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知らない感情

「……頼むからさぁ」


低い声。


「自分のこと、もうちょい大事にしてよ」


ミレアナは静かに瞬きをした。

理解が追いつかない。

なぜ、そこまで言われるのか。

王宮では彼女が自分を犠牲にして完璧な成果を出せば出すほど、周囲は「それが当然だ」と安堵していたはずなのに。


「……合理的判断だったわ。あの状況で私が囮を兼ねて急所を叩くのが、最も生存率が高かった」

「またそれかよ。その“合理的”で、目の前で突っ込まれる側の気持ちを考えたことあるか?」

「……?」


本気で分からない、という顔だった。

感情という変数を彼女は計算式に入れたことがないのだ。

レーヴは絶句し、天を仰いだ。

横でリオネルが小さく、けれど重い溜息を吐く。


「……昔からこうだ、このお方は」

「え、昔からなの?」

「ああ。目的達成のためならば自身の負傷を一切厭わず、軽視される。私がいなければ今頃何度死んでいたか」

「最悪じゃん、それ」

「同感だな」


ミレアナは少しだけ不満げに眉を寄せた。


「二人とも、言い過ぎではないかしら? 私はただ、無駄を省いているだけよ」

「言い足りねぇよ!」


レーヴが即答した。

その烈火のような勢いに、ミレアナはわずかにたじろぐ。

……何故だろう。

責められているはずなのに不快ではない。

むしろその熱量に触れていると、胸の奥が妙に落ち着かなくなる。


レーヴがようやく手を離した。

だが完全には距離を取らず、まるで彼女がまた勝手にどこかへ飛び出さないか警戒しているようだ。


「……で」


レーヴが完全に息絶えたグレイブボアを見下ろす。


「これ。普通におかしくないか?」


リオネルが頷いた。


「異常個体だな。魔力による汚染か、あるいは……。しかも森の浅い位置にいた。縄張り意識の強いグレイブボアがこんな街の近くまで出てくるなんて」


ミレアナも静かに周囲を観察した。


「ゴブリンの急激な増加。異常個体の出現。そして縄張りの変化。……まるで森の奥に『これ以上いられない理由』があるようね」

「なんかに追われてる可能性あるねぇ。……もっとヤバい奴にさ」


レーヴの目が細まる。

口調こそ軽いが漂う空気は剃刀のように鋭い。

ミレアナは森の深淵を見つめた。

陽が傾き始め木々の隙間がより濃い闇に染まっていく。

嫌な気配だ。


「……今日は戻りましょう」


リオネルがわずかに目を見開いた。

レーヴもぱちりと意外そうに瞬きをする。


「へぇ。ちゃんと引くんだ? アンタのことだから『根源を叩くわ』とか言い出すかと思ったよ」

「情報は十分取れたもの。今の戦力と装備でこれ以上の不確定要素に挑むのは非効率よ」


感情ではなくあくまで判断。

だからこそ、無理に進む理由もない。

レーヴがふっと毒気を抜かれたように笑った。


「いいね、そういうとこ。潔くて好きだよ」

「褒めているの?」

「褒めてる、褒めてる」


妙に楽しそうな彼の様子に、ミレアナは小首を傾げた。


ボーデンへ戻った頃には、空は溶けた茜色に染まり始めていた。

街の喧騒が耳に届く。

森の不気味な静寂とは正反対の、泥臭くも活気のある日常の音。

冒険者ギルドへ足を踏み入れると、受付嬢のセシルが顔を上げた。


「あっ、おかえ───ええっ!?」


彼女の視線が凍りつく。

返り血で汚れたミレアナ。

服が裂けたレーヴ。

そして、抜身の冷気を纏ったままのリオネル。


「何よそれ! 何があったの!?」

「いやぁ、ちょっとデカいのが出てさ。死ぬかと思ったよ」

「ちょっと!? その格好で『ちょっと』なわけないでしょ!」


ギルド内がにわかにざわつく。


「グレイブボアの異常個体よ」


ミレアナが淡々と事実を告げた瞬間、酒場にいた冒険者たちの顔色が一変した。


「は……? マジかよ」

「あの西の森にグレイブボアだと?」

「しかも異常個体……?」


どよめきが広がる中レーヴがカウンターに肘をついた。


「多分森の奥で何かが起きてる。……かなりマズいことがね。ギルドマスターを呼んだほうがいいよ。これは俺たちの手に負える調査じゃない」


その声音にはもう一分の軽さもなかった。

セシルが顔を真っ青にして奥へ走っていく。

ざわめきが波紋のように広がる中、ミレアナは小さく息を吐いた。


「……疲れた?」


不意に隣から声がした。

レーヴだ。


「別に。この程度で疲弊するほど鍛錬を怠ってはいないわ」

「へぇ、強がるタイプ?」

「事実を言ったまでよ。私は常に最善のコンディションを維持しているもの」

「へぇ……」


レーヴが面白そうに覗き込んでくる。

近い。

本当にこの男は物理的にも精神的にも距離感がおかしい。


「でも、顔色悪いよ。唇も乾いてるし」

「……そうかしら」

「そうだよ」


ミレアナは自覚がなかった。

自分のバイタルサインは常に把握しているつもりだったが、改めて自身の内側に意識を向けてみる。


「……ああ」


彼女は、何かに納得したように小さく呟いた。


「……空腹かもしれないわ。低血糖による集中力の低下ね」


レーヴは数秒間、鳩が豆鉄砲を食ったような顔で固まった。

それから。


「───っ、あっはははは!」

「何故笑うの。至極真っ当な生理現象よ」

「いや、アンタさぁ! 散々カッコつけて『空腹かもしれない』って……っ、最高だよ!」


レーヴが腹を抱えて笑い出す。

つられて周囲の冒険者たちも「なんだ、飯かよ!」「お嬢ちゃん、緊張してたんだな!」とドッと笑い声を上げた。

ミレアナだけが、釈然としない表情で立ち尽くす。


「……やはり意味が分からないわ」

「ほんっと、アンタ面白いわ」


レーヴが笑いすぎて出た涙を指で拭う。

その顔は、さっき森で見せたあの苦しげで切迫した表情よりもずっと自然で、見惚れるほど鮮やかだった。

ミレアナは静かに、その笑顔を見つめた。

そしてほんのわずかだけ、彼女の口元が春の雪解けのように緩んだ。


それを見たレーヴが、一瞬だけ息を呑むように目を見開く。

だがミレアナ自身は、自分が今どんな表情をしているのか全く気づいていなかった。

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