最終話-2(完)
展望台から見渡す街は、輪郭が太陽に照らされながら輝いていた。心なしか風も下より強く、先程までの猛暑が少し緩和されていた。
佐々山と俺は誰もいない展望広場で適当にベンチに座りながらそんな街の風景を眺める。話すことは特にあるわけもなく、沈黙が続く。
「綺麗ですね」
「だね、綺麗」
試しに話しかけてみるが、会話が続くことはない。先週は剽軽者の柿島とテスト対策をしていたので、こういった会話でのぎこちなさを感じるのは久しぶりだったが、相手が佐々山だからなのか居心地辛さを感じるほどではない。
「あっそういえば」
佐々山が何か思い出したように言った。
「この間大丈夫だった?」
「あぁ、はい。バイトのやつならなんとか」
「いやホントにびっくりしたからねーあのとき。急にぱったり後ろに倒れちゃってさ。夜勤の人とお客さんが手伝ってくれたからなんとかなったけど」
「お客さんが、ですか?」
「多分学生だったかなぁ制服着てたし。そのあとすぐ退店していっちゃったからよく見えなかった。なんか知り合い?」
「いや知り合いってわけじゃないですね」
「じゃあ他人?」
「いや、他人ってほどでも…」
完全に否定し切ることに対して多少の罪悪感を感じた。それと共に、あのレシートを入れたのが誰だったかを理解した。
「まぁでも、とにかく無事でよかったよ、ほんとに」
独り言を呟きながら佐々山は腕を上げながら身体を伸ばした。中身の無い会話を無理やり続けているようで、どこか余所余所しい感じが滲み出ている。
「あの」
「ん?」
俺はそろそろ現実を見なければならない。無論これも現実なのだが、直視をしたくない現実を除いた現実モドキを見ている。
「この間のことで少し、話したいことがあるんです」
「この間の?あぁ、あれね」
佐々山は真っ直ぐ前を向いたまま話す。
「威崎くんが何考えてるか知らないけど、別にそんなに気にしてないよ。自分を見つめ直す良い機会になったかなって思ってるし」
その善意が腹を抉るように俺に放たれる。口調は軽かったが、言葉は重かった。
「やっぱりさ、人に踏み込まれたくない秘密っていうか、そういう領域みたいなのってあるじゃん?あの塔井さんの絵みたいに。だからそういうのにズカズカ踏み込んでいくことに、私ももう少し躊躇すべきだったなぁって思ったり思わなかったり」
佐々山は善意を交えて饒舌に語る。あまりにも滑らかな口調であり、まるで初めからそう準備していたかのようだった。
「佐々山さん、あの」
「ん?」
「それって疲れないですか?」
佐々山はキョトンとしながら首を傾げる。
全てにおいて彼女は手本のような、正解の行動を取っている。
「"それ"?」
「それです、それ。その態度っていうか…限界まで自意識を無くした模範的な話し方が、こう引っかかって」
「んー、どうして?」
佐々山は苦笑いを浮かべながら訊く。
「側から見てて少し、気の毒に見えたので。なんか無理してるんじゃないかと」
「無理してる?いやいや、無理なんて全然してないって。これがニュートラルだよ?だって、バイトの時だってこんな感じだったでしょ?」
「ええ。ですけど、今は…ぎこちないっていうか、それが普通なんですか?」
「うん、普通」
「いつも通り?」
「うん、いつも通り。全然普通だよ」
佐々山はのらりくらりと質問を詮索することもなく応える。一連の所作に表情の変化こそあるが、口調は変わらず明るく一切の変化はない。
「威崎君さ、考えすぎだよ。私そんな頭良くないし適当に口動かしてるだけのスピーカーだよ?」
「つい最近別のやつにもそう言われました」
「でしょ?だからもう少し肩の力抜いて、リラックスしたほうがいいって」
そういうと佐々山は立ち上がり、俺の背後に周って肩に手を乗せた。
「折角だから肩揉んであげよう」
「いや大丈夫ですって、ていうかまだそんな老けてないです」
「まぁまぁいいじゃないの、たまにはこういうのもさ。人生において肩揉みって羽伸ばしっていうか、一時停止というか、なんて言うんだっけこういうの」
「肩揉みを人生観に捩じ込むのは結構無理があると思うんですけど」
「人が説法を説いてる最中にそんな野暮なこと言いなさんな」
ぺちっと佐々山は俺の頭を軽く叩くと、本当に肩を揉み始めた。誰からもやってもらったことがないのでそもそもの基準が分からないが、意外と気持ちがいい。拳で叩くタイプではなかったので、骨が軋むような感触がもろに伝わってくるのが少々不安ではあるが。
「どう?結構上手いでしょ」
「正直かなりいいです。整体師とか目指してます?」
「んいや、おじいちゃんがいた頃よくやってあげてた。あっちは背骨とか肩甲骨も押してあげてたけど」
「肩甲骨ってどの辺でしたっけ?」
「んーとね、ここかな」
そう言うと佐々山は肩から手を外し、代わりにうなじの下の方を思い切り押した。直後、反射的に身体がのけ反ってしまった。
「わ、大丈夫?」
肩はまだ心地良さと固まった筋肉が緩んでいくような痛みが釣り合っていたが、肩甲骨は本気で痛い。
「痛い痛い痛いです、ちょっタンマタンマ」
「あっははは、ごめんごめんちょっと強すぎたかも。威崎君、なんか、アレみたい、〆てないエビがビクッてなるやつ。あー、ごめんツボったかも」
腕で顔を隠しながら爆笑しているのを他所に、激痛の余韻に堪える。正直言って足の指をソファにぶつけた時よりも痛かった。
ひとしきり笑い終えたところでわざとらしい咳払いをし、佐々山は手を再び肩に乗せる。先程より力が抜けていて今度は丁度良かった。
「さっきの話なんだけどね、正直威崎君が言ってたこと、一理どころか二理三理はあるなって思ったんだよね」
「あれは…正直言って忘れて欲しいです。まぁできない、ですよね」
「うん、無理無理。脳みそにしっかり残ってるもん。あっ大丈夫。悪い意味じゃないから、全然」
そうは言うものの、表情が見えない分その言葉は重たく感じた。
「自分のことを俯瞰してよく考えてみる良い機会が思わぬ形で手に入ったんだからね。その点、寧ろ感謝してるくらい」
「皮肉とか嫌味として受け取っておきますよ。あれだけの罵詈雑言を吐いて、感謝されるのはおかしな話なんで」
「まぁまぁそう自己嫌悪せず。それでさ、私ってそのー、他人と会話するのが素で得意なんだと思う。だから威崎君に言われるまで、そういう問題というか葛藤の根本から逃げてたんだなぁって」
「逃げるも何もあの時言ったのはただの出鱈目ですよ。別に真に受ける必要はないですって」
「少なくとも、私はそうは思わないよ?出鱈目であんな具体的に他人の特徴を捻り出せる人見たことないし。でさ、改めて私は色々考えてみたんだ。私ってどういう奴なんだろうって」
「結局どういう人だったんですか?自分から見て佐々山は」
「んー」
肩を揉みながら佐々山は呻き声を出す。先程よりまた力が抜けた気がした。
「どういう人だと思う?」
「ここでバトンタッチですか?」
「困った時は他人に押し付けるのもまた1つの処世術、と人生の先輩から言っておこうか」
「まだ1歳差でしょうが」
「1歳差というのは結構デカいんだよ、少年」
「少年じゃないです。もう20歳なんで」
「たしかに。少年は肩揉みされるぐらい老いてないもんね」
「そこまでジジイになったつもりはないです」
冗談混じりの会話を、いつの間にか薄めたエメラルド色のような空を眺めながら続ける。
心を擦り減らす必要のない、心地よい時間。
それが少しでも長く続いて欲しかった。
「でもいざしっかりと向き合って考えるっていうのは、案外難しいもんだね」
「俺は考えること自体は好きですけどね。ただ結論をいざ出しても、それが自分にとって何の意味があるかを理解してなければ毒にも薬にもなりませんし」
「私なんかずーっと能天気かつ気ままに生きてきたからさ、哲学的なこととか脳味噌フル稼働させることは苦手分野なんだ」
「哲学的なこと言ったら、これは塔井さんからの受け売りなんですけど、『新しい自分を見つけることは1つの楽しみだ』って、佐々山さんが来る前に言われたんですよ」
「新しいことを見つけるのが?」
「はい。自分の知らない自分の一面を見つけることがわくわくするというか、好奇心をくすぐるというか─」
「それはないよ」
生気の無い声が耳に入るのと同時に、佐々山の手が止まる。
「それはないかな、うん。それはない」
「どうしてそう思うんですか?」
「どうもこうも、それは経験したからね。私がバッチリ保証してあげる」
佐々山は訂正するようにいつもの温かい口調で再度言い直した。それでも直前の冷淡な言い草が、頭の中で反響を続ける。まるで別人の様な言い草だった。
「1つ質問っていうか、許可を得たいんだけど。いいかな?」
その頼み方にはまるで、脅し文句、恫喝の様な圧迫感があった。
「はい」
「ありがとね」
佐々山は肩を揉むのをやめると、俺の隣に腰を下ろした。そして肩をあげて深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。
それが彼女なりに区切りを付けられる、1つの安易な手段なのかもしれない。
「自分なんてクソだよ、はっきり言って」
僅かな沈黙の後、佐々山が口を開いた。
「見たくない側面が他人と関わることで、醜悪さが湧き上がってくる。嫌悪感と吐き気は止まらないし、新しいクソみたいな一面を知ったおかげで自分の確立されてた生き方がどんどん遠のいてボヤけてくの」
笑いどころが行方不明なギャグは佐々山の十八番ではあったが、ある程度彼女の中で線引きがあったのか、今まで纏っている清純さが消えたことは今まで一度もなかった。
だが今の佐々山からは、それが見て取れない。
「知りたくなかったことは、永遠に自分の中で根を下ろしたみたいに動かず忘れられない。永遠に覚えてる。ずっと自分の足を引っ張るし、ずっと自分を蝕む。だってそうじゃない?自分が大好きだった人間がある日、自分の醜悪な一面を見つけてまともにいられる訳がないじゃん」
そう言いながら彼女は自嘲的な笑みを浮かべて、口走る様に自身の所見を俺に伝える。それは共感を求めている風というより、ただ自身の言いたかったことを吐露しているようだった。
「要するに、私は私が好きじゃない。以上が私の見解」
そして佐々山は捲し立てるようにひとしきり話し、ベンチに深く座り直した。
「ごめんね、急に変なこと口走っちゃって。あー我ながらこわいこわい、あんまり汚い言葉を使うのは良くないね」
「いえ、たまにはそういうことも必要ですよ。無理に我慢してもあとから苦しくなるのは自分も経験してるんで」
「私もあるなー。陸上とかでめちゃくちゃ最初飛ばしてあとからシナシナになってコーチに怒鳴られたりして。まぁでも、ある程度ガス抜きは重要だけど、発散の方法をもう少し考えないといけないなぁ」
佐々山は先程とは打って変わって、語尾に跳ねる様な口調で喋り続ける。
彼女は依然として変わらない。
だからここで止める必要がある。
「あ、すみません。僕も一つ聞きたいことが」
「んーいいよいいよ、私だけ一方的に聞いてもらっちゃ悪いしね」
「ありがとうございます。それで佐々山からさっきの話って」
「うんうん」
「あれが以上ですか?」
いつも通り微笑みを浮かべる佐々山を俺は捕まえる。
「えっと、以上でも以下でもないんだけど…あっただちょっと、スッキリしてみたかったんだ。ホントにそれだけ!言い方が悪かったのはホントごめん」
彼女は依然として変わらない。逃げ続ける。問題の本質をあやふやにして、言葉をありきたりな締めくくりで濁して逃げる。
だから彼女は自らが生み出した善意の人相から逃れることはできない。
「違うでしょう」
貼り付けた様な笑みを浮かべる佐々山を否定する。そして俺は今から、そのガワを被った彼女自身を否定する。
「分からないですよ全然。微塵も理解できないです。なんですか、自己嫌悪だなんてそれっぽい言葉でまとめて」
俺は別に佐々山を助けたいだとかそういう善行をしたい訳ではない。ただ、借りた恩を返さなければという罪悪感に押されて、その対価に見合った行動として彼女を締め付けている善意を引き剥がすということにした
「そんな模範的でお利口なのじゃないでしょう佐々山さんがずっと言いたいことって」
というのが建前だ。
「今まで貴方の口から出てる言葉は全てどれもこれも優しくて温かみのある親切な言葉ばっかりでした。他人に対して常にずっと思慮深かった」
俺はあれだけの罵詈雑言をぶつければ、佐々山が持っている俺の下らない理想像を完全に破壊できると思った。そうすることで、佐々山は俺に善意を振り撒くこともなくなる。善意の垣根を超えて漸く俺は対等に話せると考えていた。
というのも建前だな。
違うだろうが、こんなことじゃない、もっと単純な話だ。
「でも貴方は常に、耐えていたんです。ずっと1人で、誰にも言わず、誰にも助けを請わず」
今、岐路にいる。
ここまで色々と試行錯誤をして、思索しながら俺は打算的に行動をしてきた。上手くいくことも危ない橋から落ちることもあった。
「本当に優しかったんです、佐々山さんは。あまりにも優し過ぎた。だから笑っていて欲しかった。本当に心から笑っていてほしかった」
これら全て間違っていたわけではなく、また全て正しかったわけでもない。合理的に生きていたつもりが、いつの間にか不条理に巻き込まれることすらあった。
「別にそんな体裁に拘って、他人に気遣って、心を遣って、自分を酷使しなくていいじゃないですか。そんな自滅的な善行、もういいでしょう」
ただそんな回りくどいやり方をせず、斜に構えず、俺はそろそろ素直になるべきだ。
「嫌ですよ、好きな人が苦しんでるところなんて、見たくないですから、どうか言ってくださいよ、ひとことだけ」
佐々山は隣で俺の顔を見ていた。あの貼り付けた様な、夏の向日葵の様な明るい表情ではなかったけども、こんな薄っぺらな自己主張を最後まで聞いてくれた。
彼女は優しかった。どこまでも優しく、温かく、居心地が良かった。
だからそれが、どうかもう過去のものであって欲しいと願う。
「あー、えっと」
佐々山は指で頬をなぞりながら呟く。苦笑いを浮かべていた。
「たしかに、私はもう少し自分に寛容になるべきだったね。別に意識的にやってないってわけじゃないんだけど、どうしても他の人が困ったり、悩んだりしてるところって見過ごせないなって」
佐々山は宥める様に話す。
「ほら、なんて言うか…承認欲求?凄く言い方悪いんだけど、なんか良いことをしてる自分が好きっていうか、ちょっと良い感じの表現が思い浮かばないなぁ」
そう言うと、場の空気を切り替えるように佐々山は手を叩き軽快な音を鳴らした。
「とにかく!私はそんなにヤワじゃない!うん、だから威崎くんが思ってるほど、深刻に考えなくても」
そこまで言ったとき、佐々山は止まる。
言葉を垂れ流していた口が止まった。
岐路に立っていたのは俺だけではない。
彼女もまた考えていた。
あまりにも多くのことを考えていて、その中に自分が含まれてはいなかった。
「もし」
佐々山が口を開く。
「私が、他人のことが嫌いだったら、どう思う?」
「どうも思いませんよ。それが佐々山さんなんで」
「そっか」
少し間を空けて佐々山は返事をした。
「威崎くん」
「はい」
「もう、私、大丈夫じゃなかったかも」
「じゃあ思いっきり表に出してみるといいですよ」
「そうしてみる」
そう言って佐々山は泣き始めた。そして啜り泣く声は数秒経たずに、嗚咽混じりの泣き声に変わっていく。
そんな落涙の最中で譫言の様に彼女は何かを言っていた。
大学教授への不満
友人関係の不満
バイト先の店長への不満
俺はその罵りに耳を傾けることにした。
この瞬間、佐々山は漸く自分を慰め、心中を吐露することができたのだ。
「佐々山さん」
「ん?」
陽はほとんど落ちて藍色の空へと変わり始めた頃、漸く佐々山は泣き声を止めた。
「アイス食べません?」
そう提案すると、佐々山は呆気に取られた表情をしたのち吹き出した。程よく破綻してしまった心を繋ぎ止めるために何かをしなければと、考えた上での提案だった。
「どういう流れ?」
「甘いものを食べれば頭がはっきりする、と友人から聞いたんで。何味にします?買ってきますよ」
「じゃあバニラで。威崎君やっぱり漫才向いてるかもよ」
「やりませんし、もしやるなら落語にしておきます」
「へー、なんで落語?」
「なんか…あっちの方が様になってるんで」
「安直、狂言とかやればいいのに」
「理系に硬派な日本文化は相性悪いですよ」
俺は屋上の自販機でバニラ、そしていちごのアイス買った。どういうわけだか大学で苺のムースを食べて以降、甘酸っぱさが自分の中でブームになりかけている。
冷気を放つアイスを両手に俺はベンチに戻った。
「ありがと。いくらだっけ」
「いえ、奢りなんで大丈夫ですよ。ていうか前回もなんやかんや有耶無耶にされて佐々山さん奢ってましたし」
「あれ、そうだった?まぁでも多分私がそもそも食べたいとかもあったし気にしないでいいよ」
そう言って佐々山はソフトクリームをひと口食べると、足先を目一杯伸ばしながら顔を歪ませた。
「どうしました?」
「頭めっちゃ冷たい…ほぼ絶対零度、んーつめたっ」
悶えながらもスプーンを口に運ぶ。どうやら美味しさが勝ったようだった。
「もうそろそろ陽が落ち切りますね」
「だね。なんやかんやもう6時ぐらいだよ」
「こんな明るくて6時となると、もう梅雨の残り香もありませんね」
「早いなぁ、もう夏だよ夏。あ、そうそう威崎君大学いつまで?」
若干身を乗り出し気味に佐々山は訊ねた。
「前期なんで…8月の1週目までですね」
「じゃあ山行こう、山!」
「山?海じゃなくて?」
「山派だよ私は。ボルダリングにハマってたから」
「それ…山行くというか登山では?まぁ多分大丈夫だと思いますけど」
「じゃ決まり。ありがとね」
ほぼ有無を言わせずに決められてしまったが、これで佐々山の気持ちが上を向いてくれるなら悪いことではないかもしれない。
次の土曜に柿島に色々教えてもらうことにしよう。確かアイツは運動部だっただろうし。
アイスを食べ終えて、俺と佐々山はビルの隙間から僅かに放つ陽光を眺めた。ほんの少し手先が肌寒かったのでポケットに突っ込む。
「そういえば威崎君」
「はい?」
「改めて、すみませんでした」
唐突な謝意に俺は混乱した。それも声に含まれる温もりの緩急が激しいので尚更だった。
「急にどうしました?」
「いや、さっきのこと。急にバカみたいに泣いちゃってなんか、申し訳なくてさ」
「すみませんでした」と、膝に手を置きながら佐々山は再度頭を下げた。おちゃらけた雰囲気は残っておらず、本人なりに線引きをしているのだろう。
「それ言うなら自分も言わなきゃダメですね。元々は自分が始めた元凶ですし」
そう前置きをして謝意を述べ、俺も頭を下げる。佐々山からのリアクションは無かった。
ゆっくりと顔を上げると、佐々山は口角と片眉を上げながら不気味な表情をしていた。その表情は嘲笑っている様にも不満気にも見える。
「そうじゃないよねぇ」
とでも言いたげな顔だ。
というかもう言われた。
「と言いますと?」
「惚けても無駄だよ名探偵」
「佐々山さん、ボケが渋滞しますそれ」
「えー、まぁいいけど」
佐々山はありもしないネクタイを整える様に、襟元を弄る。
「で、違うでしょ?私はしっかり聞いちゃったからね」
「何をですか?」
「それはーあれだよ、あれ。大切な時とか良い感じのムードに言う言葉…みたいな?」
「あぁ…あれ」
察しの悪い感じに惚けようかと思ったが、
それでは数分前に自分が心の内で豪語したことにも反してしまうので、やめておくことにした。
「でもシリアス感足りてますか?」
「…じゃあもうちょっと足しとく?こんな感じでさ」
そう言い終えた途端、佐々山は急に両手を俺の頬に当ててぐいと近づけた。
「んえ」
信じられないほど間抜けな声が出たのはさておき、昼のとき同様にほんのりと花の芳しい香りが鼻腔を擽る。
だが、きっと自分の表情が緩んでしまうのはこの香りが原因でないことなど分かり切っている。しかしまずは今この目の前にいる佐々山が突拍子もなくこんな事をする訳を探求しなければならない。理由は単純でそういう合理的な考えを見つけなければどうかしてしまいそうだからだ。確かに佐々山が全ての問題を曖昧な解釈をしてしまうと大概おかしな方向に進んでしまうみたいなことを言っていたように目を塞いでいると
「もしもし?」
「あ…は、い」
「震えてるけど、大丈夫そう?」
頭をフル稼働させてこの状況を理解しようとした時、佐々山が思考の海に沈もうとしていた俺を無理矢理引きずり上げた。
「いえ……全く」
まさかこんな形で意趣返しを、いや恩返しを喰らうとは思いもしなかったので、殆どパニック一歩手前の様な状況に陥っていた。最早自分がついさっき言った返事ができたかどうかの見当もつかない。
「あの」
「んー?」
ハミングの様な心地よい声色で佐々山は返事をする。
「これ、手を離してくれませんか?一回」
「んー、なんで?」
「ちょっとだけ、冷たいので」
「あぁ、それはごめん」
頬から手が離れると、体内に循環するように響いていた鼓動が徐々に緩やかになっていった。
「それで─」
佐々山の強引な方法で場は"そういう雰囲気"へとすっかり様変わりをしていた。表現をするならあれだ、小学生の頃に教室で指笛やらコールが巻き起こるような、そういった具合。
「改めて聞くけど、どう思う?」
佐々山は座り直して、手を重ね、じっと見つめる。
「んー」
佐々山のように悩む素振りをしてみる。
完全に拒絶して如何なるものにも縛られない孤独な自由も、取り計らい取り繕い潤滑に合理的な幸せもまだ俺は選ぶことができた。
いや、悩むまでもないか。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。




