二十一章 密約
部屋の中央に位置する木製の卓上に置かれた燭台の炎が、室内を薄明るく照らす。
揺らめく灯りが点いた燭台を挟むよう上座に義哲、下座に元昭が座っている。
「君を呼んだのは他でもない。折り入って頼みたい事があるのだよ」
真っ直ぐに目を見据えて言ったのは義哲の方だ。
その表情から、いつものひょうきんで陽気な表情はない。
「頼みとは何でおじゃるか?」
領主の視線を真っ向から受け止めながら聞く元昭。
すると義哲は、こう切り出した。
「小生が摺河を統治するようになって10年以上経つ。その間、そんなに大した問題や揉め事はなかった。しかし、領主という仕事は退屈なのだよ」
「ほう。そうなのでおじゃ?」
「まぁ一国を統治する者じゃから、ある程度の権限を利用することは出来るのだけど……専ら政務は部下達が作った書類に印鑑を押すだけという単純極まりない作業だ。おまけに外に出る時も護衛が必ずついて来る。1人で楽しみたいのに、護衛がつきっきりでいたら窮屈極まりないよ。そういった生活を10年以上続けていたら、自分は何の為に生きているのか分からなくなるのだよ」
義哲は目を逸らさない。
そんな愚痴にも似た言葉に、元昭と秀明は目の前に居る領主が何を言いたいのか測りかねていた。
ここは注意深く聞くべきだ、と直感的に感じた2人は相槌を打って相手の出方を待つ。
「まぁ要は領主という座を引退したいのだよ。楽隠居と言うべきか、退屈な領主生活を送るのはウンザリなのだよ」
「それはそれで良いかもしれぬが、何故それを灰野にではなく麻呂に言うのでおじゃ? それに今の言葉は客人の麻呂達より、長年仕えている灰野達に言うべきではないでおじゃ?」
義哲の言葉に元昭は自分が抱いた疑問を率直に尋ねる。
「小生が引退する話は後程、言うつもりだよ。しかしだね……小生が退屈だという理由で領主を辞めたいと言って、灰野くんが納得するわけがないよ」
元昭の言葉を予測していたかのように義哲は即座に答える。
「経緯はどうあれ、小生は毎日を面白おかしく暮らしたいのだよ。領主という職を10以上やっておるから、これから引退した所で生活に困らない金額は入ると思うよ。けど、国に1日でも主が不在だと国としての機能は失ってしまう。そこで新しい領主が必要になってくる。これは分かるね?」
義哲はそこまで言ってから、一息入れるため食卓に置かれた自分用の湯呑みに入ったお茶を一口啜る。
お茶を飲んで喉の渇きを潤した摺河領主は、元昭の目を見て行った。
「そこでだ、下河くん。君が新たな領主になってみるかね?」
「はぁ……って、おじゃ!? 麻呂が領主に!?」
元昭は今言われた言葉が信じられないような顔つきになり、大きな声をあげる。
「し、静かにしたまえ! まだ、これは誰にも言ってないのだから」
義哲は慌てて人差し指を立て、口元にあてて『シーッ』のポーズをとる。
それにつられて元昭も両手で口を押さえて口を封じるも、その目は未だ驚愕に支配されていた。
「ま、麻呂が領主って……一体、どういうつもりでおじゃるか!?」
動揺を隠せない元昭だが、なんとか平静に保とうとしながら声を小さくして聞く。
それに合わせて義哲も声を低くして説明する。
「さっきも言ったように、小生は引退したいと思っているのだよ。しかし、主が不在では国が成り立たないからね。そこで下河くん、君が新しい領主となって摺河を担ってほしいのだよ」
「それは、さっきも聞いたが……」
「不服かね?」
「いんにゃ、決してそのような事は……むしろ大歓迎みたいな~、という感じでおじゃ」
「なら良いではないか。別に問題があるわけじゃないだろうに」
「大有りでおじゃっ! だいたい麻呂は良いとしても、あの灰野や家臣達が黙っておらんじゃろう。向こうからしてみれば、居候みたいな者であり、その居候である麻呂が領主になるなど……」
「それくらい何とでもなるよ~っ! 領主というのは肩書きを背負ってるだけであって、今は誰がなっても一緒だからね」
「今、さらりと酷い事を言うた気がするが……それは良いとして、それだったら尚更、灰野とかに任命すれば……」
「そうしたら、すかさず君達は追い出されるよ?」
「お、おじゃ……そ、それは……」
義哲の指摘に元昭は言葉を詰まらせる。
一見、何も考えてなさそうな雰囲気をしているものの、見ているところは見ているらしい。
残ったお茶を一気に飲み干してから義哲は続ける。
「それに灰野くんは政務には関しては優秀だけど、当主になるような器じゃないよ」
「何故、そう言い切れるでおじゃ? あやつでは何か欠けているものがあるとでも?」
「それがあるのだよ。ズバリ家柄や家名だよ」
義哲は一呼吸おいてから説明する。
「どの国にでも言えるが、国を統治するにあたり家柄や家名というのは、その人の社会的地位を現しているのだよ。いくら領主という地位があっても、それを誇示するための財力や周囲に影響を出す銘柄がなければ民を納得させることは出来ないからね。家の名前は目に見えず、形だけのものに見えがちだが、時と場合によってはその形は重く、そして必要になるという事だよ。それを考慮すれば一介の武士である灰野が統治した所で、民は果たして彼の政策に納得するだろうか?」
「ううむ……」
義哲の言葉に、元昭は考え込む。
確かに国ではないものの、自分達は以前まで玉虫屋という小さな湯宿を経営していた。
周辺に対する影響とかは分からないが、少なくとも良いも悪いも名前は知られている。
それだけに名前という銘柄は、いかに大事なのかは分かるつもりだ。
ましてや自分は亡き母から歴史から消えた将軍家一門である足川家の血を引いているらしい……。
この事実を目の前に居る領主に打ち明けたら、どうなるだろう。
驚くだろうか、それとも驚いた上で喜んで領主の座を明け渡してくれるかもしれない。
(そう言えば母の遺言書には『国営を配下に任せた』と書いておった。もし、その配下というのが本当に翡翠家であれば……)
そう考えたが元昭は、すぐに考え直した。
玉虫屋時代、自分が摺河を乗っ取るために摺河領主に直談判して摺河を譲ってくれないかと説得する、という提案を秀明と若菜に説明した事があったが即座に暴力と共に却下された。
もし目の前に居る男が、亡き先代の家臣であるとしても、自分の存在を知らないという可能性があると若菜に言われたからだ。
何より当時、国営を任された配下というのは翡翠家ではなく、別の武家だという事もある。
19年という月日で、もしかしたら変わった可能性もあると元昭は考えていた。
その状態で足川家の名前を出したら『面白い冗談だよ』と言われて信じてくれないだろう。
いずれにしても、かつて秀明が忠告したように無暗に足川家を名乗るのはよくない、という事を元昭は、ようやく理解した。
(ここは慎重にいかねばならんの……)
迂闊に自分の正体をバラしたら、もしかしたら今こうして領主の座を譲歩してくれる話をなくすかもしれない。
あくまでも一介の商売人として、ただの玉虫屋の元店主『下河』の名で領主になる事が安全な道かもしれないと判断した元昭は、義哲に敢えてこんな事を聞いた・
「ただの元商人である麻呂に、ここまで目を掛けてくれるのは嬉しく思うおじゃ。じゃが、1つ解せない事があるおじゃ」
「ふむ。何かね?」
「領主は先程、今の地位を手にするには家名も必要だと申したでおじゃるな? ならば尚更、ただの居候である麻呂を領主の座につけるのはおかしいではないかの?」
これに対して、向こうはどう反応を示すか元昭は見たかった。
何を言われても領主の座に就く事は自分にとっても、またとない好機なため応じるつもりでいる。
重要なのは義哲の答え次第で、いかにして自分が相手に変な警戒心を与えずに承諾するか、それだけを考えるだけ。
(さぁ、翡翠は何て答えるかの?)
真っ直ぐ見据えて問う元昭に、摺河領主は何故かニンマリと笑いながら信じられない事を口にした。
「もう芝居はやめないかね、下河くん……いや足川くん」
「っ!!」
まさかの単語を聞かされて、元昭は思わず目を見開いて驚いた。
「………っ」
義哲から発せられた言葉に、元昭は一瞬、自分の耳を疑った。
(こやつは何と言うた? 麻呂の事を下河ではなく……足川と呼んだおじゃ?)
さすがの事に元昭は何度も頭の中で、眼前で座っている領主の言葉を復唱する。
何度も繰り返すが、確かに義哲はハッキリと『足川』という言葉を口にした。
(何故、こやつは麻呂の本名を……いや、下河という姓も本名じゃが将軍家の苗字を……)
思わず「なぜ知っておる」と言いそうになったが、なんとか精神を落ち着かせて動揺を隠すように取り繕った笑顔を見せる。
「あ、足川って……麻呂の名は下河でおじゃるよ? 間違えて貰っては……」
「間違ってはいないよ。君の名前は足川元昭……将軍家の血を受け継いでる者だよ。知らなかったのかね?」
まるで自分の出生を知ってるかのような口振りだ。
元昭は「この男、絶対に何かを握っている」と判断し、わざととぼける事にした。
「りょ、領主よ。麻呂とて足川家の名前くらいは知っておるが、いくら何でも質の悪い冗談でおじゃ。麻呂は一介の商人でおじゃるよ?」
「それは君が自分という存在が誰なのかを知らないからだ。実を言うと、小生も君が足川家の出だと知ったのは昨日なのだよ」
そう言い出して義哲は中身がなくなった湯呑みに、お茶を継ぎ足しながら語り出した。
「小生は元々、足川家に仕えていた武家の出身でね。その頃の足川家は栄華を誇っていたのだよ。しかし、先代当主……つまり君の父君にあたるんだがね? その先代が病で倒れると家臣達による権力争いが絶えなくなってね。先代を支えていた奥方……つまり君の母上は、このままだと足川家は崩壊すると思ったのだろうね。先代が亡くなった後、小生の父に君の母から『摺河を任せる』と言って足川家を抜け出したのだ。それと同じくして将軍家の地位は鹿倉家に奪われてしまい、我が翡翠家は摺河一国を統治する一介の大名に成り下がってしまったのだ」
義哲の説明は、亡き母が書き留めていた遺書と内容は同じだ。
つまり母がある家臣に運営を任せたのは、間違いなく翡翠家である。
だが、それでも安易に頷くような事はせず、元昭はさぞ知らないような素振りを続ける。
「ま、麻呂にそのような過去が……? し、しかし、どうやって分かったでおじゃ?」
「君が名乗っている下河……これは摺河の中では珍しい苗字でね。君の母君は足川家を支えていた家臣の一派・下河家の姫君だったのだよ。その事を、とんと忘れていたのだが……君と初めて出会った日、名前を名乗ってくれたよね? その時に、何処かで聞いた事のある苗字だと思ってね。実は、こっそり調べたのだよ。そしたら、まぁ……まさか君が我が主の忘れ形見だとは思いもしなかったよ」
どこか遠い昔を思い出して懐かしむかのような口調で語る義哲。
そんな彼に元昭は、
(これは、もしかしたら当初の企み通りに行くかもしれぬ!)
と咄嗟に判断し、彼はあくまでも知らない振りをして義哲の話に聞く姿勢に入る。
今、自分達の間に流れている空気が読めない上に迂闊に白状すれば、それはそれで新たな問題の火種になるやもしれない。
それに領主の座を譲ろうとしている義哲の気が変わるかもしれないと元昭は踏んでいた。
「ほ、本当に麻呂が……将軍家の血を?」
「下河家が足川家に嫁いだ記録も残っている。これは確かな事だよ」
「信じられぬおじゃ……」
「確かに、君にとっては信じられない話だと思うだろうが事実は事実だ。受け入れなくちゃ、いけないよ? だからこそ尚更、地位を譲りたいのだよ」
「な、何故に?」
「さっきも言っただろう? 領主という地位は好き放題出来るが、退屈なのだよ。それに、知らなかったとは言え、かつての主君の血を引く者を邸まで引き入れたのは何かの縁だと思ってね。これはもしかしたら亡き先代が『そろそろ地位の座を返してやれ』と言ってるのかもしれないしね」
どうやら義哲は全てを知った上で、今の地位を譲歩するつもりでいるみたいだ。
その表情は至って、いつものように陽気な笑顔を浮かべている。
(麻呂が黒沢や黄山に、この案を出した時には却下されたが……もしかしたら上手く行ってたかもしれんの~)
元昭はそう思い、脳裏に自分をあれほど痛めつけた2人の古株従業員の姿を思い浮かべる。
(ほれ、見よ! 向こうは麻呂に領主の地位を……摺河を与えると言ってくれておるではないか! 最初から、こうすれば良かったのでおじゃるよ)
心の中で脳内に想像している秀明と若菜の姿に「ざまぁみろ」とでも言いたげに叫びながら元昭は無意識に笑みを浮かべる。
自分の考えに狂いはない。
もっと早く実行していれば摺河を容易く手にしたかもしれない。
そう思うと元昭は些か悔しい気持ちになったが、今ようやく自分の野望が動き出すかもしれないと確信した。
だが最後の最後まで安心できないと自分自身を戒め、胸の高鳴りを感じながら期待を込めて聞く。
「領主よ……念の為に聞くが、麻呂が本当に足川家の血を引いていたとしよう」
「うむ」
「麻呂の正体を知った上で領主の座を、摺河を譲り渡すと言うのでおじゃるか?」
「君も案外、心配性だね。大丈夫だとも、今更取り消す事はしないよ。ともかく小生は一刻も早く、この堅苦しい地位から解放されたいのだよ。領主の座も、摺河も全て君に返す事にするよ。もし心配なら証拠として書状を書いても良いのだよ?」
ここで義哲の口からハッキリと確約を頂いた元昭は、すかさず首を縦に振って頷く。
「ならば……書状を書いて貰おうかの。口約束というものは些か信用出来ぬでの」
「良いとも。それで君が納得するのなら」
そして義哲は懐から紙を出して、サラサラと筆を走らせてこう記した。
『摺河領主・翡翠義哲を甲、下河元昭を乙として、甲乙間において以下記載の条件により全権譲渡を締結した。
◎第1条。
本契約は甲と乙との間におき、摺河の統治権譲渡に合意、この書面に各自署名押印した。
◎第2条。
乙が今後、摺河の領主として就任する際、領主としての権限を手にするが、乙が何らかの事情で領主の座を留守にする場合、代理人を立てなければならない。
◎第3条。
領主の国営権限が及ぶのは、あくまでも摺河領内及び支配下にしている土地のみであり、それ以外の領地は適応できない(ただし軍事権限は、いかなる場所でも適応できる)。
◎第4条。
領主が地位放棄の意思を見せ、1週間以内にその意思を覆さない場合、地位を放棄する。
以上、ここに本契約が成立したことを証し、本契約書を2通作成し、甲乙双方が各1通を保有する。
甲 翡翠義哲
乙 下河元昭』
そう書かれた書類を2枚書き、義哲はその1枚を元昭に手渡した。
「これで満足してくれたかね?」
「…………」
元昭は書類に書かれた契約事項の内容を何度も繰り返して黙読し、引っ掛け文がないかどうか確認してから、
「うむ、これで良い」
ようやく警戒を解いて自分の控えを懐にしまい込み、口元を緩める。
「これで実質上、麻呂が領主になるわけなんじゃな?」
「そうだよ」
「となると1つ質問があるんじゃが」
「ん? まだ何かあるのかね?」
「麻呂が摺河の領主になるのは良いとして、座を引退する、そなたは……どうなるおじゃ? まさか国から出る、というわけじゃ……」
「それは全くないよ」
元昭の問いに義哲は湯呑にお茶を淹れながら答える。
「小生は残って、君の補佐にでもなるよ。どちらかと言えば小生は1番より2番手、3番手が性に合ってるからね。それに……」
「それに?」
「何があっても責任を負わされる負担は少ないからね。1番だと全責任がくるからね。あはははははっ!」
そう答えて愉快そうに笑う義哲に、元昭は眉を顰める。
「まさか、それが理由で領主の座がイヤになったわけではあるまいの?」
「下河くん……じゃなくて領主。実は、その通りなのだよ」
「建前と本音をすぐに出すのは、どうかと思うがの!?」
咄嗟に立ち上がってツッコミを入れる元昭だが、そんな彼を上目遣いで見る義哲。
「気が変わったかね? 領主の座を放棄するとか」
「いんにゃ。頂けるものは何でも頂く主義でおじゃ。もっとも麻呂は、返せと言われても返さぬがの。それに……」
「それに?」
「いざという時は、そなたや家臣達の所為にするでおじゃ♪」
扇をバサッと広げて貴族みたいに笑う元昭。
元領主となった義哲は、はっとした顔になって立ち上がる。
「しまった! やられたよ、君には! まさか、その手があったとは!」
「ほほっ。恐れ入ったでおじゃるか?」
「感服したよ、まったく。あはははははっ!」
「にょほほほっ!」
何がおかしいのか2人は、それからしばらく笑っていた。
それから数分後、両者は笑い疲れたのか再度、ゆっくりと椅子に座り、湯呑に新しく入ったお茶を啜ってから顔を真っ直ぐに見やる。
「これから新しき時代にへと入るおじゃ。麻呂を筆頭にの」
「領主就任式は明日以降に行う事にするよ。何かと式典とかで忙しくなりそうだからね」
「翡翠よ。そなたも今日から麻呂の家臣……せいぜい、働いて貰うぞよ?」
「任せたまえ。これで、やっと解放されるというものだよ」
こうして夜に行われた密かな出来事は終わる。
元昭は、懐にしまっている領主譲渡の書類を落とさないよう気を付けながら、自分の部屋へと戻っていく。
まさか義哲が自分の正体を知った上で、領主の地位を譲るといってくれた。
そのために、手書きとは言え、わざわざ書類まで作ったということは形式にも実質にも権限は義哲から元昭に移ったという証拠になる。
元昭は胸の内から高鳴る鼓動を抑えきれず、上機嫌な顔で部屋へと向かう。
(領主就任となれば堂々と足川家を名乗る事が出来るおじゃ。近隣諸国は勿論のこと、花洛は警戒するであろうから、まずは従順する振りをして軍備拡張を徐々にしていくとしようかの♪ 麻呂の日野本征服にとって大きな一歩でおじゃ)
この時点において、元昭は既に摺河を掌握したかのように思えた。
しかし、そんな彼の背中を1つの人影がずっと凝視していた事に元昭は気付かなかった。




