静かな違和感
翌朝ミレアナは一人、市場の喧騒の中にいた。
「……高いわね。不当な利益上乗せではないかしら」
「嬢ちゃん、そりゃ言いがかりだ。これは一級品なんだよ」
「でも昨日別の店で確認した際には、同等の品が二割は安価に設定されていたわ」
「昨日ぉ?」
恰幅の良い店主が鼻で笑った。
「そりゃ、何も知らねぇ観光客向けの見せかけ価格だ。この街じゃモノの価値は毎日変わるんだよ」
ミレアナは沈黙した。
なるほど、つまりこの街において価格とは提示される「確定値」ではなく、交渉によって変動する「動的な数値」であるらしい。
(……面倒だわ。非常に)
合理的ではない。
そんな非効率なやり取りに時間を割く意味が分からない。
眉間に皺を寄せる彼女の背後から、聞き慣れた溜息混じりの声がした。
「お嬢様」
リオネルだった。
「何故、一人で出歩くのです。買い物くらい私にお申し付けいただければ済むものを」
「……経験よ。自分の生活に必要な物資の相場くらい、把握しておくべきだわ」
「その結果、足元を見られて時間を浪費している。効率的ではありませんね」
「…………」
正論だった。
反論の余地がない。
リオネルは自然な動作で店主との間に入り、鋭い視線を向けた。
「これは相場より高い。品質は認めるがその傷なら三割は引くのが妥当だ」
「兄ちゃん、細けぇなぁ……」
「当然だ。適正価格を提示しろ」
淡々と澱みなく交渉を始めるリオネル。
その背中を見ながらミレアナは思考を巡らせた。
王都ではこうした泥臭いやり取りを自分でする必要はなかった。
最高品質の物があらかじめ定められた価格で、あるいは献上品として用意されている。
自分はただ、それを「受け取る」だけだった。
だから……そう。
「生活」という実感やその手触りが、彼女の中には欠落している。
「へぇ」
不意に真横から声が降ってきた。
振り向けば、いつの間にかそこにレーヴが立っていた。
「来てたんだ、アンタ」
「……何故貴方がここにいるの。監視でもしているのかしら」
「偶然。って言っても信じないか」
「即答で否定するわ」
「あはは、手厳しいな」
レーヴは笑いながら、店先に並ぶ調査用の革袋や乾物を覗き込んだ。
「何買うつもり? お嬢様が市場で買い物なんて、珍百景だよ」
「調査用の備品よ。支給品だけでは不十分な可能性があるわ」
「へぇ。ほんと真面目だねぇ」
「必要だから、備える。それだけよ」
ミレアナが当然のように答えると、レーヴはふっと目を細めた。
「アンタ、ほんとに無駄が嫌いなんだね」
「……悪いことかしら」
「いや?」
軽い口調。
だがその視線だけは深く、彼女の心臓の鼓動まで数えようとしているかのように鋭い。
「……何よ。私の顔に、何か付いているかしら」
「別に」
レーヴはまたいつもの軽薄そうな笑みを浮かべた。
「でもさ。……ちゃんと『生きよう』としてんだなって思って」
ミレアナはわずかに目を見開いた。
生きる。
その平易な言葉が、何故か今の彼女の胸に重い石を投げ込まれたような波紋を広げた。
今までの彼女は「役割」を果たすことだけに最適化されていた。
王太子妃候補として、公爵家の令嬢として。
周囲が求める理想像を完璧にトレースし、期待される最適解を積み重ねる。
それが自分の存在価値であり、すべてだと思っていた。
けれど今は、この見知らぬ辺境の街で冒険者として誰のためでもない、自分の意思で足を踏み出し、慣れない市場で交渉に頭を悩ませている。
「……変ね」
「何が?」
「貴方と話していると時々分からなくなるわ。自分の座標が」
「座標?」
「ええ。今まで当然だと思っていたことが実は酷く歪なことだったんじゃないかって……そんな風に感じるの」
レーヴは少しだけ黙り込んだ。
彼の銀髪が朝の光を弾いて一瞬だけ神聖なほど白く輝く。
「……そりゃ良かった」
短く噛み締めるように彼は言った。
ミレアナはその横顔を見る。
柔らかい。
いつもの道化た表情よりもずっと静かで、深い色を湛えた顔。
その時、通りの向こう側で数人の冒険者が騒ぎ始めた。
「おい、聞いたか! 東の監視所からだ!」
「西の森の件か!? 何か出たのか!」
「また被害が出たらしい! 今度は斥候隊が戻ってこねぇって話だ!」
一瞬で市場の熱気が凍りつく。
レーヴの顔から笑みが消え、その瞳が氷のような冷たさを取り戻した。
交渉を終えたリオネルも即座にミレアナの傍らへと戻る。
「……進行が、早すぎるわね」
ミレアナが小さく呟いた。
異変の速度が、彼女の論理的予測を遥かに上回っている。
嫌な予感がした。
そして彼女の冷徹な計算が導き出す「予感」は、往々にして残酷なほど正確に外れない。




