い。二重の意味で一軍だ。
「人脈か……なぁ、1つ聞いていいか?」
「ん?どしたよ」
「…俺って嫌われてんのかな」
そんな頼れる友人に作業の手を止めて、マイク越しに質問をする。
「どうしたよ急に」
「いや…与束がそう言ってたから。確かめたら大体当たってて…」
「ほーん、あの虚言癖のことが当たってたのか。 まぁ俺が周りにお前の状況聞いた時、そんなこと無かったけどな。"気の毒"だとか"可哀想だけど時間がねえから手伝えない"だとか」
「ホントそれ?俺が聞いた時は皆んななんか、険悪な感じだったけど」
「俺が聞いた限りだからまぁなんとも。少なくともお前を嫌ってる奴はいなかったよ。勉強よく教えてくれるって言ってる奴多いし」
「…そう」
「まぁアレじゃね、考えすぎだよ威崎は。もっとポジティブな感じに生きた方が楽だぞ」
「肝に銘じとく、それ」
「はは。おっ、やっと繋がった。じゃあ俺黙るから」
「あぁ悪い」
保留中の音が終わり、ひと月前に聞いた声が耳に入ってきた。
「久しぶり」
「……なんで威崎が?これ柿島の番号だろ?」
「PCのdiscordから柿島に繋いでもらって話してる。どうせ俺から掛けても出ないだろうし」
「……で?」
「協力だよ、協力。それの相談をしに」
「…断る」
数秒の沈黙の後、上屋は返答した。
「そか」
「…他のやつに頼んでくれ…柿島とかいるんだろ?」
「あぁ。ただそれだと不十分だと思ってて、機械やらプラグラムマニアの上屋を誘ったんだよ」
「とにかく…俺は無理だ。じゃあもう切─」
「与束への借金は大丈夫そう?」
数十秒の沈黙の間、電話越しに荒い息が聞こえてきた。
「なんの、ことだよ」
「いや?前食堂で遠くから見てたとき万札貰ってたから。ただの憶測だよ」
「憶測って……」
先程の控えめではあったが、確かに持ち合わせていたはずの威勢は消え失せていた。
「率直に言うけど、プレゼンで発表する実験を変えた」
「実験を変えた……?は……?」
「…一応二人に報告したんだけど。月頭で。まぁラインブロックされてるから意味なかったか」
「………」
定期的に静かになる上屋。
だが今は時間が本当に惜しいので、構わず話を続ける。
「で、まぁこのままだと上屋"たち"が用意したその台本は何の意味もなくなる。大舞台の100人くらいの前で大恥かきたいなら使えばいいけど」
「………どっ、どうすりゃいいんだよ…」
「落ち着けその為の協力だよ。まず俺が書いた台本のWordファイルを上屋に送る。その後俺に転送して欲しい。"与束に送っといて"って感じの文と一緒に」
「……威崎が送ってくれたファイルを威崎に返すのか……?何がしたいんだ……?」
「台本作成の名義をお前にすれば点数稼げるだろ?」
「いや……その…」
上屋が妙に歯切れの悪い返事をする。何が言いたいかはすぐに察した。
「裏切らないって。こんな土壇場で共倒れとか冗談抜きで発狂するよ」
「じゃあ俺は、威崎が用意してくれたファイルをその…お前に送ればいいんだよな?」
「うん、文書付きで」
「でもこれ何の意味があるんだよ…別に送るだけなんて…」
「形式的に必要なだけだよ。気にしなくていい。あぁ、あと上屋」
「なんだよ…?」
「裏切るなよ」
極力感情を消した声で上屋に注意喚起をする。
「もし当日与束が俺が作った台本を用意してたら、俺にもそれなりの策を取らせてもらう」
そう念を押すと、返事の代わりに鼻を啜るような音が聞こえた。
「……わかってるよ………たださ」
「ん?」
「ごめんな……威崎…」
上屋は震わせながら謝意を伝えた。
「俺……与束に脅されてて……ソシャゲの課金、代わりに金払ってやってんだからってそれで…もうよく分かんなくなっちゃって」
「…もういいって。気にしてないから」
「ごめん、ごめんな本当」
半ば嗚咽混じりの謝罪が聞こえた辺りで通話は切れてしまった。
「案外すんなり上手くいったな」
黙って聞いていた柿島が口を開いた。
「意外に食い下がるかと思ったから。短く済んでよかったよ」
「それでその裏切りに対しての策っていうか、報復はなんなんだ?」
興味深げに柿島は訊ねた。
「ない。そんなのは」
そんな好奇な期待を他所にあっさりと否定する。
「え、ないのか?」
「ない。別にない。共通の敵対する人間がいるから裏切らないとは思うけど、いざやられたらどうしようもできない。終わり」
「ほー純粋な信用か」
「まぁ…腐っても友達だから」
「なら俺が今この話を全部録音してて、それを誰かさんに密告してるとかは考えてたりする?」
まるで社交ダンス中にいきなり首元にナイフを突きつけられたような、温度差のある声質だった。
「…俺は友人を疑いたくないんだよ。もう苦いのは嫌だから」
柿島の質問に答える。
もうこれ以上、罪悪感の味を味わいたくはない。
それに、友人を失ったところで寂しくなるだけだ。
「…ただのジョークだよ」
沈黙の果てに柿島が弁明をした。
「タチの悪い奴」
「ごめんって。とにかく早く進めようぜ」
「だね。手伝ってくれて助かるよ」
「いいっていいって」
俺が与束という起因に対して憎悪を解放させる必要がなかったのは、来るべくしてその憎しみを発散させられるときが必ず来ると分かっていたからだ。
かくして与束への包囲網は順調に、そして堅実に張られていった。
「──以上が考察項目の説明となります。これより質疑応答の方に入ります」
そう進行を促したが、前方に座る教授らの表情は険しかった。
「あーこの実験担当の有原なんだけど…ひとつね、えーその、質問って言っていいか分からないんだけど…まぁいいやちょっと質問するね」
気まずそうな表情でオールバックの教授が指差す。
「はい」
「あ、いやキミじゃなくて。横の髪染めてる方の。そう、キミ」
「あっ…はい…」
「キミこのプレゼン中一切喋ってないけど、なんでか教えてもらっていい?」
「なんでって…いや…台本がなかったっていうか……」
指された与束はたじろぎながら答えた。
「台本がない…?えっと、すみません田村先生、このグループの名簿見ても……あ、威崎くんね。威崎くんは誰?」
有原はマイクを片手に小さなバインダーをパラパラと捲る。
「自分です。自分が威崎です」
「あーキミね。えっと…これ見る限り、キミがこのスライドを作ってきてくれた、でいいんだよね?」
「はい、大丈夫です」
「あー了解。えー…で、与束くん?与束くんは誰?」
「あ……自分です…ね」
「あーはいはい。で…キミはなんで何も話さないの?これ確か全員大体均等に話すって条件をこっちは付けたんだけど。ん?」
わざとらしく首を傾げながら有原は尋問する。
「いや…そもそも僕に伝えられてた実験が違ってて……」
「ん?実験が違うって…」
疑問を口に出す有原に隣の田村が耳打ちをした。ほどなくして有原が再びこちらに目線を向けた。
「あーそういうことね。レポート評価低くて自信なかったから、プレゼンで説明する実験変えたのね。で、その申告は─」
「科目主任の教授に先月の最終週に口頭で通達しました」
「なるほどなるほど。ん、じゃあ実験の変更を知らないのと台本の方がないって言うのは…与束くんどういうこと?」
「いや………何も教えられてなかったんで……」
なんとか切り抜けようとする与束。その言い訳は所詮付け焼き刃に過ぎない。
ならば畳み掛けるのはこのタイミングだ。
「実験科目が変わった件に関しては、主任に話した日にもその次の日にも翌週にも再三メールで通達しました。不安だったのでどこかしら口頭で説明はできないかと相談しましたけど、バックれられたんで。台本に関しては担当が上屋君で、与束君に共有して文書データの方を昨晩送ってます」
『予め保険をかけておいたのは正解だった』とまさに今思う。勉学において予習というのは復習より重要なのではないだろうか。
「あぁ担当を分けたのね。なるほどなるほど、すみませんね。ボクてっきりね、与束くんに何かしら嫌がらせでもして伝えなかったのかなって思っちゃって…そういう訳ではないみたいだね」
不気味な含み笑いをしながら有原は陳謝する。恐らく最後の一文は与束に被害者ヅラをさせない為の封手だろう。
「えーと…じゃあ与束くんはこの1ヶ月何をしてたのかな?」
そして有原は遂に本題へと踏み込む。俺が言えない台詞を代弁するかの如く与束を咎めていく。
「いや……伝達ミスっていうか……」
「いやいや、だって威崎くんメール送ったって言ってるけど。あ、ちょっとラインかoutlookでもいいけどさ、画面出せる?証拠残ってるでしょ」
「いや…えっと………台本刷るのに時間が…」
「それもおかしいでしょ。昼休みあるんだし、そもそもキミさ、実験すら把握してなかったんでしょ?質疑応答仮に当てられたらどうしてたの?」
有原の止まらない追撃に対し、与束は尻込みしながら何度も髪をかきあげる。そんなに弄っても有原みたいな髪にはならないだろうに。
「というかキミさ、ボクの科目受けてるよね?あのーなんだっけ…あ、代数関数の応用。名簿写メ撮ってあるから確かめてみようか?」
「あぁ………はい……」
「キミいっつもカードリーダーに通したら外出て、終わりがけに帰ってくるじゃん。金髪だから絶対見間違えないんだよ。他に染めてる子いるけど、流石に目立つからさ」
「………」
失笑しながら流暢に話す有原に対して与束は完全に沈黙した。
「うん…まぁ、然るべきね、評価をこっちはただ付けるだけなんだけど…ちょっと時間も押してるんで田村先生に代わります」
田村はマイクを受け取るとまじまじと俺の目を見つめた。そして数回納得したように頷き、目線をスクリーンへと移した。
「えー…まぁまず、報連相はね、これから社会人になる人間として最低限の常識なんで、送る側も"受け取る側"も、気を付けていきましょうね」
わざとらしい抑揚のついたアドバイスに、隣で完全に萎縮した与束の肩がぴくりと動く。
「で、内容に関してはまぁ、よく出来てると思いますけど…ちょっと文量がね、多いかなって感じがしました。まぁ内容は個人的によく出来てるかなと思います。私からは以上です」
そう田村が言い終わると、前方座席上段から指笛のけたたましい音が聞こえてきた。
「ナイスぅー」
大声で叫び声が聞こえる。柿島の仕業だろう。こんな大講堂であんなことができるメンタルの持ち主は他にはいない。
その指笛と叫び声に追従するかの如く拍手が続く。
「…以上で4班のプレゼンを終了とさせていただきます」
そんな讃美に囲まれながらありきたりな固い言葉で締め、俺は壇上から降りた。
その日の夕方、俺は中庭で呆けた。数多の知識を詰め込み過ぎた頭を一時的に冷却しておきたかったからだ。
プレゼンは終わったが、それはテスト期間の始まりを報せる前夜祭に過ぎない。つまり本当の地獄はこれからということだ。
課題は期間中だろうとお構いなしに課せられ、レポートの文字数下限は最低5桁。期末ということもあり範囲もだだっ広い。
そんなことをあれこれ思い浮かべてるうちに、遂に限界を超えながらも稼働し続けていた頭が、この暑さと共に熱暴走を始めた。
「…あったまいってぇ」
ベンチで横になり、頭上の草木を眺める。1つの大きな課題を乗り越えたはずなのに、先週よりも緊迫している。
だが、その緊迫を俺は今噛み締めている。
これこそが今、俺が絶望していない証拠であり、現実を見つめていることの裏付けになるからだ。
こうして来週頭の期末考査やレポートの締め切りに悩めるのも、1つの形を変えた日常であり、身近な幸せなのかもしれない。
そんな頭痛に悩まされながら、宙を見ていた時、草木を踏み締める音が聞こえてくる。
その音は俺の間近で止んだ。
「………お疲れ」
与束は覗き込むように見下ろした。耳に付けた銀のピアスが頭上の要項に照らされ、輪郭が金剛色へ輝いている。
だが本人の表情に光はなく、虚な目を向けている。その表情には怒りや悲しみが混同しているようにも、抜け殻の様に如何なる感情も入っていないようにも見えた。
特に何か話すわけでもなく暫く見つめた後、向かいのベンチに与束は腰を下ろした。
互いに何も話さない。身体も殆ど動かさない。『行動をする』という行為そのものが、自身の考えを相手に認知されてしまうことを理解していたからだ。
そしてもう1つ、復縁はあり得ないということを理解していた。
向こう側も自分から約束を反故にしておいて、その人間に嵌められて今更仲直りなど、プライドが確実に許しはしないだろう。
つまり今後、俺と与束が話す機会は無いということだ。
気まずい空気が中庭を延々と漂う。脳内を小突かれる様な痛みに耐えながら、ただひたす与束が去るのを待つが一向に場を離れる気はない。向こうも誰かを、或いは何かを待っている様に見えた。
「なぁ」
沈黙が生み出す重圧に耐えかね、先に折れたのは俺の方だった。
『これは二度と話すことのない故の温情であり、ただの気まぐれな忖度だ』と、羞恥心を紛らわす為に自分へ言い訳をしてみる。
「誰か待ってんの?」
話しかけたものの返事はない。与束はただ項垂れたようにベンチに腰掛けている。
別にこのままスルーしてもいいのだが、ここで帰れば与束と面と向かって話す機会はもう二度とやってこないだろう。
少なくとも、まだ俺と与束は友人関係だ。
どれだけ中身がぐずぐずに腐敗していても、腐っても友達なのだ。
「なあ」
頭痛が酷いのであまり声を張り上げたくはなかったが、再度話しかけてみる。それが功を奏したのか、ゆっくりと与束は顔を上げた。
数時間前まで有天頂を体現化したかの様な明るい表情は、もはや見る影もない。人間は短時間でここまで変わるものなのか。それとも与束はそもそも『そういう人間』ではなかったのかもしれない。
虚勢のガワが剥がれた今が本当の与束ということなのか。
「威崎」
小さな声で与束は呟いた。
「ん?」
「俺ってどんな奴?」
明確にはっきりと聞こえたその言葉にはなぜか重みがあった。
軽はずみに裏切るような奴なのに。
「さぁ。他のやつに聞いたら?」
「聞いた。あとはお前だけ」
与束は食い気味に反論し、こちらを見つめる。
「友人だったやつ」
与束の問いに俺は答える。
偽善者でいようが、愛想笑いを顔に貼り付けていようが
どれだけ本心をひた隠しにしながら一緒にいたとしても、少なくとも1年の頃に与束と過ごした時間は苦痛ではなかった。
それは紛れもない事実だ。
与束は何も変わってはいない。
俺が変わったが故に波長が合わなくなり、すれ違い、拗れ、ここに至ってしまった。
「あっそう」
与束はそう言い、腰を漸く上げる。
「じゃあな、クズ野郎」
それが答えであり、与束の全てだった。
残された俺はその後ろ姿を暫く見届け、起き上がって反対の方向へ向かった。




