表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/42

ギルドマスター

ミレアナの口元が春の陽光に触れた雪のように、ほんのわずかだけ緩んだ。

それは無意識の、けれど確かな“微笑”だった。

レーヴが息を呑み目を見開く。


「……え」

「何?」

「いや、今……アンタ、笑ったろ?」

「?」


本気で心当たりがない、という顔。

ミレアナは自分が表情を変えた自覚すら持っていない。

レーヴは数秒間言葉を失ったように彼女を見つめていたが、やがてふっと憑き物が落ちたように笑った。


「いや、なんでもない。……似合ってるよ、そっちの方が」


妙に優しく、温度のある声だった。

ミレアナはわずかに首を傾げる。

その意味を問い返そうとした、その時。


「おい、レーヴ!!」


ギルドの奥から、空気を震わせるような怒鳴り声が飛んできた。

姿を現したのは、岩のように頑強な体躯を持つ大柄な男。

片目を眼帯で覆い、顔には幾多の戦場を潜り抜けてきた証である大きな傷跡が刻まれている。

その男が現れた瞬間、酒場にいた冒険者たちの背筋が、目に見えて伸びた。


「ギルドマスター……」


誰かが小声で呟く。

ボーデンの冒険者を束ねる長、バッシュだ。

バッシュはレーヴを見るなり、深く眉間の皺を寄せた。


「また厄介事……それも特大のやつを持ち込みやがって。お前は歩く災厄か?」

「えぇ、濡れ衣じゃない? 俺はただ頼まれた調査を真面目にこなしただけだよ」

「グレイブボアの異常個体が『真面目な調査』で済むか! 報告を聞いた受付が腰を抜かしてたぞ!」


レーヴがけらけらと笑う。

バッシュは盛大な溜息を吐いて頭を振ると、視線を隣のミレアナへと移した。

値踏みするような、鋭い隻眼の光。


「……あんたが噂の新入りか。えらく小綺麗なのが来たもんだが」

「ミレアナです」

「ミレアナ、だと……?」


一瞬バッシュの目が細まった。

その名に、あるいはその気品に何か聞き覚えがあったのかもしれない。

だが彼は深追いはしなかった。

今は個人の素性よりも、森で起きた異常事態の方が優先順位が高い。


「詳しく聞かせろ。嬢ちゃんの口からだ」


「───つまり。西の森でゴブリンが異常増殖。加えて、本来は深部にしかいないはずのグレイブボアが、魔力汚染された状態で浅瀬まで押し出されている、と」


バッシュが腕を組み唸るように言った。


「恐らく、森の生態系に劇的な縄張り変化が起きています」


ミレアナが淡々と、けれど淀みなく答える。


「森の奥に強力な捕食者か、あるいは環境を変容させるような『原因』がある可能性が極めて高いわ」

「根拠は?」

「個体数の推移と魔物の損傷状態よ。グレイブボアの体に、自分より格上の存在に追い立てられた際に付く独特の裂傷があったわ」


即答。

一切の迷いがない。

バッシュの片眉が跳ね上がった。


「……嬢ちゃん随分と慣れてんな。ただの観察にしちゃ視点がプロだ」

「観察して論理的に導き出しただけよ。特別なことではないわ」

「普通の令嬢は、返り血を浴びながらそんな冷静に魔物の傷跡なんて分析しねぇよ」


その言葉にギルド内が静まり返る。

ミレアナは一瞬だけ、言葉に詰まった。

自分の「普通」がここでは「異常」として映る。

その事実に改めて直面し、沈黙が落ちる。


「ま、この人普通じゃないからさ」


レーヴが重い空気を切り裂くように軽く笑いながら口を挟んだ。


「頭はキレるし、度胸はあるし。……その代わり、めちゃくちゃ変わってる。合理的すぎて可愛げがないっていうか」

「貴方にだけは言われたくないわ」

「ほら、これだよ。容赦ないだろ?」


レーヴの道化た振る舞いにギルド内に笑い声が広がった。

張り詰めていた空気が目に見えて緩んでいく。

バッシュはその様子を見て、鼻を鳴らした。


「……まあいい。嬢ちゃんの観察眼が本物なのは分かった」


バッシュは真顔に戻り、声を落とした。


「放置はできん。森の奥を叩く必要がある。……高難度の緊急調査だ」


空気が変わる。

それは誰かが死ぬかもしれない、本物の戦いの合図だった。


「数日以内に精鋭の調査隊を出す。レーヴ、お前も来い。逃がさねえぞ」

「えー。お兄さん、今はのんびりしたい気分なんだけどなぁ」

「拒否権があると思ってんのか」

「……ないですねぇ。了解」


いつもの軽口だが、その瞳に断る気配は微塵もなかった。

バッシュは次に、ミレアナを鋭く見た。


「嬢ちゃんは───」

「行くわ」


即答だった。

レーヴが「早っ、判断早すぎ!」と笑う。

後ろに控えるリオネルはもはや驚きもせず、ただ当然のように沈黙を守っていた。

主人の性格を誰よりも理解し、止めることが無意味だと悟っている者の顔だ。


「危険だぞ。さっきの猪よりヤバいのがゴロゴロいる」

「承知しています」

「死ぬかもしれん。……いや、死ぬ確率の方が高いかもしれんのだぞ」

「理解しています。でも中途半端な場所で事態を傍観し後に被害が拡大するのを待つのは、最も非効率的な選択だわ」


淡々と氷のような落ち着きで返すミレアナ。

周囲の冒険者たちは、戸惑うような視線を彼女に送った。

怖がらない、怯えない。

無謀な勇気に酔っているわけでもない。

ただ冷徹なまでに「必要だから行く」と言い切るその姿。

バッシュはしばらくミレアナを無言で見つめていたが、やがて喉を鳴らすように小さく笑った。


「……はっ、面白ぇ嬢ちゃんだ。ボーデンにゃいなかったタイプだな」

「よく言われるわ」

「嘘つけ。ボーデン来る前にでお前を『面白い』なんて言った奴が、一人でもいたか?」


レーヴの即座の突っ込みに、ミレアナはわずかに瞬きをした。


「……そうかしら。確かに、皆一様に困ったような顔をしていた気もするけれど」

「そこ、自分で肯定しちゃうんだな」


またどっと笑いが起きた。

その輪の中で、ミレアナは少しだけ戸惑っていた。

不思議だった。

王宮では笑われることなど、ほとんどなかった。

皆彼女に気を遣い顔色を窺い、完璧な「公爵令嬢」という偶像を崩さないように接していた。

ここでは失敗すれば笑われ、奇妙なことを言えば突っ込まれる。

なのにそれが、王宮でのどんな称賛よりも妙に心地よかった。


「……変な街ね」


ぽつりと心の声が零れる。

隣でそれを聞き逃さなかったレーヴが、楽しげに笑った。


「嫌いじゃなさそうだね、アンタ」


ミレアナは少しだけ考えた。

自分の中に芽生えたこの「正体不明の安らぎ」に、まだ名前を付けることはできない。


「……まだ、分からないわ」


そう答えた彼女の瞳はボーデンの夕焼けを映して静かに、けれど強く輝いていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ