平安時代編第十二話 : 武士の頂、百鬼に挑む
茜色の空が紫黒へと溶けていく黄昏時。
南西の平原を埋め尽くすのは、地鳴りとともに押し寄せる凶悪な黒い波――百鬼夜行の大群であった。
その前に、ただ一人で立つ男がいた。
源野景行。
立ち上る妖気と異臭が鼻をつく。
しかし、景行の胸に去来していたのは恐怖などではなかった。
むしろ、これまで己が愚直なまでに磨き上げてきた武術の頂を、この命のすべてを賭して存分に解き放てることへの――武者震いにも似た歓喜であった。
(武家としての出世など、とうに諦めていたというのに……まさか人生の終着点で、これほどの大舞台に恵まれるとはな)
柄を握る拳にじわりと力がこもる。
抑えきれない笑みが唇を歪めた。
死など恐れるに足りない。
ここにあるのは、ただ己の業を限界まで振るえる喜びに打ち震える、一人の純粋な武士の姿だった。
景行は大きく胸を膨らませ、腹の底からその全てを解き放った。
「オオオオオオオオッ!!」
平原の果てまで届く烈烈たる咆哮。
その声に反応し、黒い波が一瞬の揺らぎを見せ、狂暴な殺気を剥き出しにして一斉に景行へと群がる。
「かかって来い! バケモノどもっ!!」
景行の足が破砕音とともに大地を蹴った。
向かってくる数頭の物怪の喉元へ、間合いすら無視した間欠泉のような刃が走る。
「ハアァァァァッ!」
銀の軌跡が空を刻んだ瞬間、先頭を走っていた物怪の首が、一度に十数体分、宙へ跳ね上がった。
遅れて噴き出す黒い血の雨。
同胞を一瞬で骸に変えられた物怪たちがたじろいだその一瞬を、景行は見逃さない。
「ぬううんっ!」
踏み込み一足。
刃を翻し、さらに深く敵陣の渦中へ飛び込む。
右へ一閃すれば胴が断たれ、左へ返せば頭蓋が砕ける。
洗練された無駄のない体裁きと、刀身に宿る凄まじい遠心力。
まるで鋭利な旋風が平原を突き進むかのように、景行が通り過ぎた後には無数の肉塊と切り離された四肢が転がるばかりだった。
まさに無双。
人間一人対数百の異形という絶対の絶望を、その一刀だけで覆してみせる圧巻の強者。
(まだまだ……! 刃の冴えは衰えん!)
二十、三十、と。
倒しても倒しても、肉を断つ手応えが手に伝わり続ける。
景行の全身は返り血で朱に染まり、眼光は鬼神の如き冴えを見せていた。
だが――敵は、あまりにも多すぎた。
死体の山を乗り越え、肉の壁となって群がる物怪ども。
どれほど鋭い一撃で十数体を薙ぎ払おうとも、その切り口を埋めるように次から次へと黒い波が覆いかぶさってくる。
「ふ、つ……っ!」
次第に、景行の呼吸が荒くなり始めた。
刃にこびりつく肉脂と返り血によって、鋭かった刀の切れ味がわずかに鈍り始める。
一刀で断ち切れていた骨が引っかかり、振るう腕にダイレクトな衝撃が走り抜ける。
「ガァアアッ!」
背後からの死角を突いた爪が、景行の背を浅く引き裂いた。
「チッ……!」
即座に振り返り頭部をかち割るが、隙を見せた瞬間、さらに左右から巨大な腕が襲いかかる。
刀の腹で受け止めるが、数百の圧力がかかった重厚な一撃に、景行の足がズ々と土を削って後退した。
「ハッ……ハッ……!」
四方を完全に囲まれた。
一足一刀の間合いは潰され、周囲を見渡せば全方位から牙と爪が押し寄せてくる。
腕の筋肉は疲労で引き攣り、肩で息をするたびに肺が焼けつくように熱い。
「く……これほどの数、際限がないな……!」
かつて無双の威容を誇った景行の体に、一つ、また一つと傷が刻まれていく。
膝に重い爪を受け、ついに右膝ががくりと土についた。
すかさず集中的に群がる物怪たちの影が、景行の視界と夕日を完全に覆い隠そうとする。
その時、群れを掻き分けるようにして、突如として地鳴りが跳ね上がった。
押し寄せつづける雑兵の頭上を覆い隠すように現れたのは、見上げるほどの影。
体長五メートルはあろうかという、巨大な異形の物怪であった。
「……ガァアアアアッ!!」
鎧のように分厚く硬質な黒い皮殻に包まれた巨躯。
景行は瞬時に踏み込み、その脚へ渾身の一刀を叩き込んだ。
しかし――
ガキィィィンッ!
火花が激しく散り、刀身が甲高い悲鳴を上げて弾き返される。
刀が効かない。
景行が目を見開いた瞬間、頭上から丸太のような剛腕が振り下ろされた。
ゴォッ!
「ぐああぁぁっ!?」
受け流す間すら与えられない圧殺的な衝撃。
吹き飛ばされた景行の体は地を幾度も転がり、岩を砕いて止まった。
胸奥で嫌な骨折音が響き、口から朱の血が激しく吹き出す。
折れた肋骨が肺を圧迫し、息をするだけで激痛が全身を駆け巡る。
だが――その惨状にあっても、景行の瞳から闘志の炎は失われていなかった。
「……ハッ、この程度の衝撃で、俺の足を止められると思うなよ……!」
ゆらりと立ち上がる景行。
巨体が再び咆哮を上げ、丸太の如き拳を連続で叩きつけてくる。
景行は血を吐きながらも、限界を超えた体さばきで紙一重かわし、いなした。
そしてすれ違いざま、巨体の右膝の『唯一の関節の隙間』へ刃を滑り込ませる。
固い皮殻の継ぎ目に、微かな傷が刻まれる。
「一度で斬れぬなら、百度刻むまで!」
回避、いなし、そして反撃。
景行は閃光のような足さばきで巨体の猛攻を交わし続け、ただひたすらに右膝の同じ傷口へと刀を叩き込み続けた。
十度、二十度――絶え間ない刃の集中打。
ついに黒い鎧が砕け散り、深々と肉を削ぎ落とされた巨大な物怪は、悲鳴を上げてその場に崩れ落ちた。
景行の突き立てた刀が、その巨大な頭蓋を穿つ。
どさりと横たわる巨躯の上で、景行は肩で激しく息をついた。
「ハッ……ハッ……。今のが……群れの長か……」
胸の激痛に耐え、血を拭いながら一瞬だけ胸を撫で下ろした、その時だった。
ずがん、ずがん、ずがん――。
周囲の闇から、地響きが四重奏となって押し寄せた。
絶望の影が、影を呼ぶ。
倒れた巨大な物怪の背後から、まったく同じ巨躯を持つ異形が、新たに四体、景行を完全に包囲するように姿を現したのだ。
息を飲んだ景行の額を、冷たい一筋の汗が伝う。
命の限界。
体力の限界。
武器の限界。
死の影が、完全に首元へ突きつけられていた。
だが、源野景行という男の唇は、不敵に歪んだ。
「……上等だ」
擦り切れた握力で、刀を固く構え直す。
「一秒でも長く、一体でも多くコイツらを叩き潰す……! 葵様を残して、こんなところで……俺は死ねないっ!!」
血を吹き出しながら、魂の底から解き放たれた武士の咆哮。
死地を覆うその絶叫に呼応するかのように――
ズザァアアンッ!!
黄昏の静寂を切り裂き、戦場の空から蒼い閃光が眩いばかりに煌めいた。
今回は、とにかく景行を書きたかった回です。
これまで何度も「不器用な武士」と書いてきましたが、この章でようやく彼が命を懸けて守ろうとしているもの、その覚悟を全力で描けた気がしています。
そして、最後の蒼い閃光。
この戦いを、最後までご一緒に駆け抜けていただけたら嬉しいです。
本日12時と21時に続きを連続で投稿予定です!




