episode68:言葉の後に残るもの
「うう……今日も使えない」
翌日の朝、庭に出て魔力を流してみたがすぐに体内が気持ち悪くなり、魔力を引っ込めた。
「だから言ってんだろ。そんな簡単に治るもんじゃねえって」
ウッドデッキで涼みながら話しかけてくるアルゼ様。
うう、解せぬ……。
「てか休んどけって言っただろ。何でやる気満々なんだよ」
「……暇なんですよ」
「はっ?」
「もう寝飽きたし、座学も飽きたし、うわあー」
「騒がしいなぁ」
私は日陰にしゃがみ込んだ。
「散歩行きたい……」
「却下」
即答したアルゼ様を私はジロっと見る。
「何でダメなんですか」
「……今は知らなくていい」
なんか隠してるんだよなぁ……。
私は息をつくと、立ち上がった。
「じゃあアイスクリーム食べたい」
「ったく仕方ねえな」
アルゼ様は家の中に戻ると、二つイチゴのアイスを持ってきた。
「これ最後の二つだからな」
「ありがとうございます」
二人でウッドデッキに座ってアイスクリームを食べる。
「おいしいなぁ」
「良かったな」
焦りは禁物。きっと何とかなる。
自分に言い聞かせてアイスを口に入れる。アイスはすぐに溶けて、甘さだけが舌に残った。
それからの数日は、驚くほど静かに過ぎていった。
朝になれば庭に出て、魔力を試してみて、気分が悪くなってやめる。
アルゼ様はいつも通りウッドデッキにいて、いつも通り「無理すんな」と声をかけてくれる。
険悪なわけじゃない。むしろ、アルゼ様はいつも通りに接してくれている。
なのに、私の心の中の焦りだけが、日を追うごとに、じわじわと膨らんでいった。
「……まだ、戻らない」
何度目かも分からない言葉を、私は呟いた。アルゼ様は視線を上げずに返す。
「だから言ってんだろ」
「……分かってます」
でも、分かっていても焦りは消えない。日が経つにつれて、アルゼ様の慰めの言葉さえ「お前はもう無理だ」と諦めを押し付けられているように聞こえ始めていた。
何度目かも分からない朝が来て、同じように庭に立ち、同じように失敗して気分が悪くなるだけの日々が静かに積み重なっていく。
魔法が使えなくなってから、一週間が経った。
あと二日で、学園に戻らなければならない。
どうしよう。
カタカタと震える手を見つめる。
「おい、チビ。ご飯だぞ」
このままでは学園なんか戻れない……。
「チビ?」
無理やり魔力を流し込んだ。心臓がドクンと、嫌な感じに跳ねる。
「……っ!」
体の力が抜けて、ドサリと地面に座り込んだ。
「あ、おい!」
アルゼ様が慌てて駆け寄ってくる。
「……大丈夫です」
絞り出すように言って、呼吸を整えようとする。でも、身体の奥がひどく熱い。さっきまで流れなかったものが、無理やり押し込まれたせいで暴れている。
「……何やってんだ、お前」
アルゼ様がすぐ目の前に来てしゃがみ込んだ。
「魔力、少しなら……戻るかと」
「戻るわけねぇだろ」
その声には、少し怒りが含まれていた。
「毎日言ってるだろ。どうにかしようとして直るもんじゃねえんだって」
いつもの「無理すんな」とは違う、突き放すような物言い。
その言葉が、私の心の中でチリチリと燻っていた焦りに、じわじわと火をつけていく。
アルゼ様には、私の焦りも、恐怖も、ただの無駄な悪あがきにしか見えないんだ─。
私は地面に手をついたまま、噛み締めるように息を吐いた。
「……じゃあ、どうすればいいんですか」
声が震えそうになるのを、奥歯を噛み締めて堪える。その言葉に、アルゼ様は一瞬止まる。風だけが庭を通り抜けた。
「こんな状態じゃ皆の所に戻れません……!」
私の叫びが、静かな庭に響き渡った。
アルゼ様は、驚いたように目を見開いた後、その端正な顔をじわじわと不機嫌そうに歪めていった。
「……戻れないから何なんだよ」
低く、突き放すような声だった。
「何って……! 学園にはみんなが待っています。課外授業でこんな状態だったら皆の足引っ張るし、授業だって遅れるんですよ!もしこのまま魔力が戻らなかったら、私は─」
「私は、何だよ。魔法が使えなきゃお前の価値はゼロになるのか?」
「それは……」
言葉が詰まる。図星を突かれたような、一番触れられたくない部分を抉られたような痛みが走った。
「焦って無理やり魔力動かして、体壊して……。そんなの、ただの馬鹿のすることだろ。周りの目がそんなに気になるか? 皆に置いていかれるのがそんなに怖いかよ」
パチン、と頭の中で、張り詰めていた何かが弾けた。
「怖いに決まってるじゃないですか!」
私は立ち上がり、アルゼ様を睨みつける。悔しさと情けなさで、視界がじんわりと滲んだ。
「アルゼ様みたいに、最初から何でもできる天才には、私の気持ちなんて分かりません! 魔法が使えない自分が、どれだけ惨めで不安か、考えたこともないくせに!」
「……お前、俺が何も失ったことないと思ってんのかよ」
アルゼ様の表情が一瞬だけ、揺らいだ。アルゼ様は口を一回閉ざすと、私を冷たい目で睨みつける。
「お前がそうやって意地張るたびに、誰が看病して、誰がハラハラさせられてると思ってんだ。少しは俺の気持ちも考えろよ!」
「そんなの頼んでません! 私はただ、早く元に戻りたいだけなのに……!」
「……じゃあ、勝手にしろよ」
アルゼ様は低い声で呟いた。
「気に掛けてた俺がバカだったわ」
アルゼ様はそう言い切ると、家の中に戻ってしまった。さっきまでの言い合いが嘘みたいに、庭に静けさだけが残る。
私はその場に立ったまま、動けなかった。
……言いすぎた。
頭では分かっているのに、口が勝手に出ていた。アルゼ様の顔、あの一瞬の冷たい目が、やけに離れない。
「……違うのに」
小さく呟く。
本当は、そんなことを言いたかったわけじゃない。ただ怖かっただけだ。戻れない自分が。置いていかれる自分が。なのにそれを一番近くで支えてくれていたアルゼ様に、八つ当たりしてしまった。
庭の風が、少し冷たく感じる。
私はゆっくりとウッドデッキに腰を下ろした。まだ手が震えている。
謝らなきゃいけない。
分かっているけど、立てない。さっきの言葉が、喉の奥に引っかかっている。
「……アルゼ様」
呼んでも、返事はない。家の中は静かだった。いつもならすぐ返ってくる声が、今日はない。その事実が、じわじわと胸に沈む。
私は涙をこらえて唇を噛んだ。
……バカだなぁ。
心の中で、自分を罵った。それでも、謝る言葉は出てこないまま。庭だけが、やけに広く感じた。
あの日から、アルゼ様との会話はほとんどなくなった。
食事の時間だけ同じ空間にいて、それ以外は顔を合わせない。
謝ろうと思うたびに、言葉は喉につかえた。
そうしているうちに、学園へ戻る日が来てしまった。アルゼ様とは、依然として険悪な雰囲気のままだ。
荷物を持って部屋を出る。廊下は静かで胸の不安を一層掻き立てる。
「あの……アルゼ様」
ダイニングテーブルに座って新聞を読んでいたアルゼ様に声を掛ける。
今言わなかったら後悔する。
私が再度口を開こうとすると、
「……乗り場まで送る」
それだけ言うと、アルゼ様は先に外に出てしまった。
上手くいかない……。
私はがっくり肩を落とすと、後に続いた。外に出ると、相変わらず夏魔蝉が騒がしく鳴いており、強い日差しが焼き付けてくる。
一歩先を歩くアルゼ様の背中は、いつもより遠く、頑なに見えた。
気まずい沈黙に耐えかねて、何度も唇を動かしたけれど、結局一言も話せないまま、街の乗り場へと到着してしまった。
「じゃあな」
アルゼ様が背を向ける。
「アルゼ様、ちょっと待……」
引き留めようと伸ばした手は、非情にも人混みの中に遮られた。
振り返ることもなく、アルゼ様の背中はあっという間に雑踏へと紛れて消えていく。
夏魔蝉の声だけが、いつまでも耳の奥でうるさく鳴り響いていた。




