第1話 妻との約束だけは破ってもいい
第1話 妻との約束だけは破ってもいい
結婚七周年の朝、美咲は目覚まし時計が鳴る五分前に目を覚ました。窓の外ではアブラゼミが鳴き、薄いカーテンの隙間から差し込んだ日差しが、寝室の床に細長い帯を作っていた。美咲は薄桃色のパジャマの袖で額を拭き、隣で眠っている健一を起こさないようにベッドを抜け出した。
台所へ入ると、昨夜洗って伏せておいた白い皿に、水滴がいくつか残っていた。美咲はそれを布巾で拭いて食器棚へ戻し、冷蔵庫から牛肉、玉ねぎ、にんじん、白いんげん豆を取り出した。朝食用の味噌汁には大根の端と油揚げを入れ、使いかけの小松菜は傷む前にごま和えにした。
牛肉の表面をフライパンで焼くと、脂の弾ける音と香ばしい匂いが狭い台所へ広がった。美咲は赤い琺瑯鍋へ牛肉と野菜を移し、トマト缶と赤ワインを加えて弱火にかけた。今日は薬局の仕事を終えたあと、駅前の洋菓子店でケーキを受け取ることになっていたため、帰宅してから慌てないようにできることは済ませておきたかった。
「朝からずいぶん豪華だな。何かあるのか?」
健一が白いワイシャツのボタンを留めながら、台所をのぞいた。寝癖のついた髪のまま、紺色のネクタイを肩へ掛けており、片方の靴下しかはいていなかった。美咲が木べらを止めて振り返ると、健一は味見をするための小皿へ手を伸ばした。
「今日は何月何日でしょう」
「八月六日だろ。それがどうした?」
「もう一つ、思い出すことはない?」
「燃えるごみの日だったか?」
「それは昨日。今日は私たちの結婚記念日よ」
健一は一瞬だけ目を丸くしたあと、思い出していたという顔で何度もうなずいた。美咲はその様子を見ながら、食卓に朝食を並べた。昨年も健一は記念日の朝まで忘れており、会社の出張を理由に帰ってこなかった。
「分かってたよ。ちょっと冗談を言っただけだ」
「本当に?」
「七年目だろ。それくらい覚えてるって」
「昨日、夕食は何がいいか聞いたら、何でもいいと言ったじゃない」
「何でもいいというのは、この料理が嫌だという意味じゃないぞ。うまそうじゃないか」
健一は椅子へ座り、焼き鮭を箸で大きく崩した。美咲が作った大根の味噌汁には手をつけず、仕事用のスマートフォンでメールを確認している。美咲は立ったままおにぎりを一口食べ、鍋の火加減を確かめた。
「今日は七時までに帰ってきてね。ケーキも予約してあるから」
「分かった。今日は必ず定時で帰るよ」
「部長に誘われても?」
「断るって。結婚記念日なんだから」
「お義母さんから頼み事をされても?」
「母さんだって、記念日だと言えば分かるだろ」
健一はそう言うと、珍しく自分から花を買って帰ると約束した。美咲は食器棚の奥から、透明なガラスの花瓶を取り出した。前年に使ったあと新聞紙へ包んでしまっていたため、縁には薄く埃が積もっていた。
「黄色いガーベラがいいな。大きな花束でなくていいの。二、三本で十分だから」
「もっと立派な花にしなくていいのか?」
「ガーベラが好きなの。それに、赤い薔薇は高いでしょう」
「俺の小遣いを心配しなくてもいいよ」
「先月、飲み会が多かったと言っていたから」
「仕事の飲み会は遊びじゃないんだ。必要経費みたいなものだよ」
美咲は花瓶を洗い、水切り籠へ伏せた。健一は食べ終わった茶碗を流しへ運ばず、椅子の背に掛けていた灰色のスーツを着た。曲がった襟を美咲が直すと、健一は鏡を見たまま「ありがとな」と短く言った。
午前八時、二人は一緒に家を出た。美咲は白い半袖のブラウスに紺色のパンツを合わせ、低いヒールの黒い靴をはいていた。薬局では白衣に着替えるが、一日中立っているため、帰宅する頃には靴の縁が足へ食い込む。
「今夜、楽しみにしてるからね」
「分かってるよ。黄色いガーベラだろ」
「ちゃんと覚えていたのね」
「俺を信用しろって。じゃあ、また夜にな」
駅の改札前で健一は軽く手を上げ、人の流れに紛れていった。美咲は鞄の内ポケットからケーキの引換券を取り出し、予約時間が午後六時半になっていることを確かめた。紙の端には、健一が好きな「苺多め」という店員の手書き文字があった。
美咲が勤める調剤薬局は、総合病院の正門から横断歩道を渡った先にあった。自動ドアが開くたびに熱い外気が入り、消毒液と湿布薬の匂いが混ざった。美咲は白衣へ着替え、髪を後ろで一つに束ねると、処方箋の束を手に取った。
「佐藤さん、こちらの患者さん、前回と薬の量が変わっています」
後輩薬剤師の田村が、不安そうに処方箋を差し出した。美咲は処方履歴とお薬手帳を確認し、医師の入力間違いの可能性があると判断した。病院へ疑義照会をすると、やはり処方量が誤っており、患者が薬を受け取る前に訂正された。
「助かりました。私、危うくそのまま調剤するところでした」
「気づいたから大丈夫。でも、錠数が急に変わったときは必ず確認しましょう」
「はい。佐藤さん、今日は早く帰るんですよね」
「結婚記念日なの。七年目」
「おめでとうございます。旦那さんと食事ですか?」
「朝から煮込み料理を作ってきたの。夫も花を買ってくるって」
美咲は白衣のポケットに入れた腕時計を見た。午前の受付時間はまだ一時間以上残っており、待合室では咳をする男性と、眠った子どもを抱く母親が順番を待っていた。美咲は浮かびかけた笑みをマスクの下へ隠し、次の患者を呼んだ。
昼休み、美咲は休憩室で小松菜のごま和えと梅干しのおにぎりを食べた。朝、健一が残した味噌汁を保温容器へ入れてきたが、蓋を開けると大根が柔らかくなりすぎていた。向かいに座った事務員の奈緒は、コンビニの冷やし中華から紅しょうがをつまみ出している。
「紅しょうが、嫌いだった?」
「嫌いじゃないけど、午後に患者さんと話すでしょう。口の中がずっと紅しょうがになるのよ」
「それなら、にんにくじゃないから大丈夫よ」
「美咲はいいわね。今日はごちそうでしょう」
「うん。でも昨日、お義母さんから今週末の食事会を手伝ってほしいと頼まれたの。今日くらいは何もないといいんだけど」
「旦那さん、自分のお母さんのことを自分で手伝わないの?」
「健一は仕事が忙しいから」
「あなたも正社員で働いているでしょう。しかも給与は旦那さんと同じくらいじゃなかった?」
美咲は返事の代わりに、保温容器の底へ沈んだ油揚げを箸ですくった。奈緒の言うとおり、美咲の給与は健一とほとんど変わらなかった。けれど健一は、自分には会社の付き合いがあり、美咲には家庭を整える役目があると考えていた。
午後は処方箋が途切れず、椅子へ座る時間もほとんどなかった。高齢の患者へ吸入薬の使い方を説明し、薬の在庫を確認し、閉局前には向精神薬の数を二人で照合した。白衣を脱いだときには肩が張り、黒い靴の中では足の指が窮屈になっていた。
「佐藤さん、あとは私たちでやります。早く行ってください」
「ありがとう。明日の発注表は机の右側に置いてあるから」
「結婚記念日に発注表の心配をしないでください。ケーキが待っていますよ」
後輩たちに送り出され、美咲は駅前の洋菓子店へ急いだ。外はまだ明るく、歩道から立ちのぼる熱気がパンツの裾へまとわりついた。洋菓子店へ入ると冷房で汗が冷え、ショーケースの中には桃のタルトやマンゴープリンが並んでいた。
「佐藤様ですね。七周年、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
「ろうそくは、数字の七と細いものを七本、どちらになさいますか?」
「細いものを七本ください。一本ずつ並べたいので」
店員はケーキの箱へ大きな保冷剤を二つ入れ、金色のリボンを結んだ。白い生クリームの上には苺が七粒並び、中央のチョコレートには「結婚七周年おめでとう」と書かれている。美咲は箱が傾かないよう両手で持ち、途中で花屋の前を通ったが、健一がガーベラを買う約束を思い出して何も買わなかった。
午後七時、美咲はトマト煮込みを温め、じゃがいもをオーブンで焼いた。冷蔵庫では白ワインが冷え、食卓には結婚祝いでもらった青い縁取りの皿を二枚並べた。透明な花瓶には水だけを入れ、黄色いガーベラが来る場所を空けておいた。
七時十分になっても、玄関の鍵は回らなかった。美咲は鍋の火を弱め、スマートフォンを食卓へ置いた。七時二十分になると、健一から短いメッセージが届いた。
『部長に誘われた。これも仕事だから、先に食べてて』
美咲は画面を見たまま、足の甲へ食い込んだ靴の跡を親指で押した。朝から働き、立ったまま昼食を終えたような一日だったが、料理を温め直すため、帰宅してからも一度も椅子へ座っていなかった。今朝の健一は、部長に誘われても断ると言っていた。
返事を打ちかけたところで、義母の和子から電話がかかってきた。受話口の向こうではテレビが流れ、義父がせんべいをかじる音まで聞こえた。和子は挨拶もそこそこに、健一を実家へ寄らせると告げた。
「親戚へ配るお酒が六本届いたのよ。重いから、健一に運んでもらうことにしたの」
「今夜ですか?」
「そうよ。飲み会が終わったら車で来てくれるって」
「今日は私たちの結婚記念日なんです。健一さんから聞いていませんか?」
「あら、そうだったの。でも、結婚記念日なら毎年あるでしょう。親戚が集まるのは今週末なのよ」
美咲は食卓の花瓶を見た。水だけが入った花瓶には、エアコンの風が当たるたびに細かな波が立っていた。酒は明日でも運べるのではないかと尋ねると、和子は大げさに息を吐いた。
「明日は健一も仕事でしょう。仕事のある息子を平日に呼び出すわけにはいかないわよ」
「私も明日は仕事です」
「美咲さんは近くの薬局でしょう。健一は大きな会社で働いているんだから、同じに考えてはいけないわ」
「私は今日も一日働いてきました」
「薬剤師さんは冷房の効いたところにいるでしょう。健一は営業で大変なのよ。妻なら夫の立場も考えてあげないと」
電話が切れたあと、美咲の耳には和子の声が残った。薬局の中は冷房が効いていても、八時間以上立ち続け、薬を一錠間違えれば患者の命に関わる。けれど美咲は、その説明を和子へ何度しても届かないことを知っていた。
美咲は健一へ電話をかけた。三度目の呼び出し音で健一が出ると、居酒屋のざわめきと、焼き物を運ぶ店員の声が聞こえた。健一は店の外へ出ることもなく、大きな声で応じた。
「何だよ。今、部長と飲んでるんだけど」
「今日は断ると言ったでしょう」
「急に誘われたんだから仕方ないだろ」
「朝、必ず定時で帰ると約束したわ」
「俺だって帰るつもりだったよ。予定が変わったんだ」
「お義母さんからも電話があった。飲み会のあと、実家へ行くの?」
「ああ。酒を運ぶだけだから、すぐ終わるよ」
「何時に帰ってくるの?」
「分からないよ。部長がいるのに、俺だけ時計を見て帰れるわけないだろ」
健一の声には、約束を破ったことへのためらいがなかった。美咲は足元へ目を落とし、仕事で一日履いた靴下を脱いだ。むくんだ足首にはゴムの跡が赤く残り、触れると熱を持っていた。
「私も一日働いてきたの。帰ってから料理を温めて、あなたを待っている」
「だから先に食べればいいだろ」
「あなたと食べるために作ったのよ」
「俺は会社の付き合いがあるんだ。お前の仕事とは違うんだよ」
美咲はすぐに言葉を返せなかった。薬局で処方量の間違いを見つけたことも、何十人もの患者へ薬を説明したことも、足のむくみを隠してケーキを受け取ったことも、健一には仕事として数えられていなかった。電話の向こうでは、部長らしい男性が「佐藤、次は日本酒だぞ」と笑っていた。
「私の仕事は、あなたの仕事より軽いの?」
「そういう話じゃない。薬局は時間になれば閉まるだろ。会社員には人間関係があるんだよ」
「私にも患者さんや医師や同僚との関係があるわ」
「いちいち張り合うなよ。せっかくの記念日なのに、喧嘩を売るな」
「記念日に帰ってこないのは、あなたでしょう」
「記念日は来年もあるだろ。会社の付き合いは断れないし、母さんも困っているんだ。子どもみたいに騒ぐなよ」
健一は部長を待たせていると言い、返事も聞かずに電話を切った。居酒屋の音が消えると、部屋にはエアコンの運転音と壁時計の秒針だけが残った。オーブンの中では、じゃがいもの端が茶色く焦げていた。
美咲は青い縁取りの皿を一枚だけ下げ、自分の分の煮込み料理をよそった。牛肉は木べらで崩れるほど柔らかく、豆にもトマトの味が染みていたが、口へ入れると塩味ばかりが舌に残った。白ワインは開けず、朝から冷蔵庫に入っていた麦茶をコップへ注いだ。
食事の途中で、洗濯機が終了を知らせる音を鳴らした。美咲は箸を置き、健一のワイシャツと自分の白衣をベランダへ干した。外には雨の匂いが漂い、遠くで雷が鳴っていたため、結局すべての洗濯物を浴室乾燥機へ移した。
午後九時、美咲はケーキを箱から出した。白い生クリームの上に七本のろうそくを立て、一本ずつ火をつけた。健一の椅子は空いたままで、花瓶には水しか入っていなかった。
「結婚七周年、おめでとう」
口に出した声は、冷蔵庫の動く音に紛れそうなほど小さかった。美咲が息を吹きかけると、七つの火は一度に消えた。焦げた芯から白い煙が上がり、生クリームの甘い匂いへ蝋の匂いが混じった。
午前零時を過ぎた頃、玄関で鍵の音がした。健一は灰色のスーツをしわだらけにし、ネクタイをポケットへ押し込んでいた。服には煙草と焼き鳥の匂いが染みつき、右手には義実家から持たされた大きなメロンの箱を下げていた。
「ただいま。ああ、疲れた」
「おかえりなさい」
「部長が帰してくれなくてさ。そのあと実家へ寄ったから、こんな時間になったよ」
「お酒は運べたの?」
「運んだよ。母さんが助かったって言ってた。親孝行も楽じゃないな」
健一は冷蔵庫を開け、ケーキの箱を見つけた。蓋を少し持ち上げると、上に並んだ苺をのぞき込み、箱の内側についた生クリームを指ですくった。美咲が止める前に、その指を口へ入れた。
「うまいじゃん。明日、一緒に食べよう」
「花は?」
「花?」
「黄色いガーベラを買ってくると約束したでしょう」
「ああ、忘れてた。急に飲み会になったんだから仕方ないだろ」
「駅前の花屋は、居酒屋へ行く途中にあるわ」
「細かいな。花なんて来週でも買えるだろ」
「結婚記念日は今日よ」
「まだ言ってるのか。俺は遊んできたんじゃない。会社の付き合いをして、母さんの手伝いもしてきたんだぞ」
健一は冷蔵庫から麦茶を出し、コップへ注がず容器へ直接口をつけた。飲み終えると、スーツの上着をソファへ投げ、風呂を沸かしておくよう美咲へ言った。美咲はソファに落ちた上着を見たが、いつものようにハンガーへ掛けなかった。
「自分で追い炊きして。私は明日も仕事だから、もう寝るわ」
「何だよ、その態度。薬局は九時に開くんだろ。俺は八時半には会社へ着かなきゃならないんだぞ」
「私も開局前に薬の在庫を確認するから、八時半には入っているわ」
「また張り合うのかよ。面倒くさいな」
健一は浴室へ向かいながら、着ていた靴下を廊下へ脱ぎ捨てた。美咲はそれを拾わず、食卓へ戻った。ケーキの横には、火を消した七本のろうそくが残っていた。
美咲はろうそくを一本ずつ抜き、ごみ箱へ捨てようとした。しかし蓋を開けたところで手を止め、白い小皿へ横一列に並べた。去年の出張、一昨年の義母の体調不良、その前の休日出勤と、理由は違っても、美咲との約束だけは何度でも破られてきた。
浴室から健一の鼻歌と、勢いよくシャワーを流す音が聞こえた。美咲は冷めたトマト煮込みへラップをかけ、使われなかった青い皿を食器棚へ戻した。水だけを入れていた花瓶は流しへ運び、中身を捨てた。
「私の仕事も、私の時間も、あなたのものじゃないわ」
美咲は小さく口にし、台所の明かりを消した。暗くなった食卓には、七本の細いろうそくだけが残っていた。七年分の我慢を数えるには、その本数では足りなかった。




